【ルカ=優柔不断】

 無計画にだらだらしていれば五日間なんてあっという間に過ぎてしまう。ルカはそう考え、久しぶりの休暇を一番楽しく過ごせるようにと計画を立てることにした。

 そしてそれが彼の今の最大の悩みであった。

「うーん…」

 ギルドの塔から出た後、勿論彼は真っ先に実家へ向かった。馬はギルドの馬小屋で休めせている為徒歩である。

 しかし家は留守で誰もいなかったのだ。一時間ほど待ったが帰ってくる気配もない。

 ルカの父は仕事柄家に居ることが多い。だがたまに出かける用事があると数日間も帰ってこない。ルカはそれを知っているので、一旦諦めて街の方に戻ってきたのだ。貴重な休暇の時間を、実家の天井のシミを数えるのに費やしたくはない。

 長旅のせいでそろそろ臭くなってきた服は家に脱ぎ捨ててきた。水瓶にタオルを浸して体を拭き、実家に残っていた自分の服に新たに着替えた。しかしルカはファッションに全く頓着の無い男であった。そのため、持っている服は全て同じものであった。黒のシャツと茶色いゆるりとしたズボン。昔値下げで売っていたものを何着かまとめ買いして以降ずっとこの格好である。折角着替えたのに、彼の見た目は微塵も変わらない。

 大剣は置いていくかかなり悩んだが、冒険者の性であろう。どうしても安心できなくて、重いのに結局持っていくことにした。

 重くて大きいホルダーを背中に背負い、財布を持ってウキウキで街へ出かけ、そして今に至る。彼は虚な目で唸っていた。

「あぁーどうしたらいいんだぁ」

 ルカは国で一番の冒険者である。「英雄」という称号も、彼のみが与えられている特別なものだ。彼の代名詞とも言える。

 そんな英雄様には当然、数多くの依頼が殺到する。彼の知名度が上がれば上がるほど、彼に依頼したいと考えるクライアントは増える。そしてそれが彼のさらなる知名度アップにつながり、また依頼が増える。

 ついには手に負えなくなったので、ルカへの依頼は全部ギルド長を通して行われるようになった。依頼の危険度と難易度をギルド長が吟味し、簡単そうなら他の冒険者へ。難しそうならルカに任せるというシステムが出来上がった。

 しかしそれでも彼への依頼の数は膨大で、ルカにはおよそ休日と呼べるものが殆どなかったのだ。あっても一日。次の依頼の準備をしていたらあっという間に過ぎ去ってしまう。

 その為、彼は遊びや娯楽とは無縁であった。それこそが彼を今最大級に悩ませていた。

「休みの時ってどこへ行くのが正解なんだぁ…」

 街の中心部。大通りを見渡せるベンチに座り、街ゆく人々を眺めながらルカは悩む。

 当たり前だが、通行人達は何かしらの目的を持って歩いている。それが例え「街を適当にぶらぶら」だとしても、ルカにとっては羨むべき「予定」であった。

「そういえばギルドの受付お姉さん達はよく昼休憩でランチに行くって言ってたな。休憩の時は飲食店に行った方がいいということか」

 ならばと彼は立ち上がる。目指すは一休みのできそうな飲食店。予定の決まったルカはるんるんと歩き出す。だが、彼はさらなる苦渋に見舞われることになる。

「酒場。大衆食堂。コーヒー専門店。サンドウィッチショップ。くっ…。何故こんなに種類があるんだ」

 飲食店と決めたはいいが、その膨大すぎる選択肢がルカを再び苦しめる。

「ピザ屋。パンケーキ屋。あ、また別のサンドウィッチショップだ。だめだ、歩けば歩くほど選択肢が無尽蔵に増えていくっ!」

 ルカが今いるのは街の中心部にかなり近い場所だ。当然、外食店や食べ物屋さんの数はとてつもなく多い。大袈裟ではなく、五歩も歩けば何かしらの飲食店の看板が新たに現れる。店が多いのは街が賑わっている証拠だし、誇るべき利点でもある。しかしルカは今、自分が生まれ育ったこの街を心の底から恨んでいる。

「だめだ、俺はおしまいだ。こんなに選択肢があって選べるわけがない。くそ、「普通の男子」だったらどれを選ぶんだ?」

 ついにルカは頭を抱えてしまった。苦しそうに頭を左右に振る。しかし考えはまとまるどころか視界の端に新たな看板を発見してしまい、寧ろ選択肢が増えてしまった。

「あぁ! 俺に彼女でもいれば決めてもらえたのに。それかせめてヒヨクでも居てくれたら…」

 ギルドに戻って彼を探そうとも思ったが、もし居なかった場合は往復に無駄な時間を使ってしまうことになる。休暇を満喫したいルカとすればそれは避けたい選択肢だった。既に家への行き戻りで時間を大分使ってしまっている。

「仕方ない。自分で考えるんだ。論理的に、論理的にだ。俺は男。男は女より沢山食べるものだって知り合いの冒険者が言っていた気がする。なら沢山食べられる店が正解か?」

 膨大な選択肢からコーヒー専門店が一旦消えた。

「だけど、沢山食べるって一体どれくらいだ? そもそも何を沢山食べればいいんだ? あー! わからない! くそ、なんで親父のヤツも留守にしてんだ! もし居たら全面的に任せられたのに!」

 ルカは発狂し、頭を抱えたままうずくまってしまった。もはや数多ある看板達がこっちにおいでと囁く幻聴まで聞こえてきた。あまりの辛さに涙が止まらない。

「俺は一体どうしたらいいんだァァァァ⁉︎」

「えと…、大丈夫?」

 突然優しく背中を撫でられ、ルカは我に帰った。

 心配そうな表情で背中を摩ってくれているのは一人の若い女だった。歳は二十歳ぐらいで、愛らしい顔をした可愛い雰囲気の子だ。サラサラとした綺麗な藍色の髪を低い位置でツインテールにしている。

 エプロンのようなワンピースを白いシャツの上から着ており、人形のような可憐で上品な印象を受ける。

「お医者さん呼ぼうか?」

「い、いや、大丈夫だ。申し訳ない、少し悩み事をしていただけだよ」

 その言葉に嘘はなかったが、彼女は怪訝な顔をした。信じられないとでも言いたげな表情だった。

「えぇ? だってうずくまりながら喚いていたよ?」

 改めて言葉で言われ、ルカは自分が結構な痴態を晒していた事に気づく。しかし後の祭りである。年下の少女にここまで心配される自分が恥ずかしい。

「やっぱり少し休んだら? すぐ隣に喫茶店があるんだけど、そこで少し休ませて貰おうよ」

「喫茶店⁉︎ 君は今喫茶店と言ったのか⁉︎」

 ルカの顔がパァーッと明るくなった。

「よし行こう! そこへ行こう! 良ければ君も少し付き合ってくれないか? メニューを決めるのを手伝ってくれ!」

「え、ええ。…ん? メニュー?」

 ルカは彼女の手を取り、喜び勇んでその店に入っていった。


「えっ、優柔不断⁉︎」

 カウンターで飲み物の注文をし終わった二人は、受け取ったコップを持って適当な席に座った。店内は物静かで心地よく、程よく涼しくて過ごしやすかった。

「そうなんだ。我ながら困ったものだよ」

 この店はケーキとフルーツオレが人気の喫茶店で、今日も若い女性客で賑わっていた。店はモダンな雰囲気で、落ち着いたデザインの装飾や家具が設置されている。店のスタイルを可愛い方向性にしなかったのは男性の客も気軽に入店できるための配慮だろう。甘党の男性も意外と多い。男だってスイーツが食べたいのだ。

 中でも店の看板メニューであるフルーツオレは老若男女誰でも美味しく感じるように研究された味となっており、毎日数多くの客がそれを飲もうと店にやってくる。甘すぎず、くどすぎない。そのおいしさは街の外からも噂を聞きつけた人が飲みに来るほどであった。

 その人気の秘密はもちろんその美味しさなのだが、理由の一つとなっているのが味のバリエーションである。葡萄、蜜柑、林檎など。味は全部で三十一種類もあり、そのどれもが最高に美味であるなら、毎日通ってしまう客がいるのも納得であろう。

 そしてバリエーションという言葉に弱いのがルカである。好きなのではなく、文字通り弱いのだ。もし選択肢が四を越えれば、それは彼にとって数学の難問に匹敵する。それが三十を超えるのなら、彼は永遠に出ない答えの中で苦しみ続けることになっていたであろう。

 だが今日のルカはラッキーだった。彼女があっさりと洋梨味のフルーツオレを選択してくれたおかげで無限地獄を味わうことはなかった。彼は笑顔で「彼女と同じものを」と店員に言った。ルカにとっては最強で最高の魔法の言葉だ。

「行く店を決められずにいたんだ。アンジュが居なければ俺は貴重な一日を路上で過ごすことになっていたかもしれない。本当にありがとう」

 アンジュは苦笑いを浮かべる。

「気にしないで。こっちこそありがと。飲み物奢ってもらったし」

 親切な女の子は名前をアンジュ・フォードールといった。歳は二十一で、ここの近所の娘らしい。ルカも彼女に軽い自己紹介を済ませていた。

「だけどよかったのか? 何か予定とかあったんじゃない?」

「ちょっと昼頃に街の外まで行く用事があったんだけど、それまでは暇だったから」

 アンジュは安心させるように笑い、フルーツオレを一口飲む。途端、彼女の顔が幸せそうにとろけた。

「あまぁ〜い」

「あはは。アンジュは甘いものが好きなのか」

「うん、大好き。ルカくんも飲んでみてよ、とっても美味しいんだから」

 彼女のいう通りにコップを口に運ぶ。すると確かに、梨の風味に混じって程よい甘さが口の中に心地よく広がる。飲み込むと、その爽やかな甘みがスゥーっと引いていって、口内には梨の上品な香りだけが残る。とてつもなく美味だ。

 アンジュに出会って居なければこれを味わえなかったと考えると、この梨との奇跡的な出逢いに涙すら出る。

「とっても…うまい」

「だよね!」

 アンジュはにっこりと笑った。

 二人はあっという間に打ち解け、喫茶店でのひと時はとても楽しいものとなった。二つのコップが空っぽになるまでに時間はさほどかからなかった。せっかくの一杯なので大事に飲もうと思っても、あまりの美味しさについつい手が止められずにいた。

「ご馳走さま」

 アンジュは両手を合わせ、小さくお辞儀をした。

「ありがとルカくん。美味しかったよ」

「こちらこそ。運命の出会いをありがとう」

 ルカは空になったコップをまるで御神体か何かを見るような尊敬の意がこもった眼差しで見つめている。どうやらかなり気に入ったらしい。

「じゃあ名残惜しいけど、あたしはそろそろ行くね」

「街の外に用事があるんだっけか?」

「そうなの。あたし冒険者やってるお兄ちゃんが居るんだけど、あいつ今日お弁当忘れて森へ行っちゃったのよ。だから持っていってあげなきゃ」

 彼女は手に持つ小さな包みを掲げて見せる。

 ルカは立場上遠征が多いが、一般の冒険者は自分の家を拠点とし、その付近の依頼や案件をこなすのが一般的だ。アンジュの兄もそうなのだろう。

 それにアンジュのような可愛い妹がいるなら誰だって実家から離れたくはないに違いない。こうして弁当まで届けてくれるのだ。きっとその兄はアンジュにとても感謝していることだろう。

「もうすぐお昼時だし、お弁当を忘れたことにもそろそろ気づいている頃だと思うの」

「一人で行くのか? 森は危険だぞ」

 冒険者が仕事で向かった場所が危険ではないはずがない。何かしらの危険や不具合があったからこそ、冒険者が呼ばれたのだ。

「やっぱりそうだよね。お兄ちゃんがもっとしっかりしてくれれば…」

「良かったら俺も同行しよう。女の子一人では行かせられないよ」

「へぇ〜。優柔不断なのにこういう時は決断が早いのね」

「人を助けることに躊躇なんて無いさ。こう見えて、俺も冒険者の端くれなんだ」

「ふふ、冗談よ。ありがとうルカくん。よろしくお願いするね。その代わり、今度はあたしがお礼をする番だからね?」

 アンジュは無邪気に笑った。


 ルカ達は一度ギルド本部に寄って、彼の愛馬を馬小屋から出してきた。出来れば休ませてあげていたかったが、困っているお嬢さんに手を貸すためなら彼女も喜んで走ってくれるだろう。

「休憩中悪いな。ひとっ走りだけ付き合ってくれ」

「ヒヒーン!」

 ルカが黒馬の鼻を撫でてやると、彼女は嬉しそうに鳴いて答えた。

 ルカはまずアンジュを馬の背中に乗せてやり、そして自分も彼女の前に座った。手綱を引くと、黒馬はゆっくりと歩き始める。

「よく懐いているじゃない。なんてお名前?」

「アーリアだ。俺の大切な仲間さ」

 アーリアはロキロキの街中を、カッポカッポと蹄の音を鳴らして進んでいく。左右に小さく揺れるリズムが心地よくて、アンジュはいつの間にか船を漕ぎ始めていた。

「寝ちゃったか」

 ルカは一度馬を止め、アンジュが落ちないように気をつけながら彼女の後ろに回り込んだ。そして彼女の体を自身の腕の中に収めるようにして手綱を握った。

「やっぱ少し照れくさいよな。でも落馬は危険なんだ、我慢してくれ」

 アーリアは再び進み出す。

(早起きして弁当を作ったのかな)

 無意識に自分の口角が上がっていることにルカは気づいていなかった。

 

 街は大きいが、馬で行けばそう大変なものでもない。時間もそこまでかからないうちに、二人と一頭は門までやってきた。北東の向きに存在する小さな門だ。

「ほらアンジュ、起きろ」

「ん…私寝ちゃって…って何これ⁉︎」

 自分の状況に気づいたアンジュが恥ずかしそうに叫ぶ。

「おい、暴れるな。本当に落ちるから」

「だって、ちょっと」

 顔を真っ赤にして抗議するアンジュを抱えて馬からおろし、ルカも飛び降りた。

「役所に行ってくるからアーリアを見ててくれ」

 門の隣には石造りの小屋が置かれていた。壁は三面しかなく、織部色の甲冑を着た男が暇そうに座ってるのが丸見えだ。

 ルカは小屋に歩み寄り、一枚のカードを見せた。甲冑の男は小さくうなづき、手元のレバーを引く。すると、馬が一頭ギリギリ通れるぐらいの大きさしかないその門が、カラクリによって自動で開いていく。

「ありがとな」

 ルカは男に手を振り、レディー達を連れて扉をくぐり抜けた。

「冒険者のカードってやっぱり便利ね。私一人だったら書類とか色々書かされて大変だもん」

 扉の向こうはいきなり暗かった。上を見上げると、濃密な葉っぱ群が日差しを見事に遮っている。

 彼らを出迎えたのは暗くて深い森だった。うっすらと蹄で踏まれた跡は存在するものの、ほとんど道なんて無いような野生的な森だ。

 街に存在する数ある門の中でも、交通路としてあまり積極的に採用されてはいない道であることは簡単に想像がつく。そもそも森を通過するということが命懸けであるため、当然と言える。

「道理で役所のおっさんが暇そうにしてた訳だ」

「テーブルの上見た? 一人でチェスをしていたわよ」

 この方角には街の人間である二人ですら来たことがなかった。それほどまでにマイナーな門であった。

「私こっち来るの初めてなんだけど」

「俺もだ」

「冒険者のルカくんも来たことないなんてよっぽどね。この方角には何があるんだっけ?」

「なんだろうな。ロックバンド王国の南側にはディナー王国があって、南西の方はオケオン王国があるが…」

「北東の方は知らないわね」

「ま、どこかの小国でもあるんだろ。どちらにせよここはまだロックバンド王国の領土だから心配することはないさ」

 人工的な石壁を離れ、二人は自然の中へと入っていく。アンジュの兄はこの森に居るらしい。なんでも、この森に住む凶暴な変異歹の討伐依頼が出ていたようだ。

「報酬が高いからってお兄ちゃんったら意気揚々と出かけて行っちゃった。張り切るのはいいけど妹に迷惑をかけないで欲しいよね。ルカくんにもこうして手伝ってもらっちゃってるし」

 アンジュは困ったような顔でぷりぷり怒っている。

「俺は別に構わないさ。こうしてアンジュと仲良くなれたし、お兄さんには感謝してるよ」

 ルカは笑って見せたが、内心では別のことが気になっていた。

(こんな辺鄙な森で、一体誰が依頼なんて出すっていうんだ?)

 変異歹は世界各地に存在している。その発生理由、原因、生態、その全てが未だ解明されていない。

 変異歹は戦闘力が高くてただでさえ危険な存在だが、一番の問題は彼らの中には非常に好戦的なのがいるということだ。人間や村町を襲う変異歹なんてザラにいる。だからその被害にあった人々からの変異歹に関する依頼は後を絶えない。

 その反面、害を成さない変異歹は放っておかれることが多い。害を成さないというよりは、被害者がいないと言った方が正しいか。当たり前だが、深い森や海などの人が訪れにくい場所に生息する変異歹からの被害は少ないどころか、その存在にすら気づかれていないケースが多い。

 冒険者ギルドに依頼するのもタダじゃない。変異歹が村の近くに住み着いたなどの深刻な理由がなければ普通は依頼してこない筈だ。なのでこんな深い森で依頼が出るというのはかなり珍しいことである。

(後でギルドに行って調べてみるか)

 少し不思議だが、別にあり得ないことではない。単なる興味本位だった。

 二人は他愛ない話をしながら森を進んでいく。

 森はかなり険しく、人の足に優しい平な場所なんて殆ど無い。蹄の跡もすぐに消えていた。もしかしたら引き返していったのかもしれない。とても気軽に通れるような場所ではない。アーリアも歩きにくそうにしていたので、二人は彼女から降りて、自分の足で森を進むことにした。

 森の床は苔や低木、剥き出しになった樹の根っこだらけでかなり歩き難い。大木の根っこに足をとられるアンジュにルカは紳士的に手を差し出した。サンダルを履いた街娘の足ではかなり苦労するだろう。

「手を繋いで行こう。転ばないように俺が支えるから」

 アンジュの話では、この森のどこかにテントが張れる平らな野原があるらしく、兄は仲間の冒険者と共にそこに居るらしい。変異歹狩りは数日に渡る可能性も十分にあるため、そこを拠点に粘る作戦のようだ。

 ルカもそのキャンプ地には心当たりがあった。ギルドには、命懸けで依頼をこなす冒険者達のために作られた専用の地図が置かれている。そこには過去に変異歹が出没した場所や危険な地形などがわかりやすく記されているのだ。その地図には宿泊施設の場所も記されており、郊外なら野宿に向いている場所なんかも記されていた。

 確かこの森にも野宿ポイントがあったはずだ。アンジュが言っているのはきっとそこのことだろう。

 ルカは自分の記憶を頼りに、そのポイントのあった方向へ森の中を先導していく。

「私一人だったら迷ってたね。ついてきてもらって本当によかったよ」

 アンジュはそう言って笑いかけたが、返事がない。怪訝に思ってルカの顔を覗き込んだ彼女は思わず足を止めた。彼の顔がものすごく真剣で、酷く動揺しているようだったからだ。

 冷や汗すら浮かべている彼にアンジュは恐る恐る声をかけた。

「…ルカ? …どうしたの?」

「確かキャンプ地は街の壁からそうは離れていなかったはずだ」

「そうね。お兄ちゃんも、そんなに遠い場所じゃないから安心しろって言ってた」

 ルカの表情がますます険しくなる。緊迫した空気が伝わってくる。

「…血の匂いがする。人間の血だ」

「えっ⁉︎」

「急ごう。走るぞアーリア」

 そう言い終わらないうちに、ルカはひょいとアンジュを抱き抱える。そして少しかがんだかと思った瞬間、恐ろしいスピードで走り出した。そのあまりの速度にアンジュは目を丸くする。周りの景色が走馬灯のようにどんどん移り変わっていく。後ろではアーリアが同じ速度で追いかけている。飼い主の緊迫感が彼女にも伝わっているようだ。

 視界の先に密集した木々の間から光が漏れている箇所があった。向こうにひらけた空間がある証拠だ。

「あそこか」

 血の匂いがどんどん強まる。ここまでくれば不慣れなアンジュもその嫌な匂いを感じていた。彼女は思わず顔を顰める。

「アンジュ、目を閉じていろ」

 ルカは木間の光に向かって跳躍した。視野が一気に広がり、眩しい光が目を襲う。

 そこは五十平方メートルほどの開けた土地だった。柔らかい芝生に小さな花々が咲き、平らで過ごしやすい空間だ。上方に枝や葉っぱは一切なく、太陽の暖かい日差しが惜しまれることなく降り注がれていた。

 普段であれば駆け回りたくもなるような素敵な場所だったが、今日は様子が違っていた。ルカはそのあまりの光景に小さな唸り声を出した。地獄絵図とは、このことだ。

 深緑の美しい芝生。そのあちこちが真っ赤に染められていた。勿論それは紅葉などではない。そこらに散らばった、赤く塗れた人間の四肢が真っ赤な水溜りを生み出している。

 腕。脚。腰。胸。頭部。野原のあちこちに、切り刻まれた体のパーツが労しくも転がっている。数から見て四人分。あまりに残酷で、胸糞の悪い光景。血祭りとはこのことか。

「うわァァァァァァァァ‼︎」

 アンジュが叫び出した。ルカの忠告に背いてこの光景を見てしまったのだ。彼女は発狂し、ルカの腕から降りると頭を抱えてうずくまった。嗚咽と叫びが混ざり、なんとも痛ましく彼女は泣き叫ぶ。あまりの恐怖とショックに、街娘の心は耐えられなかった。

「アンジュ!」

 突然ルカは彼女を抱き上げ、そして飛んだ。

ドゴンッッ

 一瞬遅れで、彼女達が今さっき居た地面が砕けた。ルカはすぐさまアンジュを芝生に下ろし、敵を睨みつけた。

 砕けた地面から腕を引き抜き、それも自身の敵であるルカに向かって戦闘体勢をとる。

 敵は人間ではなかった。まさに異形と言えよう。全身の姿は茶色い熊に似ている。しかし熊にしては明らかに細く、どちらかといえば霊長類を思わせるシルエットだった。その長い腕の先、拳から生えた対三本の爪は三十センチ程の長さで、そして恐ろしく鋭い。まるで精密な刀のようだ。

 獣の肩から腰まで、その部分の肉が襷掛けのようにごっそりとなくなっている。傷口を見ると肉はドロドロに溶けたようになっていて、紫色の液体に塗れている。穴から見える体内はスカスカで、不完全に存在する内臓が痙攣するように動いていた。体内は真紫色だった。

「変異歹か」

 これだけ材料が揃っていれば間違いはない。こんな稀有な生物、自然界には存在しない。ルカはこの未知なる敵に警戒を強める。

 熊の変異歹は低い唸り声をあげながら、ゆっくりとルカとの距離を詰めてくる。左右に広げた腕の先についた鋭い凶器がルカの体を狙っているのがわかる。先の死体を見れば、あれがどれだけ鋭いものなのかは想像がつく。死体の傷口に千切られたような痕は一切無かった。人体をスパッと切断するその鋭さは十分すぎるほどの脅威だ。

 事実、この変異歹は四人組の冒険者を皆殺しにしている。仮に彼らが新米だったとしても、武装した大人四人を相手にここまでの惨殺を行える時点でこの変異歹の強さは相当なものだと思った方がいい。

「よくも彼らを…」

 ルカは腰を低く落とし、背中の剣に手を伸ばす。ゆっくりと腕を動かし、その大剣を引き抜いた。分厚い鋼の両刃の剣。刃の長さは一メートルほどで、幅は太いところで三十センチもある。鍔は棒状になっていて、メタリックな桃色をしている。長さも相待って相当な重量のはずだが、ルカはそれを軽々と振り、熊の変異歹に剣先を向けた。

 それが戦闘開始の合図となった。

 変異歹が駆け出した。恐ろしい速度だ。全速力の馬より速い。弾丸のように突撃してきた熊にルカは一瞬動揺した。しかしすぐに冷静になり、己の頭めがけて振るわれた熊の右手を剣で弾いた。それと同時にルカは真上に跳躍した。左手の追撃は虚空を切り裂く。ルカはそこまで計算して飛んだのだ。

 彼はそのまま宙で前回転をし、その回転を利用した勢いで剣を真上から振り下ろす。変異歹はすぐにそれに気づき、突き出した左手の勢いを利用して体を無理やり回転させる。ルカの斬撃が襲うも、変異歹は既にそこにはいない。振り下ろされた大剣が地面を砕く。

「やるな」

 熊はすぐさま踵を返し、ルカの着地を狩ろうと再び突進をしてきた。両手の凶器がルカを挟み撃ちにしようと横殴りに振るわれる。右手は頭。左手は腰を狙っている。これによって上下への回避はほぼ不可能。飛んでもしゃがんでも間に合わない。後ろに避けようにも、熊の速度なら一瞬で追い付かれる。追撃を喰らって負傷するのが目に見えている。

 だからルカは避けない。彼は大剣を地面から引き抜くと同時、遠心力に任せて思い切り振り回す。

「グラァァァァァァァァ‼︎」

 熊の絶叫が響き渡る。紫色の血飛沫が舞い、熊の右手首が地面に突き刺さった。ルカは剣を振った勢いのまま、今度は遠心力を体にかけ、回り込むように熊の背中をとった。

「正義は…」

 大剣はしっかりと握り、そして熊の背中に突き刺した。

「ギャウワァァァァァァァァァ‼︎」

 彼は剣を刺したまま、その剣先を真上にスライドさせていく。熊の体は真っ二つに切り裂かれ、頭蓋骨は割れた。

 どさっという音をたて、熊の巨体が崩れた。真紫色の液体がドクドクと流れる。

「正義は必ず勝つ!」

 彼はもう一度剣を振り上げ、熊の変異歹の頭めがけて剣を力一杯振り下ろす。頭蓋骨が粉々に砕け、液体がさらにドバッと流れ出た。

 ルカはその様子を汚物を見るような目で睨みつけていた。

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