第21話 傷みゆく死体です。

 

 ◇◇◇


 緊張の中お迎えしたカプレスク侯爵夫妻は、とても優しい方達だった。姪御様との縁談を壊してしまった私に対して、厳しい印象を持たれているかと覚悟していたけれど……


 金色がかった薄茶の瞳。それと真っ白な肌が印象的な侯爵夫人は、曾お祖母様が北方のご出身ということもあり、私に親しみを抱いてくださったようだ。

 穏やかで口数の少ない方だけど、刺繍という共通の趣味もあり、自然に会話を楽しむことが出来る。

『我が家は男の子ばかりですから。セレーネ様みたいな娘がいてくれたらどんなに楽しかったことか』

 ……と、温かな言葉までくださった。


 降嫁された王女殿下を母君に持つ侯爵様は、王家の血を感じさせる気品と威厳のある方だ。マナーレッスンの時、侍女長から聞いていた通りの愛妻家で、常にご夫人を目で追われている。ご夫人が微笑まれる度に嬉しそうなお顔をされていて、見ているだけで幸せな気持ちになってしまう。

 愛するご夫人と親交を深める私にも、優しく接してくださった。


 心配していたお茶や会食の時間も、病気で普通に食事が摂れないと説明すれば、すんなり納得していただけた。お坊っちゃまと食べさせ合う不思議な光景を、可愛らしいと微笑ましく見守ってくださる。

 辺境伯様と別のお部屋だったり、昼食しか一緒に摂らないことも、私の病気が理由と言えば深く追及されることはなかった。あえて隠し立てしないことが、逆に良かったのかもしれない。


『辺境伯殿は、ご夫人をずっと目で追っていらっしゃるな。伺っていた以上の溺愛ぶりだ』


 愛妻家の侯爵様からそう仰っていただいた程、辺境伯様の演技が素晴らしかったことも、怪しまれなかった理由の一つだと思う。



 非常に和やかな雰囲気の中で、ついに滞在二日目の、夜会の日を迎えることとなった。



 ◇


 まだ陽の昇りきらない早朝、私は一人、庭でダンスのステップを復習する。

 あれだけ練習してきたのだから大丈夫。きっと大丈夫……だと思う……けど……さっきから、左膝が何かおかしい。強張っていて、滑らかに動かないというか。

 本番当日なのに困ったな、緊張しているせいかしらと、踊れば踊る程酷くなっていく。

 痛みが分からない分どんどん不安になって、ジュリが起きた頃を見計らい、診てもらうことにした。



「……膝の軟骨が急激にすり減っています。昨日診た時はここまでではなかったのですが」


「そんな……」


「お伝えすべきか迷っていたのですが……膝以外にも、お身体の劣化が大分進行しています。先日お水を酷く吐かれたのもそのせいかと。このままではあと九ヶ月も持たないでしょう。七ヶ月……早くて……半年」


 半年。想像以上の短さに息を呑む。


「……原因は? ダンスがいけなかったの?」


「膝を壊された直接の原因はそうだと思いますが……大元の原因は……お坊っちゃまの魔力かと」


「お坊っちゃまの? 何故?」


「死んだ細胞が部分的に生き返ることによって、その分負担がかかる細胞もあるのでしょう。魔力で全てが良い方へ作用するかと思われましたが……体温を取り戻したことにより、単純にお身体の傷みも進んでしまいました」


 体温で……そうか…………死体だものね。

 生きている人にとっては良いことが、死んでいる自分には悪い方へ作用してしまう。

 見た目はこんなに健康的になったのに……


「申し訳ありません。とっくに気付いていたのに、お嬢様のご様子を見ていたら……言い出せませんでした。今すぐに、お坊っちゃまの魔力を摂取するのを止めていただければ、もっと期限は伸ばせると思います」


「……お坊っちゃまの魔力が体内から消えてしまったら、また元の、気味の悪い見た目に戻ってしまう?」


「……はい。恐らく」


「だったらこのまま摂取し続けるわ。お坊っちゃまを怖がらせたくないし……何よりあんなに嬉しそうにご飯をくれるお坊っちゃまに、今更食べられないなんて言えない」


「お嬢様」


「大丈夫よ。早めにお別れする覚悟は出来ていたし。……ごめんなさいね、ジュリ。私がお坊っちゃまとの食事を楽しみにしていたから、言い出せなかったのよね」


 いつもは表情に乏しい彼女が、辛そうに顔を歪めて下を向いている。身体は細いのに、スカートの上で固く揃えられている両手は、ふっくらと瑞々しい。

 どんな事情があって、死体の世話なんかを押し付けられてしまったのかは知らないけれど……嫁ぐ前から約四ヶ月を共に過ごした彼女は、きっとまだ、とても若いと感じていた。自分と同じくらいか、もしかしたらもっと。

 私はその愛らしい両手を握ると、軽い調子で言った。


「……さっきはお坊っちゃまの為だなんて言ったけどね、本当は私の為なの。ご飯を美味しく食べられることも、誰かと一緒にご飯を食べられることも、すごくすごく幸せで。だから、たとえもっと早く教えてもらっていたとしても、私は何も変わらなかったわ。この幸せを失ってまで、長生きしたいとは思えないし。……あ、生きている訳じゃなかったわね」


 ふふっと笑う私に、ジュリは何とも複雑な表情を浮かべる。


「それにね……辺境伯様に、もう二度とあの気味の悪い姿を見られたくないの。ほんの少しでも綺麗だって思ってくださるのなら……この姿のままでお別れしたい」


 出そうとしなくても、ほろほろと勝手に溢れる涙。それは冷たい胸を温かく包んで、上手に癒してくれる。


「馬鹿よね……どうせお別れするなら、いっそ気味の悪い姿で嫌われてしまった方がいいのに。馬鹿よね」


「お嬢様……」


 ジュリは私の手から両手を抜くと、逆にその手で包み込んでくれる。何も言わず、ただそうしてくれる優しさに、更に熱い涙が溢れ落ちては彼女の手を濡らしていく。

 もしかしたらこの涙も、身体を傷めてしまうのかもしれない。それでも……泣けて良かった。

 本当に良かった……



 ◇


「なんとお綺麗な……」

「まるで美の女神様ですわ」


 優秀な侍女達の手で、精一杯華やかにしてもらった私は、鏡の中でただ不安そうな顔をしている。みんなが褒めてくれる程、美しいとも綺麗だとも思えず、思うように動かない膝のことばかりを考えていた。


 フロイターゼワルツは、大抵夜会の終盤に流れるワルツで、夫婦や恋人などのパートナーと踊る。本当は……最初のワルツでパートナーと踊った後、お客様とパートナーを交替しながら何曲か踊り、フロイターゼワルツで締める流れが良いらしいけれど。今の状態で、とてもそんなには無理だわ。

 身体の負担にならないようにと、元々靴のヒールは低めだし、ドレスも装飾を省いて出来るだけ軽く仕立ててもらった。それなのに……

 失敗したらどうしよう。お役に立てなかったらどうしよう。


「さあ、旦那様がお待ちですよ。何と仰るか楽しみでございますね」


 満面の笑みを浮かべる侍女長の手を取り、ゆっくり立ち上がる。大丈夫……歩く分には、何も問題ない。



「旦那様、奥様のお支度が整いました」


 開かれたドアの向こう────

 そこに立つ彼の姿に、ボロボロの心臓がドクリと脈打った。

 襟と袖に華やかな銀糸の刺繍が施された、黒いチェスターコート。そこからスラリと伸びる長い足は、シンプルな黒いトラウザーズに包まれており、銀の繊細なバックルが光るドレスシューズがそれを引き締める。

 グレーのシャツに艶々と輝く絹地のクラヴァットは、鮮やかなアイスブルー。浮いてしまいそうなその色は、同じ色の瞳を持つ彼だからこそ、美しく調和していた。


 アイスブルー……

 はっと我に返る。このドレスを纏った自分は、今、彼の瞳にどう映っているのだろう。


 急に怖くなり顔を伏せていると、何とか絞り出したような、掠れた声が降ってきた。


「……綺麗です。とても」


 その言葉は、書面上の夫婦であり、今日の夜会を共に過ごすパートナーとしての礼儀から来るもの。

 きっとそう……そうだと決まっているのに。いつもとは違う温度を感じて、上を向いてしまった。


 薄い唇の……その上のツンと高い鼻の……そのもっと上のアイスブルーの瞳は、私を見下ろしユラユラと揺れている。輝いているのか、それとも憂いているのか。その真意は分からないままに、私の胸から熱い言葉が溢れた。


「貴方も素敵です。とても」


 すると辺境伯様は、くしゃりと目元を垂らしながら、せっかく整っていた前髪を指で無造作に掻く。サラサラの黒い髪が、数本ハラリと額の上に落ちてしまった。


 本当に……少年みたい。お坊っちゃまと大して変わらないわ。


 溢れるものが、私の身体を勝手に動かす。足が彼に歩み寄り、かかとを上げて背伸びさせたかと思えば、今度は手が、落ちた前髪を掬って整えてしまった。

 ……綺麗な額が見えたと同時に、近過ぎる距離に気付く。吐息や胸が触れ合ってしまう程の……

 ピシッと固まる辺境伯様に、私は慌てて離れ頭を下げた。


「……申し訳ありません」


 互いに無言で立ち尽くしていると、ドアの外で待機していた侍女長に、ねっとりと呼び掛けられた。


「旦那様……そろそろ……侯爵夫妻のお支度も整う頃かと……」




 シャンパンゴールドの礼服を着た侯爵夫妻と合流すると、辺境伯様の腕を取り、お客様をお迎えする為に玄関ホールへ向かう。

 侯爵夫妻もお坊っちゃまも、私のことを綺麗だと褒めてくださり、少し心が軽くなっていた。

 青紫色の礼服を優雅に着こなすハーヴェイ様は、今日は珍しく口数が少ない。けれど、「義姉上のサポートはお任せください」と力強い言葉をくださった。



 事前に聞いていた通り、お客様は本当に様々な個性をお持ちだ。内心驚きはするけれど、どの方も、ご自分を大切にしていらっしゃることに感動する。小麦色の肌には、鮮やかな黄緑色のドレスがよく映えるし、赤い瞳に深紅のジャケットも素晴らしい。彫りの深いお顔に負けない大きな羽根飾りや、長く細い足を魅せる膝丈のドレスだって。自分の魅力をこんなにも引き立てられるのは、自分を理解し認めているからなのだろう。

 挨拶を交わしていく内に、私の異様な容姿もこれで良いのだと、そんな風に思える気がしてきていた。



 全てのお客様をお迎えし、辺境伯様と足を踏み入れたホールは、ダンスの練習をした時とは全く違う雰囲気に包まれていた。

 楽団による美しい音楽と、煌びやかな照明。それを浴びながら笑い合う人々は、誰も彼もが満開の花に見える。色とりどりのこの中心で……辺境伯夫人として、そして愛されている妻として、堂々と咲き誇らなければいけない。


 高まる緊張が、忘れていた違和感を膝に呼び起こさせる。

 辺境伯様にダンスのことをご相談したら、気を遣わせてしまうだろうか……でも万一動けなくなって醜態を晒すよりは……と考えあぐねていると、アリボン国の宰相様が近付いてきた。

 確か……辺境伯様と政治の話をするのがお好きな方だから、気を利かせてお傍を離れた方が良いと、侍女長から教わっていたわ。


 挨拶だけ交わして少し距離を置けば、宰相様は満足気に微笑む。

 この対応で良かったのだわ……と息を吐いていると、ハーヴェイ様がやって来て、お坊っちゃまの魔力入りのグラスを手渡してくださった。

 お礼を言おうと口を開くより先に、すっと腰を屈められ、耳元で静かに問われた。



「……足、大丈夫ですか?」

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