魔法使いの弟子の弟子
はむばね
第1話 魔法使いの弟子の嬉笑
後になって考えれば、あの時なぜあんなことを言ってしまったのかわからない。
人間、そんなことを口走ってしまうこともある。
「今のは……魔法、なのか……?」
時は初夏の昼下がり、場所は私立
扉を開けた瞬間に、その光景が目に入った。
少女だ。
背を向けており、淳太からはその小柄な後ろ姿しか見えない。
少女が、その右手を肩の高さまで上げた。
すると、その瞬間に風が吹いたのだ。
ただ、それだけ。
それこそ後から考えれば、ただの偶然であったと断じることが出来る。
魔法なんて、存在するわけがないのだから。
けれど、風にその長い黒髪を靡かせる後ろ姿が。
如何なることがあっても揺らぐことがなさそうな、凛としたその佇まいが。
なぜか、とても幻想的に見えて。
淳太は、先の言葉を口にしてしまったのだった。
「はは、なかなかに嬉しいことを言ってくれるね」
少女が振り返った。
端的に、美しいと称して構わない顔立ちと言えよう。
大きな目の中心で、黒真珠のような瞳が淳太を見据える。
「けれど、残念ながら今のは魔法ではないんだ」
肩をすくめ、欠片も残念そうではない飄々とした笑みで少女はそんなことを言った。
「私は、魔法を使えない。ゆえに、魔法使いではない」
その立ち居振る舞いは堂々としており、口にする言葉には一つの嘘もないと思わせる。
「今はまだ、ただの」
淳太は、それに見とれることしか出来なかった。
「魔法使いの弟子なのさ」
自称、魔法を使えない『魔法使いの弟子』。
彼女との出会いが、後に淳太の人生に大きな影響を与えることになると。
この時の淳太は、思いもしていなかった。
◆ ◆ ◆
「……はぁ?」
そう口に出すと、途端に幻想の世界から現実世界に引き込戻された気がして。
淳太の頭は、急速に冷静さを取り戻してきた。
その時になって初めて気付いたのだが、少女の足元には巨大で複雑な文様が描かれていた。
魔法陣、という言葉がすぐに頭に浮かぶ。
それによって「魔法」とやらの信憑性が増しても良さそうなものだが、むしろチープさが際立っただけなのはなぜだろう。
「中二病はキッチリ中二で卒業しとけよ、センパイ」
差し当たり、そんな言葉を向ける。
センパイと呼んだのは、彼女が身に着ける制服のリボンが赤……つまり三年生であることを示していたからだ。
淳太のネクタイ――今は乱暴に鞄に突っ込まれているが――の色は、青。
彼女より一つ下のニ年生である。
「はは、君は随分とハッキリとモノを言う性分のようだね。嫌いじゃない」
そこでふと、少女は何かを思いついたような表情を浮かべた。
「そうだ。君、私の弟子にならないかい?」
そう言って、淳太に向けて手を差し出す。
「はっ」
鼻で笑って、淳太は肩をすくめた。
「最初は、水汲みでもさせられるのかい?」
「ほぅ、なかなかに博識だね」
ポール・デュカスによって作曲された管弦楽曲、『魔法使いの弟子』。
ゲーテの詩を原典としているというそれは、若い見習いが師である魔法使いから水汲みを命じられるくだりから始まる。
それに準えた皮肉に対して、少女は少し意外そうな顔となった。
「てっきり、不良と呼ばれる手合いかと思ったのだけれど」
大柄で筋肉質な体付きに、逆立てた金髪。
制服をだらしくなく着崩した上に目付きまで悪いとなれば、少女が淳太を『不良』と判断するのも無理からぬことと言えよう。
そして実際、間違ってもいない。
目付きと身長はともかく、他は淳太が自ら選択しているものなのだから。
「意外と、優等生だったのかな?」
「優等生はこんな時間にこんな場所にはいねぇよ」
現在は午後一番の授業中で、ここは立ち入りが禁止されている屋上。
優等生が寄り付かない理由は、十二分に整っている。
「はは、然りだ」
それはつまるところ朗らかに笑うこの少女も、少なくとも『優等生』に分類される存在ではないということなのだが。
さりとて、その事実だけを以って淳太と同じ『不良』にカテゴライズすることが出来るのかどうかは微妙なところだ。
「さて、どうだろう?」
「はぁ? 何がだよ?」
脈絡がない彼女の言葉に、淳太は首を傾けた。
「私の弟子になる、という件についてさ」
そういえば、少女の手は未だ淳太に向けて差し出されたままだ。
「どうだろうも何も……」
さっきハッキリ断ったろう、と言いかけて。
そういえば、ハッキリとは断っていなかったかと思い当たる。
「断る」
なので、改めてキッパリとそう口にした。
その手を取るつもりはないというアピールに、腕を組んで唇を引き結ぶ。
「ふむ、それは残念だ」
あっさり、少女は手を下ろした。
「私は、
そして、やはり脈絡もなくそんなことを口にする。
「これも何かの縁だ。自己紹介を交わすくらいはいいだろう?」
眉根を寄せた淳太に、少女……素子は小さく首を傾けた。
「……荒井淳太。二の一だ」
断る理由も見当たらず、そう返す。
表情はしかめっ面のままだ。
「そうかい。では、淳太くん。この後、時間はあるかい?」
「ねぇよ」
即答はしたが、嘘である。
中間テストの特別追試を受けた後、担任に請われて教室でしばらく授業を受けてみたものの。
やはり、あの雰囲気には馴染めそうになかった。
自分に向けられる怯えの目も蔑みの目も、等しく嫌いだ。
何となく空でも見たくなって、訪れたのがこの屋上である。
教室に戻る気はないし、何か予定があるわけでもない。
ハッキリ言って、時間は有り余っている状態だ。
「ふむ、それは残念だ」
先程と同じ言葉を繰り返す素子。
先程も今も、表情には全く残念さは感じられない。
「活きの良い生贄を探していたのだけれど」
「それは時間があってもやらねぇよ」
急に物騒なことを言い始めた素子に、淳太はそう返した。
彼女の漂々とした表情からは、冗談か否かの判別が付きづらい。
「だが君、ここには自殺しに来たのだろう?」
「なんでだよ。何判断だそれ」
「なにせ、屋上に来る理由など自殺くらいしかあるまいよ」
「あるわ。滅茶苦茶あるわ」
「ほう、例えば?」
「そりゃ……」
一瞬考えたが、特に何も思い浮かばなかった。
空を見るため、と口にするのも何となく気恥ずかしい。
「……じゃあ、センパイは自殺するためにここに来たのかよ?」
差し当たり、質問で返す。
「あぁ、その通りさ」
素子の回答は、あっけらかんとした響きを伴ってその小さな唇から飛び出してきた。
思わぬ肯定の言葉に、淳太はギョッとした表情となる。
素子の顔には変わらず、飄々とした笑みが浮かんだままだ。
つい数分前に自殺を試みていた人間の表情だとは思えない。
「……心臓に悪い冗談はよしてくれ」
不機嫌さを全面に表し、淳太は嘆息した。
「ふむ……」
そんな淳太を、素子は興味深げな目で見つめる。
「君はなかなかに、心優しい少年のようだね。いわゆる、いい人というやつなのかな?」
「自質の悪い冗談はよしてくれ」
今度は鼻で笑った。
「いい人が、こんなことをするか?」
淳太はつかつかと素子に歩み寄り、彼女の顎先に指を当てる。
軽く上方に力を込めると、素子は抗うこともなく顔を上向けた。
その表情に、怯えの色はない。
ただ、興味深げな目が淳太を見上げるのみだ。
そのまま、淳太は素子の唇に向けて自らの唇を近づけていく。
やはり素子は抵抗の素振りも見せない。
二つの唇はどんどん接近していき……一センチ程の距離を残したところで、淳太は動きを止めた。
「どうしたんだい? やらないのかい?」
至近距離で、素子の吐息が淳太の唇を撫でた。
なんとなく負けを認めるようで一瞬悔しさに唇を歪めた後、淳太は顔を背ける。
「……別に、ホントにやるつもりはねぇよ」
厳しい表情で、淳太はポツリとそう漏らした。
「君のような男を相手にあまり簡単に心を許すなと、そう言いたかったのだろう?」
素子がクスリと笑う。
完全に図星を突かれ、淳太は押し黙るしかなかった。
「けれどそういう忠告を身をもって教えてくれようとする人こそを、私は『いい人』と呼びたいと思う」
「……そういうセンパイは、見かけによらず経験豊富なようで」
辛うじて、そう返す。
「そうでもないさ。安心してくれていい、私は処女だ」
素子はその、あまり豊満とは言えない胸に手を当てた。
浮かべる表情は、なぜかドヤ顔である。
「それに対して、俺は何を安心すればいいんだ……」
淳太が溜息を吐くと、素子は意外そうに片眉を上げた。
「世の男性は処女を好むと聞いたのだけれど、君はそうではないのかい?」
「そういう問題じゃねぇ」
再び、先程より露骨に大きく、溜息を吐く。
「ところで、淳太くん」
話題を変えるらしい素子。
今度は何を言い出すのかと、淳太は若干身構えた。
「私の弟子に、なってくれないかな」
そして、その言葉を受けて大層微妙な表情となる。
「それはさっき断ったろ」
「先ほどのは勧誘。今回のはお願いだよ」
言葉遊びとしか思えない発言に、淳太はやはり鼻を鳴らした。
「なら、そのお願いも改めて断る」
犬歯を剥き出しに、威嚇の笑みを浮かべる。
「頼むよ」
今回もあっさり引き下がるのかと思いきや、素子はそんな言葉を続けた。
「やだね」
とはいえ、淳太の回答は変わらない。
屋上で出会った不思議な女の子と過ごすひと夏……なんて話、物語の中だけでいい。
「受け入れてくれるなら、私の処女をあげてもいい」
「……興味ないね」
一瞬だけ間を空けてしまったのは、男の悲しいサガという奴である。
たとえ、それが冗談であったとしても。
「それは嘘だね。私は、結構君の好みに合致しているだろう?」
「何を根拠に」
「そういう目には、敏感なんだ」
再び淳太は押し黙った。
やはり、図星を突かれていたためである。
実際問題、素子の顔を好まない男はそうそう存在しないだろう。
「……そうやって、出会った男を誰かれ構わず誘惑してるのか?」
結局肯定も否定も出来ず、淳太は精一杯の抵抗として皮肉を返した。
我ながら小さい男だ、と思わず苦笑が漏れそうになる。
「それは違う」
心外だ、とばかりに素子は両手を広げた。
「弟子になって欲しいと思ったのは、君が初めてさ」
そこで初めて、ずっと浮かべられていた素子の笑みが消える。
「そして、恐らくこれが最後でもある」
真剣な目が、淳太を射抜いた。
淳太は、ほんの少しの間だけ逡巡する。
「……なんで、俺なんだ?」
自然に出したつもりの質問は、実際口にしてみると呻くような響きを伴っていた。
「君が、私の運命の人だからだよ」
再び、素子の顔に飄々とした笑みが戻る。
淳太は、それに対してどこかホッとしている自分に気付いた。
「それも、魔法でわかったのか?」
内心を誤魔化して、揶揄する調子で尋ねる。
「言ったろう? 私は、まだ魔法が使えないんだ」
素子が笑みを深めた。
「これは……そうだね。ただの、占いの結果だよ。女子高生らしくていいだろう?」
そして、淳太に向けてウインクを送る。
「はっ」
淳太も笑った。
尤も、こちらは小馬鹿にしたものであったが。
「くだらない」
これ以上付き合う気にもならず、淳太は踵を返した。
「待って」
後ろから、手を掴まれる。
「お願いだよ」
その手を振りほどこうと、顔だけで振り返って。
「私を、一人にしないで」
素子と目が合った。
その瞳が、初めて揺れた気がして。
それが、どこか縋るような光を宿しているように見えて。
いつか、鏡の中に同じ光を見たことを思い出して。
淳太は、猛烈に胸がざわつくのを感じた。
「君しかいないんだ」
後になって考えれば、あの時なぜあんなことを言ってしまったのかわからない。
人間、そんなことを口走ってしまうこともある。
「……弟子になるつもりなんてない」
淳太にとって、これもまたそういう瞬間だったのかもしれない。
「……が」
どこか清々しさすらも感じる素子の諦めの表情を見た瞬間、淳太はそう続けていた。
「ただ傍にいるだけなら、まぁ……」
自分の言葉が言い訳じみた響きを伴っていることを、ハッキリと自覚する。
「暇な時、ならな」
なんとなく頬が熱くなってきている気がして、淳太はそれっきり顔を逸らそうとした。
けれど。
「ありがとう」
そこに咲いた笑顔に、目が離せなくなった。
先程までの、どこかシニカルなものと異なるそれ。
純粋に、嬉しさが溢れ出したかのような笑み。
これを見ることが出来たのだから、きっと自分の選択は間違っていなかったのだろう。
漠然と、そんな風に思った。
「しかし君、猛烈に泣き落としに弱いね。大丈夫かい? 知らない人にお金を貸したり、変な壺を買ったりしてはダメだよ?」
「頼みを聞いてやったのになんだその言い草は!?」
尤も素子のそんな笑顔が見られたのは一瞬だけで、やはり自分の選択は間違っていたのかもしれないと思い直すまでに数秒も要さなかったが。
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