第19話 壊れそうな死体です。

 

 ◇◇◇


 セレーネの部屋を後にしたキリルは、薄暗い自室に入ると、ベッドに仰向けに寝転がった。

 激しい鼓動から少しでも楽になろうと、片手で胸元を押さえ、片手で襟のボタンを外す。



 あんな夜中に部屋を訪れたりして…… “普通” の夫婦ではないのに、非常識にも程がある。

 自分の行いに深いため息を吐くと、両手で顔を覆った。


 彼女の笑い声に誘われて、気付けば勝手に足が向かっていた。話なんか別になかったのに、招かれるままに中へ入ってしまって。


 ……彼女と話すと苦しくなる。アイネを失ったあの日以来、幾重にも重ねてきた心の鎧が、簡単に剥がれてしまうから。

 聖なる日に見たあの金色の雫は、鎧の下の脆い部分をえぐり続けて。ずっと、ずっと頭から離れない。

 避けていたのに……月一回の聖なる日と、侯爵夫妻の滞在中以外は、彼女との接触を避けるつもりでいたのに。

 ハーヴェイが来て勝手な行動をしてから、色々と狂い出してしまった。


 彼女を抱いて部屋まで運んだのは使用人の手前。一緒に昼食を摂るようにしたのはヘリオスの為。さっき部屋に行ったのは……一晩中起きているという真偽を確かめたかったから。ただそれだけだ。

 それだけのこと……だが……



 キリルはガバッと身体を起こし、ベッドの縁に座り直す。



 うさぎは百歩譲って認めるとして、フロイターゼワルツは駄目だ。あれは、恋人同士が愛を交わす為のワルツだぞ? 何度も顔を近付けるし、身体の密着度も高い。

 あれを……ハーヴェイと踊っていた? 難易度以前の問題だろう。


 あの瞳で見上げられたら……女好きのハーヴェイに限らず、男なら誰でも……

 夜空の星を浮かべ潤んでいた、美しい金色を思い出し首を振る。

 契約結婚と言えども、一年間は自分の妻なのだから。責任を持って、きちんと “保護” しなければ。



 それは逆に、一年後には自分のものではなくなるという考えに行き着くが、あえてキリルは気付かないフリをする。

 一年後ではなく、もう九ヶ月しかないことも……


 振り返り、ベッドに放っていたあのハンカチを手繰り寄せれば、輝く銀色の鳥にハーヴェイの笑顔が重なった。

 黒いもやもやしたものがキリルの心臓を捏ね回し、何やら嫌な予感へと導く。手で鳥を覆いながらそれを掴むと、立ち上がり、戸棚の奥深くにしまいこんだ。




 ◇◇◇


 辺境伯様の声、瞳、そして温度────

 彼の何もかもが、頭からも胸からも離れない。


 壊れたと思った心臓は、異常がないとジュリに言われてホッとしたけれど。

 それでも切なくて切なくて……侍女長のマナーレッスンも上の空で聴いている内に、とうとうお昼になってしまった。


 こんな状態で、また辺境伯様のお顔を見てしまったらどうなるのだろう。それでも会いたいと思う自分と、どうか今日はいらっしゃいませんように……と酷いことを願ってしまう自分が居る。



 ……もちろんそんな身勝手な願いなど、神様は聞き届けてくださらない。

 食卓に着く辺境伯様の姿に、喉までせり上がる鼓動を呑み込む。


「義姉上……ご気分でも?」


 胸にずっと手を当てていた自分を見て、向かいのハーヴェイ様が心配そうに尋ねてくださる。申し訳ない気持ちになり、手を元気に振りながら答えた。


「いえっ、大丈夫です」

「お勉強が続いてお疲れなのでは? 義姉上は根を詰め過ぎてしまう所がありますので」

「いえ……もちろん緊張はありますが」

「侯爵夫妻なんて、ぬいぐるみだと思えばいいんですよ。そうだなあ、豚とか牛とか」


 正装をした豚と牛のぬいぐるみを想像し、私は吹き出してしまう。


「うさぎは元気ですか?」

「はい。沢山お話をして、すっかり仲良くなりました。私のお部屋も気に入ってくれたみたいです」

「それはよかった」

「素敵なお友達をありがとうございます」

「いいえ」


 グラスを乱暴に置く音が、和やかな雰囲気を引き裂く。恐る恐るそちらを向けば、辺境伯様が険しい顔で、手つかずのお皿に目線を落としていた。


 きっとうさぎの話をしていたからだわ……



「お義母様、次はお魚を食べたいです」


 お坊っちゃまの可愛い声に救われ、あーんと開いたお口にフォークを運ぶ。お坊っちゃまも、魚を載せたフォークを私へ運んでくれた。

 こうして食べさせてもらうご飯は、いつも本当に美味しい。美味しい……けど…………頭も胸も一杯で、今日はいつもより味が分からない気がする。せっかくのご飯なのに勿体ないなあ。あと何日……何回食べられるかも分からないのに。


 小さなお口をナプキンで拭ってあげていると、辺境伯様が静かに言葉を発した。


「……セレーネ。今日から、ダンスは私と練習しよう」

「旦那様と……ですか?」


「ああ。フロイターゼワルツは難しいし、本番で踊る相手と練習した方がいい。午後一時間くらいなら時間も取れるし……夫婦なのだから、夜練習しても構わないだろう。、部屋に行く」


「……本気ですか? 兄上」


 怪訝な顔で辺境伯様へ向かうハーヴェイ様。その空色の瞳には、今までに見たことのない色が浮かんでいる。


「ああ。何か問題があるか?」


「……正直に申し上げますと、兄上が義姉上とダンスを……フロイターゼワルツを踊れるのか心配です。技術面ではなく、別の面で。本番だけならまだしも、練習で何度もなんて」


 含みのある物言いに、辺境伯様はキッパリと答える。


「夜会を成功させる為だ。余計な心配は要らない」

「そうですか……それならよろしいのですが」

「……今まで任せていて悪かったな。もう今日から、お前はセレーネと踊らなくていい」

「……かしこまりました」


 それだけ答えると、ハーヴェイ様は黙々とフォークを運ぶ。皿に伏せた空色の瞳からも、その表情からも、何も読み取ることは出来なかった。


 これから夜会までずっと、辺境伯様とダンスを……

 鼓動を呑み込むのに必死で、ついに味は全く分からなくなってしまった。



 ◇


 その日の夕方のことだった。

 午後から早速始まった辺境伯様とのダンスの練習を終え、私はぐったりとベッドに横たわっていた。何度も壊れそうになった心臓に手を当てていると、忙しないノックの音が響く。ジュリでも辺境伯様でもないと直感的に分かり、首を傾げながらドアに近付いた。


「はい」

「私です……早く……早く開けて……!」


 ハーヴェイ様?


 ドアを開けると、お顔が見えないくらい沢山の荷物を持ったハーヴェイ様が立っていた。ふらふらと辛そうな様子に、とりあえず荷物を受け取ろうと手を伸ばすも、それを躱して部屋に入ってしまう。

 夫以外の男性を一人きりの部屋に入れるのは……とドアを開けたままオロオロする間に、ハーヴェイ様は全ての荷物をテーブルに置き、ふうと汗を拭った。


「いやあ、よく落っことさなかったな。まるでサーカスのピエロになった気分だ」

「あの……これは……」

「急に午後が暇になったので、出逢いを求めて街へ繰り出したんですよ。ですが好みの女性とは全然出逢えなくて。気晴らしに買い物をしていたらこんな量に」

「そうなの……ですか」


 改めてテーブルを見れば、大小様々な箱や袋、筒みたいなものまで沢山。幾ら大柄なハーヴェイ様とはいえ、屋敷の端っこの部屋まで一人でこれを運べたのは、本当にピエロの曲芸並みなのだと思う。……見たことはないけれど。


「全部うさぎへの贈り物です。さあ、開けてみてください」

「うさぎへ?」


 椅子に座るうさぎが、テーブルを見つめて金色の瞳を輝かせているように見える。躊躇っていると、ハーヴェイ様はうさぎの向かいに座り、さっさと箱や包み紙を開けていく。

 中から現れたのは、布にレースにボタンにビーズに毛糸……とにかくものすごい量の手芸の材料だった。


「うさぎを買った玩具店に、ぬいぐるみの服も売っているんですけどね。貴女ならご自分で作った方が楽しいかと思いまして。本当は駄目らしいのですが、型紙も手に入れました。女性店員に甘い声で囁いたら、一枚こっそりくれましたよ」


 ほら、と見せられた可愛い型紙に、胸がときめいて思わず受け取ってしまう。


「布も長めに買ったので、余った分で貴女もお揃いの服を作れそうですよ。侯爵夫妻が無事に帰って、マナーレッスンもダンスの練習もなくなったら、また退屈になるでしょう?」


「……ありがとうございます。ですが、こんなに頂く訳には」

「うさぎにだと言ったでしょう。辺境伯夫人の立派なぬいぐるみが、いつまでも裸では可哀想ですから」

「うさぎに……」

「はい。うさぎにです」


 うさぎをくださった時と同じ優しい瞳。胸が温かくなり、ふんわりと笑みを交わした。

 本当にいいのかしら……ろくにお礼も出来ないのに。


 ふと、あのハンカチのことが頭を過った。ハーヴェイ様なら、たとえ要らなくても何か仰ってくださると思うけど。まだ夕べのことだし、単にお忙しくて、辺境伯様がお渡しになっていないのかもしれない。それとも、素人の手作りなどハーヴェイ様には相応しくないと判断されて、お渡しになる前に処分されたか。……ハンカチを見て怒っていらっしゃったのは、そういう理由かもしれない。

 ならばこちらから訊くのは止めようと、胸にしまいこんだ。



「……いい庭ですね」


 ハーヴェイ様はうさぎを腕に抱くと、背中をポンポンと叩きながら中庭へ出る。

 花壇の前で長い足を止めると、夕陽色に染まりゆく花達を見下ろして呟いた。


「やっぱり、ここにもマリーゴールドはないんだな」


 室内に居る自分の耳にまで、ハッキリ届いてしまった言葉。嫁いだ翌日、同じ場所に立っていた辺境伯様と、彼の姿が一瞬で重なる。


「マリー……ゴールド」


 それが咲いていた場所で、何も知らずに夕風に吹かれる、代わりの黄色い花。

 彼はその花から私へ視線を移すと、あの日の辺境伯様と同じ濃い影となり、堅い言葉を放った。


「マリーゴールドは、兄上の…… “本当の妻” の想い出の花なんですよ」


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