第20話 変わってしまった死体です。

 

 “本当の妻”


 それはきっと、辺境伯様の前の奥様であり、お坊っちゃまの実のお母様のことで。仮初の妻である、自分の立場を改めて思い知らされる。

 理解しているはずの現実が、心臓を貫き激しい痛みをもたらした。


「彼女が亡くなってから、兄上は屋敷の庭中に植えられていたマリーゴールドを、全て処分するように命じました。彼女にかかわるものを、目にすることが辛かったのでしょう。一時は、母親似のヘリオスのことさえ」


 だから……だからあの時、私の刺繍を見てあんなにお怒りに……

 お坊っちゃまと会ったことを意味する金色の何かと、奥様の想い出のマリーゴールド。両方で辺境伯様を刺激し、苦しめてしまったのだわ。



『相手がどんな女性であれ、一生再婚などしたくなかったのに』



 頭に浮かぶ言葉。心臓を貫いた現実が、まだ無傷だった部分までも残酷にえぐり始める。

 辺境伯様の哀しいお顔も、激しい怒りも……濃い影も。全ては奥様への愛に繋がっていた。


 何も言えずに下を向いていると、いつの間にかハーヴェイ様が前に立っていて、私の腕にうさぎを抱かせてくれた。ハーヴェイ様の熱が移ったふわふわの毛が、冷たい身体の芯を痺れさせる。


「……。兄上が何故君をこんな端の部屋に閉じ込めて、君の痕跡を残したくないと言ったか、もう分かるだろう? ヘリオスがあんなに君に懐いているのだって、本当は快く思っていないはずだ。……あと九ヶ月でここを去る仮初の母親に、情など湧いたら後が大変だからな」


 情など湧いたら……その通りだわ。

 お坊っちゃまが可愛いくて、あまりに幸せで……一緒に居られたら嬉しいと、自分のことばかりで。

 詳しい事情を知らなかったとはいえ、いずれお坊っちゃまに寂しい思いをさせてしまうことは想像出来たのに。どうしてもっと深く考えられなかったのだろう。

 お手紙のやり取りも、昼食のことも、辺境伯様がどんな思いで許してくださっていたか……


 自分への嫌悪感に再び下を向けば、ふわふわの耳に頬を撫でられ、何かがこぼれ落ちそうになる。

 ……泣く資格はない。泣いて楽になる資格は、私にはない。

 唇を噛んで堪えていると、熱い手が肩に置かれた。


「あと九ヶ月経ったら、君はこの生活から自由になれる。それまでに僕が責任を持って、幸せになれる再婚相手を探すから」


「さい……こん?」


「心配しなくていい。君程の女性なら、離縁歴なんて関係ないくらい良い相手が見つかるよ。性格、容姿……君の希望に合う、最高の男を紹介するから。まあ金持ちなのは必須条件だとして……」


 私はぶんぶんと首を振り、キッパリと言った。


「私は再婚はしません。役目を終えたら実家に帰って、一生を……過ごします」


 ハーヴェイ様は目を見張り、矢継ぎ早に問う。

「……再婚しないで、実家で暮らす? 一生? 何故?」


「それは……」と答えようとした時、怒気をはらんだ低い声が部屋を這った。



「……何をしている」


 振り向けば、小さな篭を持った辺境伯様が、部屋の入口から私達を睨みつけていた。


「おや、兄上も何かご用ですか?」


 全く動じず、微笑みながらさらっと呼び掛けるハーヴェイ様。辺境伯様は篭をテーブルに置くと、つかつかとこちらへ近寄り、私の肩からハーヴェイ様の手を払いのけた。


「部屋にまで来るとは、一体何を考えているんだ」


「急用があったんですよ。ドアは開けっ放しにしていたのだから、問題ないでしょう。義姉上が部屋から出られないのだから、こちらから会いに伺うしかないじゃないですか」


「……急用とは? まさかあの箱の山じゃないだろうな」

「いけませんか? うさぎへの贈り物をすぐにお渡ししたかったのですよ」

「使用人に運ばせればいいだろう」

「嫌ですよ。贈った相手がどんな反応を示してくれるか、直接見たいじゃないですか。……なあ?」


 うさぎの頭をぐりぐりと撫でるハーヴェイ様に、辺境伯様は少し複雑な表情をする。


「……それなら、用はもう済んだだろう」

「そうですね。喉が渇いていたので、本当はお茶でも頂きたかったのですが……ご夫婦水入らずでどうぞ」


 ハーヴェイ様は軽快な足取りでドアへ向かうと、こちらを振り返って楽しげに言った。


「うさぎの服、楽しみにしていますよ。


 部屋を出るハーヴェイ様と入れ替わりに、給仕が二人分のティーセットを載せたトレイを手に入って来る。

 テーブルが荷物で一杯なのを見て、ソファーのローテーブルへ置くと、素早く出て行った。


 ドアが閉まるや否や、辺境伯様はテーブルに置いた篭を取りに行き、私へすっと差し出す。さっき程の怒気は感じないが、眉間にはまだ皺が寄っている。


「ヘリオスのおやつに作らせたのだが……君にもと思って」


 ふわりと漂う、甘く香ばしい匂い。中を覗けば、うさぎの顔の可愛いクッキーが沢山入っていた。


「お茶の用意もさせたが、どうやら邪魔だったようだな」


 篭を引っ込め、ぷいと横を向く辺境伯様のお顔は、お坊っちゃまがぷうと膨れる時と似ていて……。温かくて切ないものに、傷だらけの心臓が締め付けられる。


「……ありがとうございます。可愛いうさぎを、お茶と一緒に頂いてもよろしいですか?」


 辺境伯様の口角が上がる。ソファーへ向かう彼の眉間からは、もう皺は消えていた。




「君のお茶はこっちだ」


 二つ並んだティーポットから、金の薔薇が描かれている方を取り、カップへ注ぐ辺境伯様。こちらにはお坊っちゃまの魔力をかけてくださっているのだろう。赤茶色の水面は、歪んだ私を映しながらも、キラキラと美しく輝いている。


「さあ、冷めない内に」


 勧められ口にした紅茶も、クッキーも。温かく優しく溶けていく。辺境伯様は自分のお茶にはほとんど手を付けず、私のことをじっと見つめている。やがて、カップの取っ手をいじりながら、ぼそっと呟いた。


「……もっと喜ぶかと思ったんだがな」

「え?」

「クッキー。あの箱の後では霞んでしまうか」


 遠くのテーブルをチラリと見て寂しげに笑う辺境伯様に、私は声を張り上げた。


「いいえ! いいえ……嬉しいです。可愛すぎて、食べてしまうのが勿体ないくらい」


「そうか?」


「はい。クッキーだけじゃなくて……こうして私の為にお茶を用意してくださったことも、お茶を淹れてくださったことも、一緒にお茶を頂いていることも。全部……とても、とても嬉しいのです」


「……そうか」


 優しい声と共に、目元がくしゃりと垂れた。


 この笑顔も……きっと奥様への愛に繋がっている。いいえ、繋がっているのではない。奥様への愛が、辺境伯様の全てなのだわ。

 じわじわと疼く痛みに、今までの激しい動悸が、ときめきであったことにも気付いてしまった。


 辺境伯様はすっかりぬるくなってしまっただろうご自分のカップに口を付ける。水のようにごくごくと飲み、一息吐かれたタイミングで、私は尋ねた。


「……私は、旦那様のお役に立てましたか?」

「役?」

「はい。私との契約結婚は、旦那様のお役に立てましたか?」


 アイスブルーの瞳が戸惑いに揺れる。


「……ああ。もちろん。役に立ったよ。これからもきっと、役に立つ」


「……ありがとうございます。ご期待に応えられるように、辺境伯夫人として、心を込めて侯爵夫妻をおもてなし致します。夜会のダンスも……技術面では足を引っ張ってしまうと思いますが、精一杯 “妻” を演じます」


「そんなに……無理はしないでいい。君はもう、充分頑張ってくれている。後は私がサポートするから」


 戸惑いの中で、パクパクと動く薄い唇。私は息を吸い込むと、ハーヴェイ様みたいに軽やかな笑みを作った。


「侯爵夫妻が帰られたら……私はヘリオス……お坊っちゃまと、昼食を頂くのは止めます」


「……何故?」


「ずっと辺境伯様のお優しさに甘えてしまっていたのです。私を慕ってくださるお坊っちゃまが、いずれ寂しい思いをされてしまうとも考えず」


 辺境伯様は黙っていたけれど、その辛そうな表情は、私の言葉を肯定していた。


「お手紙交換と、聖なる日を過ごさせていただければ、私はそれで充分です。……今から徐々に、お別れの準備をしなくては」


「……お別れ?」


「はい。もう九ヶ月しかありませんから」

「九ヶ月……? まだ……まだ九ヶ月もあるじゃないか」

「あっという間です。楽しい時間は特に」


 辺境伯様はカップを唇に当て、底に残っていた全てを飲み干した。冷めた紅茶が喉を流れたせいか、その手は少し震えている。

 何かに曇ったアイスブルーが、篭のうさぎ達をぼんやりと見つめた。


「もう食べないのか?」

「はい。後は大切に包んで取っておきます。お坊っちゃまのお菓子は日持ちがしますので」

「……また焼くのに。幾らでも」

「今日のこのクッキーと同じものは、二度とありません。それに……明日が来るとは限りませんから」



『次は……未来は、当たり前にはやって来ない』



 あの日のハーヴェイ様の言葉が、哀しい胸をふっと過った。




 ◇◇◇


 別れの準備をしたいと言ったあの日から、彼女はどこか変わってしまった。それは、どこと訊かれても上手く答えられないくらいの繊細な変化で。

 深い霧の中に、心を置いてきてしまったような……笑っていても、本当は笑っていないと感じるような。今までの彼女とは明らかに違う変化だった。


 ダンスの練習をしていても、星空の下で踊ったあの時の一体感は生まれなかった。金色の瞳に視線を合わせてみても、それは自分を通り越してどこかを見ている。

 頬が触れてしまいそうな距離とは反対に、心はどんどん離れていく気がした。


 ……別に構わない。フロイターゼワルツをこれだけ踊ることが出来れば、ハーヴェイの言う通り、表面上は仲睦まじい夫婦を演じることが出来るのだから。



『精一杯 “妻” を演じます』



 そうだ。心など……別に……


 そう思えば思う程、剥き出しの心臓が抉られる。……もう、鎧なんかとっくに無くなっていて。新しいものを作ることも出来なくて。


 痛みに耐えている内に、とうとう侯爵夫妻の訪問の日を迎えてしまった。


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