第9話 道化は悪魔の始まり
彼らの出会いは、数年ほど時を遡る。
「まだ下る気はないか」
薄暗い闇の中、粘着質な声が反響する。
それ以外はポタポタと水滴が滴るだけの静寂な地下牢だった。
牢屋に繋がれていたのは一人の女。血と泥に塗れた聖歌隊服を身に纏う女は、酷く憔悴した様子で牢の外の男を睨みつける。
「……フンッ、まあいい。いつまでその態度が続けられるかな」
嘲りと共に言葉を吐き捨てた男は、そのまま地下牢を後にした。
──このやり取りを何度繰り返しただろう。
牢屋に繋がれた女は、自分に嵌められた手枷を眺めながら考えを巡らせる。
……いいや、これもだ。
女が気付いてから、浅く息を吐いた。
(ここに閉じ込められて……何日経ったかしら……)
外の光が差し込まぬ地下牢。否が応でも時間の感覚はおかしくなってくる。
抉られた右目もすでに痛みを感じなくなっていた。
幽閉されている間、女は何も口にしていなかった。
水すらも与えられず、時折天井から垂れてくる水滴を求めて口を差し出す。が、結局のところ水を得ることは一度も叶わなかった。
(ザンちゃんは……他の皆は……)
飢えと渇きに頭をやられそうになりながらも──否、やられぬ為に思考を巡らせる女は、自分とは別の場所に囚われているであろう仲間の安否を案じる。
志を共にした仲間だった。
魔の手から国を守る刃として、そして盾として共に戦う騎士だった。
しかし、自分達は他ならぬ同族の手に掛かって地下牢に押し込められた。どれだけ敬虔な信徒に見えていようと、その肚の内側が黒くないと言い切れるはずはなかったのに。
迂闊だったと反省したところで、最早後の祭りだ。
教団の腐敗を正そうとした正義も、この牢の中では腹の一つも満たせない無意味な代物に過ぎなかった。
ただ、時間が過ぎていく。
(脱出……脱出して皆を助け出さなくては……)
辺りを見渡す。
何も見えない。
(魔法は……くっ、駄目……)
自身に嵌められた手枷により、魔法は封じられていた。
魔法使いは魔法を使えなければ無力だ。それを今、痛いほど思い知らされていた。
(それなら罪化を──)
不可能だ。
それは既に取り上げられた。
手詰まりだ。
幽閉された当初から何も変わっていない。
むしろ時間の経過と共に悪化していた。
不意に指先の感覚がなくなり、女の顔はサァッと蒼褪めた。
(助けは……助けは来ないの……?)
一縷の望みを託すとすれば、残るは外部からの救援のみ。
だが、自分が捕らえられた時の状況を思い出してしまった。魔法の天才とさえ称された自分が何の抵抗もできずに捕らえられたのは、他ならぬ同志を人質に取られたからではないか。普通に考えて彼らも現在自分と同じ状況であるはずだ。
所詮、自分など清廉潔白を声高々に叫んだ青臭い少数派に過ぎない。
腐敗しているとは言え繋がりの広い上層部と比べれば、圧倒的に数も力も無いのだ。一人の将来有望な騎士が姿を消したとしても、そういった上層部の声に揉み消されることは、極限状態の今でも容易に想像がついた。
とすれば、最後の望みすら潰されたこととなる。
「っ……!!」
体が震え上がった。
この冷たい指先の感覚が、途端に恐ろしくなったのだ。ただ辺りの空気が寒いだけならないい。
けれども、実際には己が死に体同然で血が通っていないのでは──今の今まで考えないようにしていた嫌な想像が、胸の内で膨れ始めたのだ。
「っ、はぁ……はぁ……!!」
ガシャガシャと腕を振るい、手枷と繋がった鎖を外そうと試みる。
平時であれば魔法で容易く絶つなど造作もないのに。
「っ、れか……!!」
鎖を外せないと理解した女は掠れた喉で必死に叫ぶ。
極限まで乾いた喉では、叫ぼうとするだけで肉が裂けるような痛みがピリリと奔るが、今は構っている余裕などなかった。
「っ、て……すけ、て……ッ!!」
恐怖で髪を振り乱しながら、必死に助けを求める。
だがここはとある辺境の古城地下に掘られた地下牢。用さえなければ近づく道理もなく、例えあったとしても地上の魔物が人間を寄せ付けない。
助けなど、来ない。
それを分かっていても諦められなかった。
「わたしはここに居るからッ……誰か、助けてぇーーー!!」
「──おぉぉおおぉおおおおおおお、おおおおお!!!!?」
ドンガラガッシャン、ドカーン!!!
そんなやかましい音が地下牢の入口から響いてきた。
突然の轟音に固まる女。
しかし、彼女の視線の先にはたしかに人が居た。
入口から差し込む光を浴び、情けなく仰向けに転がる鉄仮面の剣士が一人。
「っ、てぇ~……!? あんの毒蛇野郎!! 舌ピロピロさせて幻惑魔法見破ってくるとか聞いてないんだが!? ……あっ、でもゲームでも耐性あったな。なるほど、そういう理屈だったのね。ちくしょう、納得だわ……!」
「っ……!!」
「……おん?」
言葉も出せず、パクパクと口を開けていた女に向かって鉄仮面の剣士は振り返る。
一瞬驚いたように瞳を見開いた剣士であったが、すぐさま気を取り直したように居住まいを正した。
「さっきの声の人? いやぁー、マジで助かった! さっきの声なかったら
「あ、た……は……?」
「ああ、いい! 無理に喋らなくて!」
掠れた声で応じようとする女を制し、剣士は立ち上がる。
「とりあえず今出してやる。ったく、他の子達に一人だけヤベェとこに囚われてるかもって聞いたけどあんなん聞いてないよぉ……あれ、開かない?」
嘘でしょ? と針金で牢屋の錠前を外そうとしていた剣士が察する。
「……あ~~~、これ特定の鍵じゃないと開かないタイプ? ふ~ん、やってくれるじゃないの……」
中で折れ曲がった針金を放り捨て、剣士は腰に佩いていた剣を手にする。
すると彼はそのまま踵を返し、転がり込んで来た地下牢の入口へと向かっていた。その後ろ姿に女は怯えた表情で呼び止めようと身を乗り出した。
が、
「ちょっと待っててくれ。今から鍵取ってくる。どうせ罪派潰すついでだしな。
最後の方にブツブツと独り言を呟いてはいたが、最後の階段を踏みしめたところで剣士はもう一度振り返る。
「絶対助ける。だから、安心しろ」
そう言って剣士は地下牢の扉を閉めた。
地下牢は再び闇に閉ざされる。
けれども、女の胸にはもたらされた暗闇に対する不安など微塵も存在していなかった。
むしろ、ゆっくりと落ちていく瞼と共に、彼女の意識は闇の中へと誘われる。
深い眠りにつく間、ゆりかごのような揺れを何度も感じた。
それが夢か現実かは定かではなかった。しかし、彼女にとってそれが安らぎであったことは確かだった。
再び目を覚ました時、彼女は太陽の下に居た。
二度と目にすることはないと覚悟していた光に、彼女は枯れ尽きたはずの涙を流した。
だが、なによりも。
──倒れている罪派が呻き声を上げていた。
──亡骸を晒す巨竜が血の海を作っていた。
──泣いている同志が傍らに寄り添っていた。
だが、それ以上に。
「仲間が皆無事で良かったな!」
まるで他人事のようにケタケタと笑う声に耳を焼かれた。
笑顔のはずなのに今にも泣きそうな笑顔に目を焼かれた。
そして、
「どうする? このままやり返しに行くか?」
見ず知らずの他人に手を差し伸べる、その高潔な精神に魂を焼かれた。
(ああ。わたくしの主はここに居たのですね)
月日が経ち、排斥された騎士団長の座に座っても、その想いは変わらなかった。
むしろ日に日に思慕は膨れ上がっていくばかりであった。
その結果──。
「ライアー様ぁ♡ わたくしの熱いヴェーゼをお受け取りになってぇええええ♡」
「鉄仮面ガード!」
「鉄の味がしますわぁ♡」
このザマである。
***
ライアーが買い物に出かけてしばらく経った。
その間、アータンとセパルの二人は近場のインヴィー教教会の一室を借り、罪冠具の浄化作業を進めていた。
「へぇ~、アータンちゃんはライアー様に救われたのですね……」
「は、はい!」
「まあ、助けられたのはわたくしも同じなんですけれどねっ!!」
「ひぃ!?」
罪冠具に掌を翳し、魔力の光を当てているセパル。
一見何をしているか分からない浄化作業の傍らで話しかけてくる彼女であったが、あろうことか初対面の──それも知り合いの妹に対しマウントを取っていた。
大人げない。
ああ、大人げない。
大人げない。
詩人が見れば一句読みそうなくらい、セパルはムカつくくらい満面のドヤ顔を浮かべていた。頬っぺたはツヤッツヤのテッカテカである。直前に揚げバターを食べてきたアータンに勝るとも劣らない。
「は、はははっ……」
「……」
しかし、残念ながらここにはアータンしか居ない。
きゃわたんな彼女ではあるが、聖堂騎士団長という相手の立場に感嘆の余り、ここまでただただ淡々と頷くことしかできていない。
それを眺めていたセパルと言えば、それまで浮かべていたドヤ顔をスッと解き、深々と息を吐くのであった。
「申し訳ございません……ついアイベルと同じ態度を取ってしまいました。あの子、これぐらいの勢いでいかないと捲し立てられてしまうもので」
「い、いえっ! お気になさらず……ははっ」
「大人げないって思ったでしょう?」
「…………………………いえ、そんなことは」
「だいぶ間がありましたね」
嘘はつけないアータンなのであった。
だが、セパルはクスクスと笑みを零す。
「あなたはそのままで居てくださいね。人間、やっぱり素直なのが一番です」
「そう、ですかね……?」
「ええ。嘘や腹芸なんて必要とする人間だけできればいいのです。あなたのような心が清らかな人は、嘘の見抜き方だけを覚えればいいと思いますよ」
見抜き方? とアータンは首を傾げる。
「でも私、どうやって嘘を見抜いたらいいか分からないです。それこそ最近までずっと信じて人に騙されてたくらいですし」
「……たしかに嘘を見抜くのは難しいですね。では、こうしましょう。嘘をついた相手をぶっ飛ばせる力を手に入れましょう」
「代替策が力任せ過ぎる!?」
「ぶっ! ……冗談ですよ」
キレのいいツッコミがツボに入ったセパルは、しばし口を押えて俯いた。
ようやく笑いが収まったのを見計らい、彼女は目尻の涙を指で拭いながら面を上げた。
「嘘を見抜くには相手の背景を知ることが肝要です。相手が何を欲しているか……それを知らなければ真実へは永劫辿り着けません」
「じゃあ、どうすれば……」
「あなたが見抜けないというのであれば他人に任せるというのも手です。ほら、近くに適役は居りませんか?」
「……あっ」
察したアータンへ、セパルがウインクした。
無関係の自分を助けてくれた嘘つきの勇者。
その理由が自分を好きだからと言った勇者。
そして何より、相手を傷つける嘘はつかないと断言くれた勇者──彼ならばたしかにそういった類の噓偽りを見抜く“目”があるはずだ。
「彼ならあなたを害する嘘は見抜いてくれるでしょう。信頼できる人間に任せる……これはけっして恥じることではありません」
「……でも」
「彼を信じられませんか?」
その問いに『そういうわけじゃ!』と少女は声を上げた。
「私……彼に助けられました。彼が居たから私は今ここに居ます」
「えぇ、今聞いたばかりです」
「お姉ちゃん……姉を見つける為にギルドに登録したのだって、彼が手伝ってくれたからです。そんな彼に頼ってばっかで、私……なんだか嫌なんです」
次第に少女は俯いていく。
自信なさげに伏せられる瞳の一方で、セパルの方へと差し出されている右手は震えながら握りしめられていた。
「まだ何も返せてない。それなのに、また頼るなんて」
「……」
「……ごめんなさい、迷惑ですよね。私なんかの悩みなんて聞いても……こんなの自分が悪いだけなのに……」
「いいえ、そんなことはありませんよ」
「え?」
不意に握りしめられていた拳を包み込む掌があった。
淡い魔力の光を灯すセパルの手。一見女性らしいしなやかな細指であるが、その内側には何度も戦ってきた戦士の力強さの感触があった。
拳を包み込まれ、アータンは面を上げる。
そんな彼女が目にしたものはセパルの柔和な笑顔だった。
「悩みを打ち明ける……自分の罪だと思うものを打ち明ける。それはとても勇気の要ることですし、尊ぶべき行いです。よくぞ打ち明けてくれましたね」
「や、そんなつもりじゃ……!」
「いいのですよ。衆生の苦悩に耳を傾け、助言を授けるのも我々の役目。むしろ存分に頼ってください。いえ、頼って欲しいのです」
「セパル様……」
「フフッ、きっとライアー様も同じ考えですよ」
思いがけぬ言葉にアータンのくりくりとした瞳が見開かれた。
「同じ……?」
彼とはまだまだ浅い付き合いだ。
その上で少女の中でライアーという男は、お調子者で嘘つきのお人好しという人間だった。でなければふざけた言動をしながら危険な人助けなどしないだろう。
だが、誰かに頼られたがる姿は見た記憶がなかった。
「セパル様はそうお考えなんですか?」
「ええ。相手が愛するお方であれば尚のこと。わたくしはライアー様のことを愛しております」
「愛っ……!?」
「ですからわたくしはライアー様に頼ってほしい。愛する人に求められるほど嬉しいことはありません──違いますか?」
「わ、私は……」
突然の告白に頬を紅潮させ戸惑いを隠せないアータンであるが、真剣にセパルが言わんとしていることを理解しようと努める。
「私は……彼に愛されてるんでしょうか?」
「さあ? それは知りませんけれど」
(急に梯子を突き飛ばされた──)
余りの急転直下に、アータンはすぐさま冷静になった。
だが、それを見計らいセパルが真に迫ろうとする。
「でも、好きでなければ一緒に冒険なんて出られないでしょう?」
「そ、それはっ」
あの時言われた言葉が脳裏に過る。
──『アータンが一番好きだから』
出会って間もないことに言い放たれた言葉。
それがどこまで真意なのかは分からない。
だが、彼の言葉を信じてとセパルの言を借りるのであれば、自分は彼に頼る資格を得たと言えるだろう。
(でも)
「……分からないんです」
「はい?」
「たとえ彼が私を愛してくれていたとしても、どうして私を愛してくれるかが」
「……」
愛される理由が分からない。
ライアーの言葉を信じても、セパルの言葉を信じても。
たとえすでに資格を得ていたとしても、それを持ち得た理由が分からないのだ。
「私なんか……」
「──わたくしだって許されるのであればライアー様にお供するというのに……妬ましや……!」
「ひぃ!?」
刹那、嫉視の眼光に晒されるアータンは震え上がる。
思わず逃げ出そうと体は動き出したが、拳を覆う掌の握力が凄まじすぎて逃げ出せない。そもそもセパルの顔面に面妖な紋様が奔っており、並々ならぬ魔力が溢れているではないか。
「愛される理由が分からない……? 何をそんな甘っちょろいことを! 愛される理由なんてものぁ、自分で作り出してなんぼでしょう!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさぁーい!!?」
「容姿……家事……魔法! わたくしは愛される為に磨けるものは全て磨いております! だからこそ、わたくしは愛されるという自負がある! いいえ、わたくしこそ愛されてしかるべきなのです!」
熱弁するセパル。逃げられぬアータンは、半泣きになりながら彼女の言葉にうんうんと頷くことしかできなかった。
余りにも鬼気迫った様子に、否定すれば殺される予感がしたからだ。
(ライアー、早く帰ってきて……!)
心から願った。
その時だった。
「……でも、結局彼が何を愛するかは彼次第なのです」
「……え?」
「正直な話、相手が自分の何を愛したかなんてわからないものですよ」
ケロリと元の柔和な笑顔に戻ったセパルがそう言い放つ。
「……たとえばわたくしがあなたの席を奪ったとしましょう」
「……こっちの椅子ですか?」
「ああ、場所ではなくて立場の方です」
「立場って……」
「今のあなたをライアー様から引き剥がし、わたくしが冒険の旅に同行したとしましょう」
分かりやすく言い換えたセパルは、温かな魔力の光でアータンの罪冠具を包み込む。
「もしも彼が強い仲間を求めていたのなら、わたくしという存在はあなたよりも彼に愛される。ですが、彼が愛するに足りるものがあなた自身に在るというのなら、わたくしがその席を奪ったところで愛される所以はありません」
「……!」
「何ゆえの愛か。あなたが知るべきは、まずそれなのかもしれませんね」
次第に罪冠具を包み込む光が薄れていく。
すると、光が消えた最後に罪冠具に幾条もの紋様が浮かび上がった。以前、教会で無理やり罪を解放された時と同じ紋様だ。しかし、その光は明らかに以前よりも澄んで輝いているように見えた。
「わぁ……!」
「これで浄化は完了です。お疲れ様でした」
「こちらこそありがとうございました! あと、その……」
「フフッ、先の問いはぜひ本人の口から聞いてみるといいでしょう」
「は、はひ……!」
そうは言われても、とアータンの顔は茹蛸のように染まる。
相手に自分のどこを愛しているかを質問するかなど、まるで恋人のような問答ではないか。あらかじめ断っておくが、自分と彼は交際もしていなければ出会って数日の浅~い仲だ。
中々にハードルが高い質問だ。
頭のてっぺんから湯気が出そうになるアータンだが、それを見かねたセパルが『あぁ』とわざとらしい声を上げる。
「そう言えばなのですが、ライアー様には嘘をつく時の癖がありましたね」
「癖……?」
「……いえ、これは本人が公言している以上、“癖”というよりは“信条”なのかもしれませんが──」
セパルは両手で自分の両目を指差した。
「ライアー様、本当のことは相手の目を見てお話するんですの」
「……目?」
「逆に、嘘をつく時はけっして目を合わせません」
にっこりとセパルが笑ってみせれば、教会の入口の方から足音が聞こえて来た。
『セーパールーさーあーん! ライアーさんが来ましたよぉー!』
「! 良いタイミングですわ。この機に訊いてみたらどうでしょう?」
「え、えぇっ!? 急にそんなこと言われたって……」
「ライアー様ぁー! こっちでぇーす!」
慌てふためくアータンを横目にライアーを呼ぶセパル。
間もなく足音が近づけば、ライアーがひょっこりと扉から顔を覗かせた。
「終わったー?」
「えぇ、無事に。そちらこそ買い物はお済に?」
「ああ。いやぁー、大冒険だったぜ。スリに遭うわケンカ売られるわ衛兵に職質されるわで」
聞くだけで散々な目に遭ったらしいが、これが真実とは限らないのだ。
アータンは教えられた通り、ジーッとライアーの目を凝視する。ニコニコと目を細めている為、どこを見ているかがはっきりとは分からない。
だが、少女の熱烈な視線に気づいた嘘つきは疑問符を頭に浮かべる。
「ん、どした?」
「あ……ううん……別に──」
「あらあらあらあら! ライアー様、どうにもアータンちゃんがあなたにお訊きしたいことがあるようで……」
「セ、セパル様!」
「なになに質問? フッ……俺が知ってることならなんでも答えてやるぜ」
無駄にキメ顔を作るライアーは、普段よりも声のトーンを落としながら入口にもたれかかってポーズを決める。
「えっと……その……」
「ライアー様は彼女の何を愛しているのですか?」
「ああっきゃあっはっははぁーん!!?」
援護射撃という名のフレンドリーファイアが少女の背中を刺した。
致命の一撃だった。
アータンはフラフラとよろめきながら近くの机に寄りかかった。
その時ちょうど問われた男が口を開いた。
「顔と育ちと性格?」
「ふぐっ!!?」
目を逸らさずに告げられた。
「あっ、この言い方はマズイか。顔がカワイイ。育ちが良い。性格が素直で優しい」
「あうっ、あうっ、あうっ、あうっ!」
「オットセイの悪魔にでも憑かれた?」
オットセイと化したアータンはその場に蹲りながら身を震わせていた。
全肯定──その言葉は肯定感弱々な少女にとって余りにも強過ぎる火力だ。焼かれたアータンの顔面はマグマの如く真っ赤に蕩けてしまった。
それを眺めていたライアーといえば、あっけらかんとした様子でセパルの方を向く。
「これは何事?」
「フフ、ウフフ、ウフフフフ」
「セパルさん? 怖いから笑いながら近づいてこないで?」
「はぁ……そんなことを言われてしまうだなんて。きっとライアー様はわたくしを嫌っておられるんですわ…」
「は? 大好きだが?」
「ほぁあぁああ~~~!!」
アータンに負けず劣らず恍惚に蕩けた表情を湛えるセパルは、口の両端から涎を垂らしながら歓喜に打ち震える。
おおよそ騎士団長が見せていい顔ではないが、この場のライアーとアータン──彼ら二人以外にもセパルのだらしない顔面を目撃し、身を隠していた壁に指をめり込ませる人物が居た。
(あの男……ッ! よくも私の団長を……!)
インヴィー教国聖堂騎士団〈海の乙女〉副団長・ザン。
部下の目の前ではクールな仕事人を演じる彼女も、思慕を寄せる相手に寄りつく存在に嫉妬心を燃やす女なのだった。
***
──王都ペトロ インヴィー教区
王都に存在するインヴィー教会がまとめられた区域であり、インヴィー教関連の犯罪者が捕らえられた場合にはここの留置所へ入れられる。
そして、取り調べが終わり次第、犯罪者はそれぞれの聖都へと護送され、裁判を受けるのである。
「う、ぎぎ……ぎっ……」
そして今、インヴィー教区の留置所には一人の男が収容されていた。
孤児院の子供を私欲の為に罪化させ、悪魔へと堕とそうとした大罪人。インヴィー教司祭ことアイムは、魔法を使えぬようガチガチに拘束具を嵌められた上で堅い床の上に転がっていた。
憎悪と屈辱に塗れた顔で歯を食いしばる様からは、以前の優男のような面影はなかった。
(あの女……よくも私をこんな目に……うぷっ!?)
数時間前、留置所にはインヴィー教の聖堂騎士団長が訪れた。
予想外のビッグネームに恐れおののきながらも保身に走ろうとしたアイムであったが、聴取を思い出した瞬間、怒りよりも恐怖が湧き上がり顔から血の気が引いていく。筆舌に尽くしがたい取り調べであった。口が回る方だと自負がある自分が、弁解の余地すらなく悪事を洗いざらい白状してしまったのだから。
(こ、このままでは極刑は免れない……なんとかしなければ……!)
とは言うものの、弁解の余地など最早ありはしない。
可能性があるとするならば目撃者と証言を聞いた人間を全て消すことだが、とても現実的とは言えない。
こうなってしまえば名も地位も捨てて逃げ出すことが生き延びる道だ。
「ふぁあ……うぅ~、交代まだかぁ? そろそろ漏れちまうよ……」
鉄格子の向こう側では交代待ちの牢番がもじもじと股間を押さえていた。
普段収容されている人間が少ないのか、緊張感が希薄なのがひしひしと伝わってくるが、拘束具でガチガチに固められた囚人を見ればそれも無理はない反応だ。
「っ~! ぐっ、も、もう我慢できん……!」
『ちょっとぐらいならいいよな……?』と辺りを見渡した牢番は、そそくさと牢屋から離れて用を足しに行った。
(今の内に……!)
脱獄するのなら牢番が居ない今しかない。
しかし、現状魔法は使えない。魔法が使えれば鉄格子の一つや二つ破壊することなどわけはないが、嵌められた拘束具の数々により魔力の循環は阻害されてしまっている。
(クソッ! 魔法さえ……いや、〈罪〉さえ持っていればこの程度の牢など……ッ!)
「~♪」
(!)
どこからともなく足音が近づいてくる。
『もう帰ってきたのか』とアイムは愕然としながら鉄格子から離れた。脱獄しようとしている姿など見られれば、それこそ終わりだ。
「こんばんは☆」
「……は?」
だが、予想は大きく裏切られた。
鉄格子の向こう側。そこに現れた人影は牢番とは大きくかけ離れたシルエットを仄暗い闇に浮かべていた。
「貴方が魔王を誕生させようと頑張ってらした司祭様デスか?」
弾む様な声色で問いかけてくるそれは、一言で言えば
四又に分かれた帽子。端正な顔を白塗りにし、道化服もほとんど真っ白。そして異常なまでに反り返った爪先の靴など、王都でもよく見かける道化師とほとんど一緒だった。
町中で見かけたら特段不思議には思わない。
しかし、ここは留置所。罪人を閉じ込める牢屋の目の前だ。
だからこそ際立つ違和感に、アイムは全身が総毛立つのを感じた。
「あ、貴方は誰なのです……? 何故ここに……」
「アタシ、感動致しましたぁ♡」
被せてくる道化師は、気圧されるアイムを前にキャピキャピと身をよじらせる。
「アタシ以外にも魔王様を復活させようとする御方がおられるなんて♡ これは運命と呼ぶ他ないデスねぇ♢」
「も? ということは、貴方も……」
「同志デスよ☆」
にっこり笑顔を浮かべる道化師。
藁にも縋る思いだったアイムは、このように胡散臭い道化師を前に破顔し、なんとか鉄格子の方まで這いよる。
「それなら私をここから出しなさい……! わ、私には魔王になる〈罪〉の持ち主に心当たりがある! 脱獄した暁にはそれを教えましょう!」
「え~、いいんデスかぁ~?☆」
「何を言っているのです! このままでは私は極刑に処されるのですよ!?」
「そうじゃないデスよぉ~♢」
必死に訴えるアイムに対し、道化師は終始ふざけた声色だった。
あの鉄仮面の剣士を彷彿とさせる声色だった。アイムは神経を逆撫でにされたようで、こめかみにはこれでもかと青筋が隆起した。
しかしながら、道化師は依然ニコニコと笑顔を保ったままだ。それどころか牢を開ける素振りさえ見せず、鉄格子の間から手を刺し伸ばしてくるではないか。
意味の分からぬ行動に面食らうアイム。
そんな彼へ、道化師はこう問いかけた。
「魔王にならなくていいんデスかぁ?」
ヒュ、と。
呼吸が死んだアイムは、ゆっくり道化師の顔を見上げた。
「今、なにを……」
「だぁかぁらぁ♢ 他人より貴方が魔王になるつもりはないかなぁ~ってぇ♡」
相も変わらずふざけた声色だ。
けれども、確かにアイムという人間の根幹に関わる言葉に、死を目前にした男は思わず口を噤んだ。
「私が……魔王に……?」
「デス☆」
だってそうじゃないですかぁ♡ と道化師は歌うように続けた。
「人生と言う名の物語は、いつだって自分が主役なのデスよぉ♢ だったら、誰よりも目立って偉くなりたいと思うのは普通じゃあありませんかぁ?♡」
「だ……が、しかし……私には──」
「足りない?☆」
「っ……!」
「才能? 資格? フフッ、そんなの関係ないデスよぉ♡」
廻る、廻る。
道化師の舌が回る。
「王様だって最初から王様じゃないんですよぉ?☆ 王様はね、周りの人間が『あの人が王様だ』って認めるからなれるんデス♢」
廻る、廻る。
毒のように廻る。
「王様を王様たらしめる物……それが何かお分かりデス?♡」
「な……なんだ……?」
「お・う・か・ん☆」
鉄格子の向こう側から刺し伸ばされていた手。
それを一度握った後、開いてみればあら不思議。
その手の中には先程までなかったはずの装身具──否、罪冠具が握られていた。
「そ、それはっ……!」
「アタシは
「貴様は一体……?」
道化師はにっこりと笑う。
「ぜひ、お受け取りになってください☆ 貴方が王になりたいと……心の底からそう願うのであれば♢」
その笑顔の裏にどのような真意が隠されているかは定かではない。
一瞬の迷いがアイムの動きに出る。
が、しかし、少し引いた手を今度は迷いなく突き出し、アイムは道化師の差し出した罪冠具に触れた。
次の瞬間、腕輪のようだった罪冠具からは荊のような棘が飛び出し、受け取ろうとしたアイムの腕に食い込んだ。
男は苦痛に顔を歪めるが、続けざまに流れてくる魔力の感覚に瞠目する。今まで堰き止められていた魔力が、その堰ごと濁流に呑み込むかのような感覚。
次第に顔の歪みは歓喜の色へと変貌する。
「この力は……お、ぉお、おおおおおおお!!?」
雄たけびを上げ、天井を仰ぐアイム。
直後、彼を雁字搦めにしていた魔力を阻害する拘束具が次々にひび割れていく。滂沱の如く魔力回路を流れる膨大な魔力が、拘束具の許容量を超えたが故の現象だった。
「ガアアアアアッ!!」
次第に彼の体には紋様が広がっていく。
〈罪〉によって拡張されていく魔力回路そのものである紋様は、禍々しい深緑色の閃光を放ちながら、やがて全身へと及んだ。
直後、変貌が起こる。
首の辺りが膨張したかと思えば、人間の頭部を挟み込むように凶悪な蛇と猫の頭部が生えてくる。
さらにはどこからともなく生えてきた蛇が彼の股を潜り、アイムの額には二つの星が浮かび上がった。全身は人間の頃の面影はないほどに深い緑色に色づき、端正だった顔立ちも凶悪な悪魔然とした形相へと変貌してしまっていた。
「ンフフッ、とぉ~~~ってもお素敵デスよ☆」
「魔力が漲っテくル……!! こレが〈罪〉……コれガ〈罪化〉……!!」
「目覚めた〈罪〉に相応しい威厳に満ち溢れたお姿デス♡」
拘束具も外れ、自由の身になったアイムは鉄格子に手を掛ける。
次の瞬間、鉄格子は粘土のようにぐにゃりと横に曲げられた。余りにも呆気ない脱獄だった。
それを成し遂げた自分の両手を見つめるアイムは、小刻みに肩を震わせていた。
「なんト……ナンと素晴らシい力だ!!」
歓喜に打ち震えながら天井を仰ぎ、掌を翳す。
刹那、掌より迸った魔法の光が硬い天井を突き破った。
貫かれた天井より覗くのは雲一つない空の光景。
アイムはそのまま空へと舞い上がれば、あっという間に王都の街並みは眼下に広がった。
魔力による飛翔は膨大な魔力がなければ現実的ではない。
しかし、アイムの肉体にはその隅々にまで罪化によって得られた魔力が行き届いていた。魔力が肉体を満ちす全能感に酔いしれるアイムは、一回り大きくなった己の掌を見つめる。
「この力サえあれバ、奴等ヲ……!!」
それを見下ろした彼は恍惚とした表情から一転、憎悪に塗れた醜悪な形相を湛えた。
「私ヲ落魄さセた者共を地獄に叩キ落せルッ!!」
吐き出す怨嗟はどこまでも醜く、自身の為であった。
だが、その姿を仰ぐ道化師は満足げに微笑んでいた。
「さぁ、どうぞおいでください☆ 己が〈罪〉に従い、突き進むのデス♢」
道化師が煽れば、悪魔へと変貌した司祭がどこかへと飛び去った。
その後ろ姿を見届けつつ彼は紡ぐ。
「死を忘れることなかれ──我々はいつでも主様の傍に降りますよ☆」
道化師は歌う。
アタシは
ミンナの道化♪
アタシは
アナタも王へ♪
軽やかな足取りと共に響く歌声は、急いで駆けつける足音を置き去りに闇の中へと消え入る。
やがて騒ぎを駆けつけてきた牢番が到着した時、道化師の姿は綺麗さっぱり消えてなくなっていた。
一輪の白い薔薇を残して──。
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