八話 異世界帰りの女①

「うー、ドキドキするっす」


 三階への階段を上がる旭の表情は見るからに緊張していた。それは基本的に物怖じしない神経の太さを持つ彼女にしては珍しい表情だった。


「そんなに上級生の教室に行くのが緊張するか?」

「それもないことはないっすけど…………緊張してるのは別の理由っすよ」


 そう答える旭をよく見れば、確かに緊張して顔は強張っているものの不安を覚えている表情ではなかった。


「だってこれから会うのは異世界の先駆者っすよ? 緊張するなっていうほうが無理っす!」

「…………なるほど」


 仮に噂話が事実だとすればその三年生の女生徒は旭が望んでやまない異世界を体験してきた人間だ。いうなれば野球少年がプロ野球選手に憧れるようなものだろう…………聞きたいことも話したいこともいくらでもあり、だからこそそれがまとまらず緊張してしまうのだ。


「うー、あったら何から聞けばいいっすかねぇ」

「さっきも言ったがとりあえず話を聞く約束を取り付けるだけだからな」

「わ、わかってるっすよ!」

「やれやれ」


 忘れていた様子の旭に軍司は息を吐く。昼食の後に来たから昼休みもそれほど残ってはいないし、教室で大っぴらに話せるような内容でもない…………異世界云々は別にしても失踪していたのが確かならその女生徒は注目されているだろう。そんな相手と大っぴらに話しているところを周りに見られれば、旭もそれなりに変人として有名のようだしどんな噂が立てられるかわかったものじゃない。


「3‐Cの月見海、だったか?」

「はい、そのはずっす」


 階段を上り終えて旭に確認する。三階の廊下は昼休みということもありそれなりに三年生の生徒が行きかっている。軍司も旭同様に物怖じするタイプではないが、やはりこの空気には場違い感を覚える。同じ学年の人間でも知らぬ相手のほうが多いはずで不思議だが、同年代というだけで親近感を覚えていたのかもしれない。


「よし、手早く済ませよう」

「はいっす」


 とっとと要件を済ませて戻ろうと決めて軍司は3‐Cの教室へと向かう。その後ろに隠れるように旭も続いた。


「すみません」


 3‐Cの教室に辿り着くと手近にいた男子生徒へと声をかける。席に座る女生徒と雑談していた様子だが、彼の声に気づくと視線を向けた。


「なに?」

「月見さんに用件があるのですが、呼んでもらえませんか?」


 殊更丁寧ことさらていねいにお願いをする。背も高くどこか風格の感じられる外見の軍司は、見た目だけで何となく信用を得られることが多い。悪友からは固いと皮肉を言われるが、真面目そうに見られるというのもそれはそれで利点なのだ。


「ああ、ちょっと待ってて」

「ありがとうございます」


 その月見という今の生徒の立場からすれば興味本位の野次馬もいるだろう。しかし真面目そうに見える軍司が丁寧に頼めば、生徒会や教師からの言伝など何かしら公の要件であると勘違いしてくれるだろう。無下に追い払われることもない。


「月見さーん。なんか君に用件だって」

「ん、わかった」


 その男子生徒が教室の片隅に一人座っていた女生徒に声をかけると、彼女は頷いて立ち上がった。立ち上がると女子にしては背が高く、すらっとした体形に腰まで伸びた長い黒髪が目を惹く。そこに整った容姿が合わさって、一瞬かぐや姫のような古い時代の異質な美女を思いおこさせる。


「私に何か用かい?」


 尋ねるその表情は穏やかな笑みを浮かべていたが、どこかこちらを値踏みするようにも感じられた。


「はい、ええと…………」


 なんと切り出すか軍司が迷ったところで、先ほど頼んだ男子生徒が興味深げにこちらを見ていることに気づく。


「とりあえず、こちらで」

「そうだね」


 軍司に頷くと彼女は廊下に出て教室の扉を閉める。廊下にも人はいるが、今のところ三人に注目している人間はまだいない。


「教師からの伝言というわけではなさそうだね」

「ええまあ」


 素直に軍司は認める。彼女のその視線は彼の背中に隠れるように様子をうかがっている旭へと向けられていた…………まあ、気にはなるだろう。


「僕は斑鳩軍司、彼女は水村旭です」

「ふむ、まず名前を明かすのは誠実だね。好感が持てる」


 まず最低限の礼儀だろうと軍司は名乗ったのだが、それは正解だったようで彼女は鷹揚に頷く。


「私のほうは知ってるかもしれないが月見海だ…………しかし彼女が水村旭か。それならば私への要件も概ね予想できるというものだね」


 やはり旭のことはそれなりに有名らしく、目の前の三学年の女生徒も知っていたようだった。それならば目的を明かすことを躊躇う理由はもうない。


「はい、僕たちは月見さんの失踪していた時の話について聞きに来ました」


 軍司の後ろで旭もこくこくと頷いていた。


「失踪…………まあ、確かに私は一週間ほど失踪していたよ。そのことについては両親にも死ぬほど起こられたし警察にも事情聴取をされたりもした。それは事実だから認めるしかないところではあるよ」


 失踪それ自体は隠してはいないというように、つらつらと海は答える。


「しかし私がなぜ失踪していたのかに関しては、プライベートな話になるから明かしたくはないんだがね」

「それはまあ……………その通りですよね」


 反論しようもない。


「しかし…………ふむ」


 軍司その背中に隠れる旭を海は比べるように見やる。


「君たちはこれまでやって来た興味本位の連中とは少し違うようだ」

「…………正直あまり変わらないとは思いますが」

「ふふふ、そういうところだよ」


 軍司のその真面目さに海はくすくすと笑みを浮かべる。


「ためになる話ができるかどうかはわからないが、時間を取ろうじゃないか」

「ほんとっすか!」


 そこで思わず旭が飛び出す。


「本当だとも」


 それに驚く様子も見せず旭は微笑んで答えた。


「では放課後に待ち合わせするとしよう…………構わないかい?」

「もちろんっす!」


 喜ぶ旭と海はつつがなく連絡先の交換を済ませる。


「やったすね!」

「ああ」


 旭が笑顔で軍司のほうを見るが、彼の返答は喜ばしげではない。元より彼としてはそれほど興味のない話であるのも確かだが。


 なぜだか知らないが、そこはかとない不安がその胸中に浮かんでいた。

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