第9話 泣けた死体です。
ああ、相当驚かれているわ。……そうよね、最後にお会いした一週間前とは大分変わってしまったもの。
そのままの表情で固まる辺境伯様に、どうしたら良いか分からず立ち尽くしていると、高い声が食堂中に響いた。
「……綺麗!!」
ハッとそちらを見れば、太陽みたいな可愛い笑顔が私を見上げている。辺境伯様も我に返ったのか、慌ててお坊っちゃまを促し、二人で私の前に立った。
「……息子のヘリオスです。さあ、新しいお義母様にご挨拶を」
焦茶の巻き毛に、くりっとした深い青の目が印象的なお坊っちゃま。ふっくらと丸い両頬には、天使みたいに愛らしいえくぼが浮かんでいる。
「ヘリオス・ツィンベルクです。はじめましてじゃないけど、お会いするのは初めてですね。よろしくお願いします」
「セレーネ・モルゴットです。はじめましてではありませんが、よろしくお願い致します」
私の挨拶に、一層えくぼを深めるお坊っちゃま。にこにこと笑顔を
あ……いいのかしら……
恐る恐る差し出してみた私の手を、お坊っちゃまは嬉しそうに握ってくれた。
……ふっくらした小さな手から広がるのは、忘れもしないあの温もり。柵の下から触れたあの手は、確かにこの子のものだったのね。
感動が押し寄せ、しばらくそのまま動けずにいた。
「お義母様、手がぽかぽかになりましたね」
「……お坊っちゃまのお菓子のおかげです。ありがとうございます」
「どういたしまして」
お坊っちゃまは手を握ったまま、えくぼの間の小さな口から、ほわあと息を吐く。
「綺麗……お義母様はすごくお綺麗ですね」
「そう、ですか?」
「はい! 髪も目も、お月様の色みたいです」
「お月様……」
気味……悪くない? 不快では……ない?
戸惑う私を余所に、お坊っちゃまは元気に手を離すと、トラウザーズのポケットから何かを取り出した。
「ハンカチ、沢山作ってくださって、ありがとうございます」
見覚えのある薄茶の生地。
目線が合うようにしゃがめば、嬉しそうに広げて見せてくれた。
「まあ、使ってくださっているのですね」
「はい。虹のは昨日使ってお洗濯中なので、今日は “鉄腕騎士” です」
剣を持った騎士の刺繍を、ふくふくの指が得意気に指差す。鉄腕騎士は、お坊っちゃまが5歳の時に考えた最強の騎士なのだと、その後の手紙で教えてくれていた。
「お義母様は、糸があればどんな絵でも描けるのですか?」
「そうですね……複雑な絵は難しいかもしれませんが。前のお家でよく、ドレスに模様を描いていたんです」
辛かったはずの記憶が口から出るも、さほど痛みは伴わない。それよりも、こうしてお坊っちゃまと触れ合っている、そのときめきの方が勝っていた。
「布があればどんなものも作れますか?」
「お店に売っているような綺麗なものは作れないかもしれませんが。うーん……テーブルクロスや、クッションのカバー。あと、簡単な普段着などでしたら」
「わあっ! じゃあ、お部屋中を鉄腕騎士にすることも出来るのですか?」
素敵な考えに、ふふっと声が漏れてしまう。
「はい。針の通る布でしたら、何でもお絵描き出来ますよ。時間はたっぷりあるので、お好きな布を届けてくだされば」
「わあっ……じゃあ、じゃあ、枕と寝巻きに絵を描けますか? 鉄腕騎士だけじゃなくて、仲間の騎士達も!」
「まあ、素敵! 楽しい夢が見られそうですね」
お坊っちゃまは、ぱあっと顔を輝かせる。
「そう! そうなの! 僕、鉄腕騎士と金剛伯爵が戦う夢は見たことがあるんだけど、仲間の俊足騎士や隼騎士は出てきてくれなくて! 不死身姫はね……」
敬語も忘れて夢中で語る様子が、可愛くて仕方ない。楽しく耳を傾けていると、辺境伯様が静かな声で言った。
「ヘリオス。お義母様が疲れてしまうからそのくらいにしなさい。先にお祈りをして、食事をしよう」
「はい」
お坊っちゃまは私の手を取り、食卓へと歩き出す。小さな紳士らしく、椅子を引いて「どうぞ」とエスコートしてくれた。
「ありがとうございます」
私が座ったのを確認すると、お坊っちゃまも向かいに回り着席した。可愛い視線と交われば、くすぐったくて、胸がきゅうっと切なくなる。
美しい花、儀式用の新しい蝋燭、ピカピカに磨かれた食器。十数年ぶりに “家族” と過ごす聖なる日の食卓は、とても眩しくて……眩しすぎて怖くなった。
実家での辛い日々も、一度死んで動いているのも全部悪い夢で。最初からこの家の家族で、普通に生きているのだと……そう錯覚してしまいそうになる。
馬鹿ね……きっと神様に呆れられてしまうわ。
蝋燭に炎が灯る。呆れた妄想を振り払うように両手を合わせ、固く目を閉じれば、上座から辺境伯様の厳かな祈りが響いた。
……たとえ書類上だけの偽物の家族でも、今は辺境伯様とお坊っちゃまの幸せを祈ろう。
瞼で揺れる炎の残像に、二人の笑顔を必死に重ねた。
お祈りが済むと、一人の侍女がやって来て、お坊っちゃまの隣に座った。
『ぼくは一人でごはんをたべられますが、まりょくがつよいので、じじょにたべさせてもらいます。あかちゃんみたいだと、おどろかないでほしいです』
手紙に書かれていたことを思い出していると、私の視線に気付いた辺境伯様が口を開いた。
「ヘリオスはまだ魔力を上手くコントロール出来ないので、口にする食べ物が魔力に触れないよう、おやつ以外の三食はいつも侍女が食べさせています」
「赤ちゃんみたいだけど、本当は自分で食べられるんですよ? でも、自分だと美味しすぎて、お腹がいっぱいなのに食べすぎちゃって、栄養もあって太っちゃいますから」
ふくふくの頬っぺたを赤らめながら、真剣に訴えるお坊っちゃま。7歳の小さな紳士にとって、食べさせてもらう姿を見られるのは、とても恥ずかしく矜持が傷付くことなのだろう。
「そうですね。お坊っちゃまのお菓子はとっても美味しいので、あまりご飯が食べられない私でも、沢山食べることが出来るんです。前はもっと痩せていて冷たかったのに、ふっくらぽかぽかになれました。素敵な魔力ですね」
お坊っちゃまの頬っぺたはまだ赤かったけれど、可愛いえくぼをにっこりと浮かべてくれた。
話している内に、給仕らが手際良く料理を運んでいく。私の前に置かれたのは、肉や野菜の良い匂いが立ち昇るリゾットの皿だった。
「消化の良さそうなものを用意しましたが、ご無理はなさらないでください」
……とても食べられる気がしない。
クッキーは大丈夫だったけど、あれはお坊っちゃまの魔力入りだったからで。一日に一回運ばれる普通のパンとスープは、やはり身体が拒絶反応を示す為、最近ではこっそりジュリに食べてもらっていた。
一口くらいは頂かないと、礼儀に反するだろう。お坊っちゃまにも心配を掛けてしまうかもしれないし。
チラリと前を見れば、キラキラした青い目がこちらを見つめている。
覚悟を決めて控えめに米を掬えば、銀のスプーンを温もりが駆け上がり、指先まで伝わった。
……運ばれたばかりで温かいから?
違う、これは……この温もりは……
口に入れ、舌の上に乗せれば、死んでいるはずの細胞がざわざわと動き出し、もっともっとと求め出す。
濃厚な旨味だけを口内に残しながら、ほとんど噛まない内にすっと溶けてしまった。
「……召し上がれそうですか?」
私の様子をじっと見守っていたらしい辺境伯様に問われる。
「……はい。もしかして……お坊っちゃまの魔力ですか?」
「ええ。ここに来る前にキッチンに寄り、予め魔力をかけてきました。携帯食や非常食というと、どうしても持ち運びやすく口に入れやすいお菓子のイメージだったのですが、もし美味しく食べられるのであれば、普通の食事でも構わないかと思いまして」
「美味しいです……とても……もう一口頂いてもよろしいですか?」
「ええ、もちろんです」
さっきより多めに、たっぷり一匙掬って口に入れる。
美味しい……甘いお菓子も素敵だったけれど、ご飯を美味しいと感じたのはいつぶりだろうか。
「……やっぱり美味しいです」
辺境伯様とお坊っちゃまは、顔を見合わせてにこりと笑う。お顔立ちはあまり似ていないのに……こうして笑うと、くしゃりと目元が垂れてそっくりなのね。
二人の温かな笑顔が、さっき割れたばかりの心に吸い込まれていく。
「良かった。もう少し早く思いつけば……」
辺境伯様の声が遠くに聞こえる。
瞳がじわりと熱くなり、滞っていた苦痛が、やっと涙になって流れてくれた。
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