二十七話 忘れても残るもの
軍司が旭と出会ったのは自らが絶対観測者だと知らされてからだった。それは異世界災害が発生するようになって数年。それまでは偶然絶対観測者であると判明した人員のみで異世界災害に対処するしかなく、人手不足でその収束まで時間が掛かっていた。異世界災害には予兆もなく発生を止める手段はない。人々はいつ自分が異世界災害に巻き込まれるかに怯えながら生活するしかなく、軍司もその不安にさいなまれながら高校生活を送っていた。
そんなある日研究者たちはついに絶対観測者としての力を持つ魂を判別する方法を発見し、すぐさま世界中で絶対観測者を見つけるための検査が行われた。しかしそれは喜びではなく人々に悲嘆と恐怖にもたらしたと軍司は記憶している。なぜなら絶対観測者だと判明すれば異世界災害と戦うことが強制的に義務付けられた。世界の状況を考えればそれはやむを得ないことではあるのだが、人々がまるで死刑宣告を恐れるような態度で検査を受けたのも無理はない話だろう。
だから軍司が絶対観測者だと判明した時に彼の両親は泣いて悲しんだ。その時はまだ絶対観測者が仮想世界の住人となってはいなかったが、一般人との接触は家族すら制限されるようになるしそもそも死傷率が高い。今生の別れと考えるのも無理のない話だった。
しかし当の軍司自身はそれほどショックもなく、むしろ安堵していた。いつ自分が異世界災害に巻き込まれるか怯えて過ごすより、自分でそれに対処して過ごす方が性に合っていたからだ。
旭と出会ったのはあまり長くもなかった訓練を終えてからだった。自分のパートナーだと紹介された彼女とは面識はなかったが、どうやら通っていた高校の後輩だったらしい。だからか彼女は彼のことを先輩と呼んで慕ってくれた。
旭と組んで異世界災害と対峙し続けて数年、彼の彼女に対する印象はとにかく元気でポジティブな少女というものだった。どんな時でも明るく前向きな彼女に軍司が救われることも少なくなかった…………だからこそ、後に自分の目の節穴さを呪うことになった。
「先輩、ごめんなさい。私は全部忘れてしまいたいっす」
精神の崩壊による絶対観測者の魂の崩壊。その実例が何人か現れてしまったことで絶対観測者の精神的な保護が思案され、最終的に仮想世界への精神の移住が提案された。その際により確実な精神安定の方法として記憶消去の選択肢が提示され…………どうするかと尋ねた軍司に旭はほとんど迷わず記憶を消したいと答えた。
パートナーが記憶消去を選べばもう一方も消すことを求められる。軍司自身は記憶を保持するつもりであったのだが、旭のその選択に反対はできなかった…………する資格がなかった。彼女がその内心で必死に押し殺していた恐怖に気づきもしなかった朴念仁が、一体何を偉そうに彼女を諭すことができるのか。
だからそれでいいと思っていた。それで旭が幸せになれるというのなら彼女のことを忘れてしまっても、仮初の世界でその関係性が築かれないのだとしても構わないと思った。
けれど、仮想世界で偶然にも軍司は旭と出会い、彼女が幸せになれていないと知った。
それならば今度こそは…………自分の手で彼女を幸せにして見せると軍司は決めたのだ。
「あるかもわからない希望の異世界でも、現実からの逃避先の世界でもない…………この現世で俺はお前を幸せにしたいんだ」
「…………そんなの、無理っすよ」
決意を告げる軍司にけれど旭は弱弱しく否定する。今の彼女はまだ現実での記憶を思い出せてはいない。それでも今の現実世界の状況は理解している。異世界災害の被害は最低限で抑え込めているもののゼロにはなることはない。
人々は普段通りの生活を送りながらも常に異世界災害に怯えていて社会は緩やかに暗い方向へと進み続けている。絶対観測者の数もそれが増えるよりも減るペースのほうが早い。今のこの現実世界は崖っぷちで辛うじて立ち続けているようなものなのだ…………希望はどこにもない。
「俺が異世界災害を終わらせてやる」
「どうやってっすか! ずっと何の進展もないのに!」
当然だが異世界災害を終わらせるための研究はずっと行われている…………けれど進展はない。終わらせる方法もわからないまま、ただひたすら対処を続けているだけなのだ。
「そうだな、このまま対処をし続けたところで終わりが来るのもわからない…………いっそこっちから異世界に乗りこんでやるのも一つの手かもしれない」
異世界がこちら側に繋いできているのだ、同じことができないこともないだろう。それにこれまで単純に核を破壊し続けていたがあれこそがこちら側と異世界を繋いでいるものなのだ、上手くやれば向こう側に入り込むことも可能かもしれない。
もちろんそんな可能性なんて軍司よりももっと頭のいい研究者たちがとっくに考えたことだろう。しかし貴重な絶対観測者を危険に晒させないと検証できていない可能性だってある…………軍司のほうから働きかければ可能性が出てくるかもしれない。
「つまり、先輩は異世界転移を目指すってことっすか?」
「…………そうなるのか」
転移になるのかどうかわからないが、異世界に行こうとしているのは間違いない。旭の異世界転生の望みに協力しながら内心でそれを否定していたことを考えれば、それは皮肉な話かもしれない。
「ふ、あはは」
零れるように旭が笑う。
「先輩が異世界を目指すってなんかおかしいっす」
「俺は本気だ」
「そうっすね。いつも先輩はまじめに本気っすよね」
だからこそ彼が口にしたことは実現するのだと信じられた。傍にいてくれるだけで心強く感じられた…………だけど、それでも。
「でもごめんなさい先輩…………私は全部忘れてしまうっす」
軍司の気持ちは嬉しいし、心強く感じる…………それでも旭にはわかるのだ。心の奥底に眠っている何もかも忘れてしまう前の自分。その自分が思い出すことを拒否している。今のこの記憶ですら残そうと考えるだけで強い拒否感が訴えかけてくるのだ。
「ああ、それで構わない」
けれどもう一度軍司はそう口にする。今彼が口にしたこと全てを彼女が忘れてしまっても構わないのだと。
「…………それじゃあ何のためにこんなことをしたんすか」
それに同じ質問を旭は繰り返す。彼女が忘れてしまうなら今回のことは何の意味もない。忘れる前提なら事情を説明する必要も、決意を示す意味だってないのだから。
「忘れても、残るものはあるはずだ」
記憶を失ってもそれで全てなくなるわけではない。記憶を失っても現実から逃れようと旭が異世界転生を望んだように、心の奥底に残り続けるものはあるはずなのだ。
「俺はあの時お前に何も残せなかった」
忘れたいと願う旭を軍司はただ見送るだけだった…………だからなのだろう。記憶を失った彼女には異世界災害への恐怖しか残らなかった。
「だから今度は俺の決意を残したい。俺は異世界災害を終わらせてお前を絶対に現世で幸せにして見せる…………たとえこの言葉を忘れてしまっても、俺のその決意だけは心の片隅でいいから置いておいて欲しい」
そうすれば、少しくらいは心の奥底に刻み込まれた旭の現実への恐怖を和らげられるかもしれない…………その為だけに軍司はこの場を用意した。
「先輩は馬鹿っすね」
「…………ひどい言いざまだな」
「だって私の心に刻み込まれた恐怖は長い時間をかけて刻まれたもんなんすよ? そんな決意を一回聞かされたくらいで並び立つもんなんかじゃないっすよ」
絶対観測者であると知らされて、それからずっと異世界災害と戦って、その間に深く深く傷つけられたから旭は記憶を失ってもその恐怖だけは忘れられなかった。
「それに釣り合わせようと思ったら、同じくらいの時間が必要っす」
「…………そうだな」
それを軍司は否定できない。記憶を失ってもなお残った旭のその恐怖を、容易く塗り替えられるものなのだと言えるはずもない。だからと言って今回のようなことを何度も行えるはずもない…………あくまで特例なのだ、今回のことは。
「でもね先輩、私はひとつ思い出したっす」
「何を、だ?」
「記憶を失っても残ってるものが、現実への恐怖以外にもあったんすよ」
それに軍司の言葉で気づけたのだと旭は言う。
「それはなんなんだ?」
「ふふ」
旭は微笑む。
「私は先輩のことが大好きだったってことっすよ」
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