第18話 吸い込まれた死体です。

 

「……あの、旦那様、ですか?」


 ハーヴェイ様とよく似ているけど、もっと低くて重みのある声。絶対に聞き間違えないと思うけれど……念の為確認してみると、「そうだ」と返ってきた。


『こんな遅くに何のご用ですか?』なんて訊いたら失礼でしょうし……とりあえずドアを薄く開けて、そうっと覗けば、そこに立っていたのは本当に辺境伯様だった。

 うさぎのふわふわの裏で胸を押さえれば、心臓が壊れそうなくらい、ドッドッと暴れている。


「起きているなら……少し話がしたいのだが……嫌なら別の部屋でも」

「いえ……あのっ、大丈夫です。どうぞ……」


 何とかそう答え、辺境伯様を部屋に招き入れると、震える手でドアを閉めた。



 ソファーへ案内しようとするも、辺境伯様は数歩進んだ所で立ち止まり、オイルランプの灯りを見つめている。


「……本当に一晩中起きているのだな。眠ることが出来ないと、ジュリから聞いてはいたが」

「はい。……燃料を無駄にしてしまい申し訳ありません」

「いや、むしろこれでは暗過ぎるくらいだ。遠慮せず、明日から天井の灯りも点けるといい」

「……ありがとうございます」


 辺境伯様は私へ視線を向けるも、やや伏し目がちに尋ねる。


「ソファーへ……座っても構わないか?」

「はい、もちろんです。どうぞ、こちらへ」


 浅めに腰を下ろした辺境伯様は、昼間と同じシャツとベストを身に着けている。少しだけ髪は乱れているものの、夜中とは思えないきっちりした装いだ。反対に自分は、寝巻きにガウンを羽織っただけの姿で、何とも落ち着かない。

 こうしてこの部屋で会うのは、山盛りのお菓子を届けてもらった時以来だと気付き、一層緊張が走る。


「お茶も何もご用意出来ず、申し訳ありません」

「構わない。……こんな夜中に話をしに来たのだから」


 そう言いつつも、一向に話らしい話が始まらない。薄い唇が何度か開きかけた後、やっと奥から言葉が発せられた。


「……眠れなくて、ずっと仕事をしていて。それでも全然眠くならないから、庭を散歩していたんだ。そうしたら、君の笑い声が聞こえて」


 ああ……やってしまった……


「申し訳ありません」

「いや、咎めているのではない。……君も庭を散歩をしていたのか?」

「はい」

「一人で笑い声を上げる程楽しかったのか?」


 ……うさぎとダンスを踊っていたことは黙っておこう。うーん……あっ、そうだわ!


「はい。ちょっと……昼間のハーヴェイ様の、面白いお顔を思い出してしまいまして」


 我ながら自然な返答だと思ったのに、何故か辺境伯様の眉間に皺が寄る。



「それ」


 それ?

 アイスブルーの視線を辿れば、私の膝に座るうさぎにぶつかる。


「そのぬいぐるみ、そんなに気に入ったのか?」

「……はい」

「そうして、ずっと抱いている程?」

「はい……とても」


 更に皺が深くなる。

 きっと呆れているのだわ……辺境伯夫人が、ぬいぐるみなんかで喜んだりしたから。

 取り上げられてしまったらどうしようと、腕にギュッと力を込めれば、完全に睨まれてしまった。……うさぎが。

 どうしよう……可愛いとか、可愛いだけじゃなくて、もっとうさぎの必要性をお伝えしないと。


「この子が居てくれると、長い夜も寂しくないんです。ずっと一人で起きていたので……こうして抱っこしていると安心します」


「……そうか」


 険しいお顔が、少しずつ和らいでいく。

 認めて…………もらえた?

 辺境伯様はうさぎから目線を上げると、今度は私の額の辺りをじっと見る。


「具合でも悪いのか?」

「……え?」

「汗を掻いている。今日は肌寒いくらいなのに」

「ああ! さっき……」


 踊っていたから……うさぎと。


「踊っていたんです……一人で、ダンスを」

「……ダンス?」


 また眉間に皺が寄り始める。

 うさぎには触れていないのにどうして? ……踊っていたのがいけないのかしら。


「あの、ステップの練習をしていました。夜会まで、もう一週間を切ってしまったので」


 本当はただ鳥になりたくて踊っていたのだけど、それらしい説明をしてみた。すると辺境伯様から、思いもよらない言葉を投げられた。


「……鳥になって空を飛べるんだろう? ハーヴェイと踊ると」


 どうして知っているの?

 私は目を見張る。


 彼とダンスの練習をしていることは報告があるでしょうけど、鳥になるとか、空を飛べるとか、そんな発言まで伝わっちゃうなんて。

 火照った顔をふわふわの背にうずめていると、辺境伯様は苛立たしげに続けた。


「随分楽しそうじゃないか。残念だが、本番の相手は私だから、鳥にはなれないかもしれない」

「本番では……飛びたいとは思いません。それよりも、旦那様やお客様に失礼のないように踊りたいです」

「……試してみたらいい。飛べるか飛べないか」

「え?」

「踊ってみよう、私と、今」


「今?」と訊き返す間に、腕から一瞬で消えてしまったふわふわ。それはいつの間にか辺境伯様の腕に抱かれていた。


 魔力で……取り上げられてしまった……?

 悲しくて泣きそうになるも、辺境伯夫人らしく、ぐっと堪える。辺境伯様はうさぎを丁寧に横に座らせると、すっと立ち上がり、私へ大きな手を差し出した。


「抱いていたら踊れないだろう。そこで大人しく待っているから大丈夫だ。さあ」


 ……よかった……

 優しい声音から、取り上げられた訳ではないことが分かり安堵する。その手を取り、私もゆっくり立ち上がった。




 夜中の三時を告げる振り子時計。その音を背に、二人で、星が照らす中庭へ出る。

 高い柵に囲まれているとはいえ、軽い運動が出来そうなくらい広い庭。なのに……何故か辺境伯様と居ると、身動きが取れない程狭く感じた。


「……この辺りでいいか」


 障害物のない開けた場所へ移動すると、手を繋いだまま向かい合う。

 鼓動が……私の手から辺境伯様へ、辺境伯様の手から私へと、激しさを増しては巡っている。


「今、何の曲で練習しているんだ?」

「……フロイターゼワルツです」

「フロイターゼ……って、あの?」


「はい……私のレベルに合っていないことは承知しているのですが。ハーヴェイ様が、これを踊れたら最高に仲睦まじい夫婦を演じることが出来るからと」


 辺境伯様は呆れられたのか、額を片手で押さえ息を吐く。少し下を向くその表情は、星の灯りが届かずよく見えないが、穏やかではない気がする。ハーヴェイ様が怒られてしまうかもしれないと考え、私は焦った。


「私が踊ってみたくて、無理にご指導をお願いしてしまったのです。ステップは一応全部覚えたのですが、男性のリードからの連続ターンが難しくて。……止めた方がよろしいでしょうか?」


「……いや、とりあえず最初から通してやってみよう」


 繋いでいる手はそのままに、片手を腰に添えられ、ビクッと緊張が走る。私も片手を辺境伯様の上腕に添えれば、ビクッと同じ反応が返ってきた。



「1・2・3……1・2・3……」


 長い足からステップが繰り出されてすぐ、その違いに気付いた。力強く引っ張ってくれるハーヴェイ様に対し、柔らかく寄り添ってくれる辺境伯様のリード。

 伝わる体温も全然違う。前も思ったけれど……燃えるように熱いハーヴェイ様より、辺境伯様の穏やかでぬるい熱の方が、心臓を刺激するのはどうしてだろう。

 意識すればする程、触れ合っている手が、触れられている腰が強張ってしまう。この上視線まで触れてしまったら、せっかくジュリに動かしてもらっている心臓が止まってしまうかもしれない。

 暴れる鼓動を夜風に逃しながら、顔の角度を保つことと、正しいステップを踏むことに、ひたすら集中した。


 ほらね……辺境伯様だと、やっぱり羽は生えてくれない。鳥みたいに上手く飛ぶことは出来ないのだわ。


 ぎこちないターンの後……顔の向きを変える時、煌めく星が視界に入り、つい上を向いてしまう。そこにはいつものアイスブルーではなく、しっとりと夜の色を帯びた瞳が自分を見下ろしていた。


 ……それはものすごい引力で。

 鼓動も身体も置き去りに、魂だけがふっと彼へ吸い込まれてしまう。

 切なくて、でも心地好くて、切ない。

 揺蕩たゆたう波の中に、ずっと居たいと魂が叫んでいる。


 視線は触れるどころか、くっついて熔け合って、とうとう一つになってしまった。




「……飛べなかったか?」

「え……」


 腰からするりと離れた手は、彼の腕に添えたままの私の手を取り握る。両手から伝わる生ぬるい熱に、魂が徐々に戻ってきた。

 だけど、一つに熔け合った視線はなかなか離れられず、また激しい鼓動に苦しめられる。


「私とでは飛べなかったか?」

「……分かりません。途中からあまり覚えていなくて。私は……ちゃんと踊れていましたか?」

「……分からない。私もあまり覚えていないんだ」

「旦那様も……」


 少しの間の後、同時に笑みがこぼれる。

 目元がくしゃりと垂れた……あの少年のような顔が、私の心臓を完全に壊してしまった。

 押し寄せる切なさに耐えていると、長い指の背が、少し震えながら私の額を拭う。


「……部屋に戻ろう」




 柔らかい絨毯を踏むと、やっと手が離れる。自由になったそれを、苦しい胸に当てることが出来た。


「では……もう行くよ。夜分にすまなかった」

「いえ……」


 背中を向けドアへと歩き出す辺境伯様は、何かを見て立ち止まる。


「これは、ヘリオスのか?」


 アイスブルーの視線の先には、さっき刺繍していたハンカチ。明日渡そうと、畳んでテーブルに置いていたのだ。


「子供が使うにしては、生地も柄も随分大人っぽいな」


 濃紺の絹地に舞う、銀の鳥と羽。それは……

「ヘリオスのではありません。ハーヴェイ様にお渡ししようと思いまして」


「……ハーヴェイに?」


 振り返った辺境伯様の眉間には、今日最大の深い皺が刻まれていた。額とは違う汗が、背中をつっと流れる。


「ぬいぐるみや……ダンスのお礼をと思いまして。ヘリオスにとお預かりしていた布を、勝手に使ってしまい申し訳ありません」


 ……相当怒っていらっしゃるのか、険しいお顔をそのままに、何も答えてくださらない。

 使う前にちゃんとお伺いするべきだったわと後悔していると、辺境伯様はハンカチを雑に掴んだ。


「……渡しておく」

「えっ」

「ハーヴェイに、礼だと言って渡せばいいのだろう?」

「あっ、あの、でも」


 有無を言わせぬ態度に、出来れば直接お礼を……という言葉を呑み込む。辺境伯様は、ソファーにお行儀良く座るうさぎをキッと睨むと、再び背を向け大股でドアへ向かった。

 ドアノブを掴むと、しばらく立ち止まり、こちらを見ずに呟いた。


「おやすみ……セレーネ」


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