第14話 羽が生えた死体です。

 

「1・2・3……1・2・3……」


 目線の先、いつもコナ先生の細い首がある場所には、華やかなベストの刺繍と銀のボタンしか見えない。

 腰に添えられる大きな手、長い足から繰り出される大胆なステップ。

 コナ先生とは何もかもが違う男性の逞しさや動きに、私は戸惑いつつも必死に喰らいついていった。


「顔の角度も大事ですが、一度真っ直ぐ私の目を見てください。ダンスを楽しむには、まず互いの呼吸を合わせませんと」


 遥か頭上から聞こえる声。顔を上げれば、深い空色の瞳が自分を見下ろしていた。


 駄目……捕まっちゃう……


 目を瞑ってしまいグラリとよろけそうになるも、何事もなかったように支えられ、ステップの続きを踏んでいた。


 そうよ……今はダンスに集中しないと。本番で失敗したら、辺境伯様に恥をかかせてしまう。


 勇気を出してもう一度顔を上げれば、にこりと微笑みかけられる。

 底を見ようとしちゃ駄目……

 空色の、淡い表面だけを掬い取り、私も何とか笑みを返した。


 さあ、次はどう動く? 私はどう動けばいい?

 最初は一生懸命考えていたけれど、その内に身体が自然と動くようになっていった。

 彼が左足を前に滑らせれば、私の右足が後ろへ滑る。ターンしてみたいなと思うと、長い腕が私をくるりと回してくれる。心も身体も、まるでハーヴェイ様と一体になったような……これが呼吸を合わせるということなのかしら。


 ふわりふわり……


 そらに昇る為、とうとう背中に羽が生えてしまったのかもしれない。

 いつの間にかレッスンだということも忘れ、心地好い浮遊感に身を任せていた。




「……お身体は大丈夫ですか? 疲れていませんか?」

「はい、大丈夫です」


 疲れも痛みもないのよね。死体だから。

 もし壊れていてもよく分からないけど、骨も関節も筋肉の動きも、今のところは問題なさそう。

 あっ、背中は……!? と後ろ手で探ってみたけれど、もちろん何も生えてはいなかった。


「あと二週間、毎日踊り込めば、フロイターゼワルツの習得も夢ではないかもしれませんよ。義姉上はとても勘がいいですから。初心者とは思えない程踊りやすい」


「とっても楽しかったです。まるで羽が……鳥になって空を飛んでいるような感覚でした」


「鳥……」


 空色の表面に光が浮かび上がり、眩しく揺れる。キラキラとこぼれ落ちんばかりに瞳を見開き、ハーヴェイ様は微笑わらった。


「ダンスの後に、そんな素敵な感想をくださった女性は、貴女が初めてです」


「本当に、素敵な表現ですこと。確かに上手な殿方と踊ると、ふわふわと身体が軽くなりますもの。ハーヴェイお坊っちゃまは、私の生徒の中で一番ダンスがお上手でしたからね。……女性のリードも」


 うふふと含み笑いをするコナ先生に、ハーヴェイ様は「まあね」と軽く返しながら、ピッチャーを掴む。グラスを水で満たすと、私へすっと差し出してくれた。


「申し訳ありません……お水は身体があまり受け付けなくて。お坊っちゃ……ヘリオスが注いでくれたものなら飲めるのですが」

「……お水も? それは大変ですね」


 あっさり引っ込められたグラスは、そのまま彼の口に付けられる。汗の玉を浮かべながら、ごくごくと、心地好さそうに上下する喉仏。羨ましい……こんな風に飲めたら……そんな視線に気付かれてしまったのか、ハーヴェイ様は空のグラスを置くと、私をじっと見つめた。

 無言でベストの胸ポケットからハンカチを取り出すと、私の首筋にそっと当てる。


「こんなに汗を搔いているのに、喉が渇かないなんて。不思議な病だ」


 ……怪しまれている?


 何も言えずにいると、今度はハンカチを持つ方とは逆の手が顔に伸ばされ、額に張り付いていた前髪を横に分けてくれた。汗ばむ額にちょんと触れられた指先が、あまりにも熱くて息が止まりそうになる。

 ……お坊っちゃまの魔力のおかげで、生きている人と変わらないくらい、温かくなったと思っていたけれど。こんなに熱い体温の人と比べると、やっぱり自分は死体なんだと思ってしまう。むき出しになった額を拭うハンカチからも、ハーヴェイ様の熱が伝わる気がした。


 大きな手が作る影。眼球だけを動かして、ぼんやり見上げていると、空色の視線と共に楽しげな声が降ってきた。


「こういう時は、淑女らしく目を伏せていただかないと。そんな風に無防備な瞳で見上げられたら、大抵の男は勘違いしてしまいますよ」


「ごめんなさい……!」


 慌てて目を伏せると同時に、額にかかる影がパッと晴れる。ハンカチを胸に戻すと、ハーヴェイ様は私の顔を見て唸った。


「貴女は汗までもが、金の真珠のように美しい。夜会では、誰もが辺境伯夫人の輝きに、心を奪われることでしょう。ダンスのステップなど、多少失敗したところで全く問題ありません。堂々となさっていればよろしいのですよ」


「……そうでしょうか」


「そうですとも! 沢山の美人とお戯れになったハーヴェイお坊っちゃまがお褒めになるのですから、奥様のお美しさは本物です。女性の私でも溜め息が出てしまいますもの。ドレスはもう仕立てられたのでしょう? 楽しみですねえ」


 私からホールへ、また私へと視線を移し、うっとりと言うコナ先生。


 このホールで……分不相応の重いドレスを着て、練習した上品な笑顔で、侯爵夫妻を始め大切なお客様をお迎えしなければいけない。音楽が鳴ったら辺境伯様の手を取り、多くの視線が集まる中、一番中心で踊らなければ……

 もし、辺境伯様が笑顔を向けてくださったら、動悸が激しくなってきっと固まってしまう。笑顔を向けられなかったら、きっと不安になり萎縮してしまう。


 ハーヴェイ様と踊った時みたいに、羽は生えてくれないし、上手く飛べなさそうな気がした。




 コナ先生を二人でお見送りすると、ハーヴェイ様は私へ向き直り、さらっと問う。


「義姉上、この後のご予定は?」

「ええと……特には。部屋でステップの復習をしたり、刺繍をしようかと」


「では、私の買い物に付き合っていただけませんか? 恋人達にラトビルス領の土産を買いたいのですが、どうも私が選ぶ贈り物は派手だと不評でして。義姉上の刺繍は素晴らしいと侍女達からも伺っておりますし、繊細な女性のセンスで選んでいただけたらと」


「いえ……! 刺繍は趣味のようなものですし、買い物なんて……あの、その、病であまり外出したこともありませんから」


 実家に引き取られてから、自由に外出したり買い物をしたことなんて一度もない。お使いならあるけれど……

 お釣りを懐に入れたと疑われて、お義母様に鞭で叩かれたこともあった。やっていないのに……使用人の罪を被ってしまっただけなのに……白状するまで叩くと言われ、恐ろしくて自分がやったと言ってしまった。そこから一週間、水しか飲ませてもらえなくて。こんなに苦しいなら、死ぬまで叩かれた方がマシだったと後悔した。


 だから買い物には、あまり良い思い出がない。


「……義姉上?」


 気付けばハーヴェイ様に顔を覗き込まれていた。


「申し訳ありません……私は、旦那様から外出を禁じられておりまして」


「ああ、知っていますよ。契約書には私も目を通しました。ええと……確か『妻の同伴が必須の用事以外は、外出を制限する』でしたっけ?」


 そうか……ハーヴェイ様は、辺境伯様に契約結婚を勧めた張本人。全部知っているんだわ。


「外出制限の理由は、“貴女が兄上の妻であった痕跡を残さない為” ですよね。でしたら、兄上と一緒に外出しなければいいだけでは? 私と一緒なら別に問題ないでしょう。わざわざ “義姉” だなんて言い振らしませんし……珍しい女性を連れているのを知人が見ても、私の場合、また新しい恋人かと呆れられるだけです」


「ですが……」


「そもそも夜会など開いたら、貴女の美しさは客から広まってしまうでしょうし。痕跡を残さないことなどもう不可能です。さあ! 夕方なので日差しの心配はないと思いますが、念の為帽子をしっかり被って、街へ繰り出しましょう。貴女の侍女兼医師にも許可は取ってあります」


「でも……あの、旦那様に許可をいただ」

「兄上はお忙しそうなので、事後報告で構いません。責任は全て私が取りますから……ね?」


 また……キラリと光る妖しい空色。逃れようと足掻けば足掻く程、翻弄されていく自分を感じていた。


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