第5話 好きは救済の始まり



「……え」


 その言葉に反応したのはアータンだった。

 言っている意味が分からないという顔が、次第に血の気を失い蒼褪めていく。


 魔王。

 それはありとあらゆる伝説に登場する魔物の頂点。破壊と戦乱をもたらし、数多もの命を奪う大罪人の称号だ。

 プルガトリアの地において、魔王は幾度となく人類に牙を剥いてきた歴史がある。

 しかし、その度にどこからともなく現れた勇者によって魔王は討たれて平和がもたらされてきた。


 だが、どの英雄譚でも魔王がどうやって誕生したか……この一点だけは徹底的に伏せられている。


「世間に流布されている書物には『炎の海より生じた』や『凍土の割れ目より這い出た』と記されていますが、あんなものは“嘘”ですよ。国や教団が次なる魔王を生まぬようとでっち上げただけです」

「ど、どういうことですか……? それじゃあまるで、知っていたら魔王を生み出せるみたいな……」

「その通りですよ」

「へ?」

「何せ魔王は〈シン〉を持った人間が〈罪化シンか〉した存在です」


 呆気に取られるアータン。

 彼女の翡翠色の瞳には司祭のある表情が映っていた。


 かつてないほど満面の、

 それでいて、

 かつてないほど邪悪な、

 人間の欲という欲に塗れた醜悪な笑顔。


 恐怖という言葉では収まり切らない感情を覚えたアータンは、思わず自身の肩を抱いて大きく震えた。


──まさか。


 嫌な予感を覚え、アータンが息を飲む。


「察したようですね」


 語り口は淡々とした始まりだった。


「魔王になる者の素養……それは全て己が魂に刻まれた〈罪〉に帰結します。魔王になる者は魔王になり得るだけの〈罪〉を持っているわけです」


「特に根源の〈原罪〉より枝分かれした七つの〈罪〉は別格だ」


「かつて君臨した魔王も漏れなくその〈罪〉の持ち主だった」


「ある魔王はあらゆる種族を己が血族とすることで力を蓄え、またある魔王は飢餓に苦しむ大地に僅かに残った食物を独占せんと国を興した」


「おわかりいただけましたか? 魔王とはすなわち、魔王になり得るだけの〈罪〉を背負ってこの世に生を授かった存在」


「そして、カルマを重ねて魔に堕ちた時──魔王は真の意味で生まれ堕ちる」


 司祭のねっとりとした視線が少女の方を向いた。

 ビクリと肩が跳ね上がるアータン。その額には尋常でない量の脂汗が滲み出ており、彼女の内心が平静を保てていないことを表していた。


「……アータン。貴方の〈罪〉を教えて差し上げましょう」

「ヤ……ヤダ……!」

「貴方は先程、生き別れた姉の話を聞いて羨みましたね? 『どうして私だけこんな目に遭っているんだ』と他者を比べて。そして自分よりも幸せに生きている人間を妬んだはずです」

「違う!」

「いいえ、違いません」


 否定する少女の腕を掴むや、司祭はを晒し上げる。




「これが!! この〈罪〉の紋様こそがその証だ!! 貴様が姉に抱いた感情……その〈嫉妬〉こそが貴様の〈罪〉!! 彼の〈嫉妬の魔王〉リヴァイと同じ〈罪〉なのですッ!!」




 語る内にヒートアップする司祭。

 平静を失ったように目は血走っており、晒し上げる腕を掴む力も強まっていく。

 掴まれる痛みに苦悶の声を漏らすアータンは振り払おうとするが、異常なまでに力を込める相手にそれは叶わなかった。


「いっ……たい!! 放して!!」

「どうして貴様のような小娘が……」

「え……?」

「何故!! 誰よりもインヴィー教を信奉する敬虔な信徒である私ではなく、貴様のような何も知らない小娘が〈嫉妬〉の〈罪〉を持っているのだッッ!!?」


 そこに在ったのは紛れもない嫉妬。

 だがしかし、アータンがより強く感じたのは嫉妬よりギラギラと、それでいてドロドロと粘着質な怒りと憎しみの念だった。


「叶うなら私がその〈罪〉を手に入れたかった……だが聖都の連中は私を認めなかった!! 〈洗礼〉さえ行わず、私をあんな片田舎の司祭という地位に縛り付けた!! これを許してなるものか!!」

「……じゃあ」

「?」

「じゃあ……なんで私を?」


 当然の疑問だった。

 司祭の男は〈洗礼〉を受けられず、〈罪〉も得られなかった。

 それと自分が魔王に目覚めることに何の因果があるのか、アータンにはさっぱりわからなかった。


「フンッ、そんなことですか」


 単純ですよ、と司祭は続けた。


「〈罪〉は強大な魔力を持つ者より〈洗礼〉を受けることで、強力な〈罪〉に目覚める……魔王ともなれば、覚醒する〈罪〉は絶大でしょうに。魔王による〈洗礼〉を受けた我ら罪派は、いずれ聖都で胡坐を掻いている上の連中を一掃し、新たなる時代を築く礎となるのです」

「そ、そんな……そんなことの為に……!!?」


 悲鳴のようにアータンは声を上げた。

 しかし、司祭は少女の悲痛な叫びすらも鼻で笑った。


「フンッ、貴様のような小娘に我らの大望を理解できるものか!! だが、長い時間を費やした成果は目前だ……!!」


 狂気に染まった瞳を前に、アータンはただただ震え上がった。

 とっくの昔に戦意は折られ、目の前の狂信者には立ち向かおうという意思さえ浮かんでこない。


(私が、魔王に……!?)


 司祭の狂気を宿した瞳。そこに反射する自身の姿は確かに普通の人間とはかけ離れた姿をしていた。

 半身に刺青のような紋様が走り、片目の白い部分が真っ黒に染まった人間などどこに居るのだろう? これならば魔族と呼ばれた方がまだしっくりくる。


(もう戻れないの……? 皆と一緒に普通に暮らせたりはしないの……!?)


 風の噂では〈罪化〉で悪魔堕ちした人間は処刑されると聞く。

 そうなれば自身もすでに処刑の対象となるのではなかろうか。そんな不安ばかりが脳裏を過る。


「いや……そんなのイヤ……!!」

「抵抗しても無駄だ。すでに〈罪〉は貴様の魂に刻まれている!! これから貴様は永遠にその〈罪〉と共に生きていくのだ!! たとえ今を逃れたとしても、いつか必ずその時が訪れる……!!」

「──!!」


 突き付けられた現実に、アータンは慟哭した。


 もう、普通の人間には戻れない。

 いつかは〈罪〉に呑まれ、魔王となって世界に害を為す。

 そうでなくとも悪魔に堕ちてしまえば、悪しき存在として処刑される。


──逃げ場など〈洗礼〉を受けた瞬間からなくなっていたのだ。




「嘘つくな」




 呑気な声が教会に響く。

 慟哭していたアータンの耳にも届いたその声の主は、あろうことか両手を頭の後ろで組んでいた。


「7つの〈罪〉が発現したから魔王になる? これだからにわかは……」

「……口を慎め。今、貴様の生殺与奪を握っているのはこの私だ」

。要は当時の英雄が敵対国から畏怖の念を込めて魔王と呼ばれていた……それだけの話だ。とある宗教じゃ神と崇められてる存在が、別の宗教じゃ邪教の神に仕立て上げられたみたいにな」


──それが真実だ。


 そう言い切ろうとしたライアーの右肩は、突然大きく後ろへ仰け反った。

 彼の肩当てをよく見ると一部が大きく凹んでいた。いや、削り取られていた。


「……次は心臓を狙う」

「『ブチ切れ過ぎて手元狂った』の間違いじゃないのか?」

「黙れ!! 貴様の妄言のことごとくが私の神経を逆撫でする!! 魔王とは選ばれし〈罪〉の持ち主だ!! 魔王とは、魔王になるべくしてこの世に生を授かってくる!!」

「お前がそうじゃないからか?」


 直後、ライアーの身体が大きく後ろへ弾かれた。

 司祭の杖先から放たれた魔法がライアーの胸に命中したのだ。

 一部始終を目の当たりしたアータンの喉からは、ひっ、と声が漏れる。しかし、悲鳴を上げる寸前で胸を擦るライアーが起き上がる。


「ったあああ! あー、これは損害賠償!! 胸当てと俺の心を傷つけた分!! 1:9で請求してやるからな!!」

「……もう一度言ってみなさい」

「あ? 何をだよ。主語はハッキリ言いな」

「私が」

「魔王と同じ〈罪〉を持ってないってとこか?」


 今度こそ光の線が鉄仮面の眉間に命中した。


「いだだだだッ!? 絶対兜凹んだ!! 凹んだ部分にめっちゃ眉間圧迫されてる!!」


 苦悶の声を漏らすライアーは、そのまま床の上をゴロゴロと転がり回る。


「……私を愚弄することは万死に値する」


 怒りに震える司祭が確殺の決意を固める。 

 そしてなぜか、震えて泣いているアータンの方を見遣った。


「アータン。今だからこそ言いますが……私は貴様が憎かった」

「……え?」

「憎くて、憎くて、憎くて……何度も嫉妬で縊り殺しそうになりましたよ……!!」


 呆気に取られる少女の下へ、悪魔はどんどん歩み寄っていく。

 後退るアータン。しかし、すぐさま背中に壁がぶつかった。逃げ道を奪われた少女は恐慌状態で逃げ道を探すが、覆い被さるように両腕を壁に突いたアイムがそれを許さない。


「ひっ……!」

「何故だか分かりますか? それは……貴様が大した信仰心も持たぬ小娘の癖に、まるで神の寵愛を得たかの如く魔法に愛されていたからだッッッ!!」


 がなるアイムはアータンに詰め寄る。


「私が苦労して会得した魔法を、貴様はいとも容易く会得してみせた!!! これは侮辱だ!! 私の努力を踏み躙る大罪に等しい!!」

「そ、そんなこと言われたって……!!?」

「あまつさえ、どうして貴様が魔王と同じ〈罪〉を持つ!!? どうしてこれほどまでに魔王を崇拝する私がその〈罪〉を持たない!!? 違いはなんだ!!? 信仰心? 環境? いいや、違う!!! 全ては生まれ持った才の違いだ!!!」


 アータンの顔の横で、突き立てられたアイムの指が教会の壁に罅を入れた。


「私は貴様が憎い……妬ましい!!! 貴様に〈嫉妬〉の〈罪〉の素養があると気付いてしまった瞬間から、貴様が妬ましくて堪らなかった!!! 所詮、天才に秀才は勝てぬ現実を突き付けられたようでなぁ!!!」

「わ、私だって……欲しくて手に入れた訳じゃ……!」

「黙れ!!! いくら謝罪の言葉を並びたてられたところで、私の尊厳を踏みにじられた罪は消えん!!! その命と魔王誕生の贄となることで償え……!!!」


 今日という日ほど、アータンは人間を恐れた日はなかった。

 人間とはたかが嫉妬という感情を満たす為だけにこうも狂えてしまうのか、と。


(ううん、違う)


 しかし、悟ったアータンは首を振った。


 きっと、因果が逆なのだ。

 嫉妬という感情が単純だから。

 それでいて人間の欲望を悪い方へ煽動してしまうから。


 だからこそ、〈嫉妬〉は人間を悪へと導く〈罪〉の一つに数えられたのだ。


(私も、いつかきっと──)




「だから泣かせたのか?」





 不意の声にアータンが振り返る。

 離れた場所にはすでにライアーが立ち上がり、身体に付いた埃を払っていた。


「お前に言ってんだよ、お前に」


 ライアーはアータンに詰め寄るアイムを睨みつける。


「……何だと?」

「要は自分にない才能に嫉妬してアータンを虐めたって話だろ?」


 『うんうん』とライアーは頷く。


「大好き」

「……は?」

「ホントホント、嘘じゃない。お前みたいなのは大好きだよ」


 ニコニコと笑顔を湛えながら、ライアーは唐突に告白を始めた。

 油断を誘う芝居か──警戒するアイムは構えを解かぬまま杖先に魔力を集中させる。


「貴様……今更何を……?」

「俺さ、才能にコンプレックス抱いてる奴が好きなんだよな。特に天才に追いすがろうと努力を積み重ねる秀才的な奴は尚更さ」

「……」

「そういう直向きな姿勢がグッとくるわけよ。それでいざ天才を越えた時はもーね……感動モンよ。味方でもいいし、敵でも美味しい。立場で味わいが違ってくるって言うのか?」

「……何が言いたい?」


 訝しむアイムに、ライアーはほんの僅かに顔を俯かせる。

 すれば、内側に向かって窪む鉄仮面は満面の冷たい笑みを描く。


「お前さ、ドンピシャなんだわ」

「なんだと?」

「だって……」


 それはまるで、問いかける秀才に向けた嘲笑のようで──。











「──……~~~ッッッ、~~~~~!!!!!!!」


 刹那、邪教の司祭の怒りが頂点に達した。

 こめかみに浮かび上がる血管は異常なまでに痙攣し、とうとうアイムの顔面から眼鏡を落下させるに至った。


「貴様ぁぁああああああぁあぁあッッッ!!!!! 何度私を愚弄すれば気が済む!!!?? 許さん……許さんぞぉおおぉぉおおおぉおお!!!」


 烈火の如く怒り狂うアイム。

 自分に対する侮蔑は、彼にとって何よりも許しがたい罪の一つだった。


「──……ッッッ!!!!?」


 が、しかし。

 燃え盛るように吹き荒れていた魔力の奔流が、途端に鳴りを潜めた。魔力の放出とは感情によっても左右されるもの。

 すなわち、アイムは己が激情を抑えられてしまうほどの事態に直面してしまったという訳だ。


 それは──怒り。


 鉄仮面から覗く二つの瞳が、それを訴えていた。今までの軽薄な言動からは想像もつかない凄絶な眼光が、鉄仮面の奥で閃いていた。

 その瞬間、アイムはほんの僅かに後退る。

 自然とアータンから離れ、そのまま自身の武器であるバクルスの先端をライアーへと向けた。殺意からではない。恐怖より湧き上がった防衛本能による行動だった。


「許さねえはこっちのセリフだ」


 そうだ、ライアーは憤っていた。


 目の前の悪魔に。

 少女の涙の元凶に。


「お前はそんなくだらない私欲モンの為に嘘を吐いた。罪のない人間を泣かせた」

「貴様……この魔力は一体ッ!!?」

「そんなふざけた真似を許す魔王カミなら、俺がそいつを嘘にコロしてやるよ」


 ライアーが一歩踏み出す。

 その瞬間、アイムが構えていた杖先から一条の閃光が迸った。今まで威嚇に留めていたアイムが、全身全霊で敵を殺そうとして放った反射的な一撃だ。


 から放ったのではない。

 から放ったのだ。


「っ、避け──」


 迸る閃光を見て、アータンが悲痛な声を上げる。

 多少なりとも魔法に精通している彼女だからこそ、あの一撃が軽鎧程度貫通してしまう威力だと即座に理解できてしまった。


 射線は真っすぐ、ライアーの脳天を目掛けて伸びている。

 着弾まで──一秒もいらなかった。


「──〈悲嘆〉の名は聞いたことはあるか?」


 光が霧散した。

 パッとだ。シャボン玉が弾けるくらい気軽な音を立てて。

 ライアーの目の前で消えた魔法を見て、アイムは愕然とするあまりずり落ちる眼鏡を直すことすら忘れていた。


(何が……一体何が起こった!!? 魔法で化かした!!? いいや、違う!!! 奴はあそこから一歩たりとも動いてはいないはず!!! 私の魔力探知がそう告げている!!!)


「お前ら罪派シンぱなら小耳にはさんだことぐらいあるだろ」


 困惑する男を前に、ライアーは右手の甲が前方を剥くように構える。

 一瞬武器を持たぬ人間が何をするのかという思考がアイムの頭を過るが、それこそが致命的な隙であったことを彼は知る。


「──


 光る。

 奔る。

 迸る。


 ライアーの手首から勢いよく全身へ駆け巡っていった魔力は、やがて彼の魔力回路に収まり切らなくなって全身から噴き上がった。

 莫大な魔力だった。

 威圧され、畏怖してしまうほどの魔力──これは〈罪化〉には違いないのだろう。

 溢れ出る魔力の総量が多過ぎる余り、教会全体が悲鳴を上げている。床は軋み、脆くなった窓ガラスは振動によりバラバラと崩れ落ちていた。


「我が〈罪〉は〈悲嘆〉」

「〈悲嘆〉……? ……まさかッ!!?」


 突拍子もなく出された名に訝しむアイム。

 しかし、すぐさまその顔面には驚愕へと変貌した。


「〈悲嘆〉だと……!!? 鉄仮面に剣……まさか貴様、〈悲嘆のエル〉か!!?」

「エル……?」

「ええい、罪派潰しが何故ここに!!? この冒涜者めがぁ!!!」


 取り乱すアイムは杖先にありったけの魔力を込める。

 そして、〈悲嘆のエル〉とは何者か首を傾げていたアータンを手繰り寄せ、こめかみに杖先を突きつけた。


「きゃあ!!?」


「うっ、動くなぁ!!! 動けばこの娘の命はないと思え!!!」

「……やってみろ」

「なにィ!!?」

「俺がお前を殺すのと、お前がその子を殺すの……どっちが早いか試してやろうか?」


 声のトーンが数段落ち着いたライアー──否、〈悲嘆のエル〉は悠然と言い放つ。

 未だに彼は素手だ。剣は投げ捨てた場所から動いておらず、拾ってから斬りかかるには余りにもアイム達との間に距離が離れている。


 だというのに、その立ち姿からは微塵も焦燥が窺えない。

 まるで『もう勝っている』とでも言わんばかりに不遜な態度だ。

 しかし、〈悲嘆〉はその不遜に見合うだけの所業を成している冒険者の一人である。各国で魔王復活の為に暗躍している数多くの罪派が、彼とその仲間達に潰されたという報せは、罪派の中では有名な話題だ。裏の市場では懸賞金すら掛かっているが、今のところ誰かが討ち取った報告は届いていない。


「偽名を使って我々に近寄るとは〈悲嘆〉も堕ちたものですね……!!!」

「安いものだ。それで罪派を潰せるならな」

「ぐっ……!!!」

「それよりもいいのか?」

「っ……何の話だ?」

「聞いたことはあるだろう。〈悲嘆おれ〉の仲間──〈傲慢〉の存在くらいは」

「!!!」


──まさか。


 一瞬の思考。

 そうだ、失念していた。〈悲嘆〉は一人だけのパーティーではない。

 〈悲嘆〉は冒険者として名を上げるよりも前から、一人の少女とパーティーを組んでいた。


 その名も〈傲慢のルキ〉。

 アータンと同じ大罪の〈罪〉の内の一つを宿した勇者その人である。


 〈悲嘆〉がここに居るのであれば、彼女もここに居ないはずがない。

 思い至った瞬間、アイムは魔力探知を全開にする。教会全体へ、蟻の一匹も見逃さぬほどに研ぎ澄ます。


(〈傲慢〉め!!! どこかに潜んで──!!?)


 そして、見つけた。

 場所は──






 まさに目の前だった。






「は?」

「ま、全部嘘なんだけどな」

「貴さ、まなッんまっほあぁあぁあぁあぁあぁあぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!?!?!?!?!」


 突如響き渡る絶叫。

 何故ならば、理由はアイムの下半身にあった。

 男の大事なタマがぶら下がっている股間。まさしくそこへ脚(グリーブ装備)が振り上げられていたのだ。

 メキョッ……! とでも鳴り響きそうなめり込み具合。

 それまで悪魔然としていたアイムの顔も、真っ赤から白を経由し、最終的には真っ青に染まった。顔中に滝のような汗を掻きながら絶叫した後は、直立するのもままならなくなって倒れた。


(魔力探知に引っ掛からなかった!!? 幻惑魔法……!!! だとしたらなんだ!!?)


 直後の理解。


「もしや……〈悲嘆〉ではないな!!? 貴様の〈罪〉は──」

「はーい、電気あんまの刑いきまーす」

「は? でんき……ま、待て!! やめろ貴様何をするつもりゃあぁあぁあああああああぁあああああ!!!?」


 股間を押さえるアイムの腕を引き剥がし、ライアーは股間にあてがった足を全力で上下運動させる。


 これこそ全手動陰嚢破壊機こと、電気あんま!

 股の間にブラ下がっている二つのタマは、押し付けられる足の重みによって内臓を押し潰されるかの如き鈍痛を生じる!


「あああんあああんあんあんあああん!!!!? きさ、やめ、やめろぉおおおあああああああああ!!!!?」

「『やめろ』? う~ん、どうしよっかなぁ~? やめよっかなぁ~? ん~~~……やっぱやめてあげな~い!」

「はあ!!!!? やめっ、やめあああああああ゜あ゜あ゜あ゜あ゜あ゜あ゜あ゜あ゜あ゜あ゜あ゜あ゜あ゜!!!!?」



(うわぁ)



 最早どういう悲鳴なのだろう。

 間近で公開処刑を眺めるアータンは、司祭の悶絶する姿にそっと自身の股間を押さえた。女だから真の意味で共感はできない彼女ではあったが、この教会中に響き渡る鶏の首を絞めたような悲痛な叫び声を聞くだけでも、ある程度痛みを想像できてしまったようだ。


(痛そう……)


「あ、アータン!!! アータンッ!!!」

「っ!」

「何を黙って見ているのです!!!? わた、私を助けなざぃい!!!?」


 アータンが傍観を決め込んでいると、一人二十面相のアイムがそう告げた。

 しかし、


「それが人に物を頼む態度か? はい、罰としてギアあげまーす」

「んなっ……ぎひにいぃぃぃぃいいぃいいぃいいいい!!!!?」


「うわぁ」


「あ゛、アーダンぅうッ……!!!!! 助げっ、助けてください……!!!!! どうかッ、どうかお願いですからぁ゛……!!!!!」

「よくできました。ま、別に俺はやめないけど」

「ぽあああああああああああ!!!!?」


 一応はアータンに救済を懇願できたアイム。

 だがしかし、そもそも現状は彼の自業自得とも言うべき状況だ。ましてや悪魔堕ちさせられようとしたアータンにとって、この司祭に復讐する理由はあっても助ける理由はない……。


 はずだった。


「あ、アータン……お願いですッ……!!!  全部……全部嘘だったんです……ッ!!!」

「えっ……?」

「最初っから、ああおおん!!!? ぜ、全部ですよっほぉ゛!!!? 全てはっ、貴方の〈罪〉を覚醒させる為……仕方ない嘘だったんでず……ッっぽぁあ゛あ゛!!!?」

「で、でも司祭様……故郷を焼いたのも、暴力を振るうお家に面倒看させたのも司祭様の指示だって……!」

「それが嘘なんですよッ!!!」


「おーい、こいつ嘘ついてるぞー」


「ぽぎげぅああああああっはああああ!!!? ほ、本当です……本当なんです!!! だからっ、この男を止めてくださいぃいいい゛ッ!!!!?」


 電気あんまはギア3へと突入した。

 まるで掘削機の如き轟音を奏でる足に対し、アイムの玉鋼は掘削される寸前であった。


「命乞いにしたってそりゃねえだろ。あんだけぶっちゃけてた癖によ」

「アータン!!! 嘘じゃありません、本当です!!! 私を信じてくださぁい!!! 全ては貴方の為゛ッ……未来の英雄を作る為、致し方なかったことなのですぅううあぎぃいいい゛!!!?」

「っとに、こいつは……」




「……ないよ……」




「ん?」


 不意にライアーの脚が止まる。

 理由は、目の前で俯く少女の声を聞き上げる為だった。


「できないよ……」

「できないって……何が?」

「もう……何も信じられないよッ!!!」


 あらんばかりの力で拳を近くの壁に打ち付けた少女。

 その際、揺れた彼女から一滴の雫が滴り落ちた。

 それが決壊の合図だ。一度溢れ出した思いは堰を切ったようにとめどなく溢れてくるのだった。


「なにが嘘とか!!! どれが嘘とか!!! もう騙されて酷い目に遭うのはイヤなの!!! それだけで……それだけで辛いのに、これ以上私を辛くさせないでよッ……!!!」

「……」

「何も信じられない……何も信じたくない……!!! 後から『それは嘘だ』って教えられてショック受けるぐらいだったら、最初から何も信じたくなんかないよッ!!!」


 少女の心からの叫びが響き渡った。

 人よりも不幸な人生を送った彼女。一度は救いあげられた彼女が、実はそれが掌の上で踊らされた虚構の産物であると教えられた時、どれだけの絶望を与えられたかは常人の想像の域を逸していたに違いない。

 その上、さらにその虚構すらも嘘だったと言われたならば、彼女がこうも不信になるのも致し方ない。


 致し方ないが──


「なあ」

「……なに」

「これ、お前の本か?」

「……え?」


 俯くアータンの目の前に差し出されたのは一冊の絵本。


「これ……」

「そこに落ちてたぞ?」

「……あ」


 始めに拘束された時、手放してしまったマザーからの餞別。それをライアーが拾い上げてくれていたのだ。


「私の……ありがとう」

「どういたしまして。ちなみになんだけどさ、アータンはこの絵本……嘘だと思うか?」

「え?」

「中身の話だよ。この内容嘘だと思うかって」

「絵本が嘘か、って……そりゃあ……」


 真実を描いた本もあれば、嘘ばかりの本もあるだろう。

 この絵本もとある英雄をモチーフに描かれているものの、すべてを現実と信じるにはアータンは子供でなくなっていた。


「……そうじゃないの?」

「じゃあ次の質問だ。アータンはさ、この絵本のこと?」

?」


 内容がフィクションと分かっている絵本。

 世の中の絵本なんて大抵そうだろうが、内容が嘘か真かであることと、好きか嫌いかはまた別の話になってくる。


「私は……」

「好きなのか?」

「……うん」

「じゃあ、それでいいだろ」


 え? と俯いた顔を上げた時、彼女は太陽を幻視した。

 鉄仮面越しにでも満面の笑みと分かる温かな笑顔。見る者の心にじんわりとした温もりを分け与える目元の綻びに、アータンの心の凍結がピタリと食い止められた。


「それでいい……って?」

「そのまんまの意味だよ」


 ライアーは絵本を指差しながら続ける。


「漫画に小説、テレビにゲーム。作品なんてフィクションでも全然楽しめるもんだろ?」

「嘘、でも……?」

「俺もさ、好きな作品があるんだ。子供の時からずっとハマってて、大きくなってからもそいつの続き物にぞっこんだった。ま、実際にはそいつもよくあるフィクションの物語だったんだけど……」


 絵本の汚れを手で払うライアー。

 そうして汚れが取れた時、彼は懐かしむような眼差しを絵本の表題へ注いだ。


「本当に……大好きな作品なんだ」


 アータンは、初めて彼の本音を聞いた気がした。

 終始ふざけた態度で嘘ばかり吐く人間──しかし、その本音はどこまでも純粋で純朴で、まるで幼い少年のようだった。


「だからさ、好きな嘘を選べよ」


 すると、彼はアータンに絵本を握らせた。

 彼女が『好き』と言った『嘘』を。


「色々あって信じたくない気持ちは分かるけど、何も信じないまま生きてくなんて人生楽しくないだろ。違うか?」


 その言葉を受けたアータンは口をキュッと結んだ。

 手渡された絵本も自然と強く抱きかかえた。


 何も信ずるものがない。

 それすなわち、何一つ心の拠り所ないことを意味する。

 心の拠り所がなく生きていくのは非常に険しく、難しく──そして、孤独で寂しいものだ。


「──それにさ、嘘も全部悪いもんじゃないぞ」

「……どういうこと?」

「嘘は嘘として楽しむ。でもさ、時々あるんだよ。嘘だと思ってたものが本当に存在してた時がさ」

「え?」

「土地に生き物だったり、あとは料理とかな! いやー、ずっと昔から憧れてた料理があったんだけど実在してんの見た時は感動したわー! んで、いざ実食してみた訳さ。それが……」

「それが……?」

「思ってたより美味しくなかった! ヒーッ、笑える! 自分で勝手に期待値上げといてな!? ギャハハハハ!」


 手を叩きながら大笑いするライアー。

 しかし、本当に心の底から楽しそうな様子だった。


 間近で眺めていたアータンも、無邪気に笑う彼の様子を見て瞳に光が宿っていく。


「じゃあさ……一つ訊いていい?」

「うん? なんだなんだ、何でも聞いていいぞ~♪」

「嘘だと信じてたもので……実は実在してて嬉しかったものって……なに?」


 純粋な疑問だった。

 対してライアーはと言えば『なるほどそう来たか』と思考に入る。


「そうだなー。んー、色々あるけどやっぱあれだなー」


 熟考に熟考を重ねたライアー。

 そんな彼の人差し指はゆっくりと持ち上げられ、目の前の少女の額をトントンと叩いた。


 謎の行動に首を傾げるアータン。

 しかし、目が合ったままの相手はこう告げた。


「一番嬉しかったのはお前に……アータンに会えたことだ」

「──え?」

「ずっと……ずっと、お前のこと助けたかったんだ」




──嘘じゃない。




 そう言って、ライアーは屈託ない笑みを浮かべた。

 心の底から楽しそうに。


 彼の言葉の意味をアータンは測りかねた。


(私を助けたかったってどういう意味?)


 言葉通りの意味だろうか?

 はたまた何かの作品に登場する状況の再現だろうか?


 女の子が一度は白馬の王子様に迎えに来てもらうことを夢想するように、彼も助けを求める誰かを助ける場面を夢想していたのだろうか?


(だとしたら、この人……)


 そして、こう思ったのだ。




(この人…………)




 全力で嘘を楽しむ姿勢も。

 実在していたら、心より感動できる感性も。

 実物が期待外れでも楽しめる割り切りの良さも。


 この瞬間、彼女はライアーを素直に羨んだ。

 妬みとか嫉みとか、そういった悪感情ではない。

 すると、自然と彼女の半身に浮かび上がっていた紋様が次第に消えていく。黒く染まっていた右目も徐々に元の色を取り戻す。


──〈罪化〉が収まった。


 これには股間を押さえて身悶えていたアイムは目を剥いた。


「そ、そんなッ……!!?」

「よし、それじゃあ審判の刻だ」

「なっ……!!?」


 ライアーは、今も尚タマの痛みで立ち上がれない男を踏みつける。

 『あひんッ!!?』と情けない悲鳴が木霊するが、これは無視する。


「アータン、こっからお前が選んじゃいな」

「私が?」

「ああ。お前が選べる嘘は二つに一つ」


 一つ、アイムを信じて彼を救出する。

 一つ、ライアーを信じて彼を成敗する。


「よく考えて選ぶんだぞ?」

「ア、アータン……その男に騙されてはいけません……! 私は貴方に嘘を吐いてしまいましたが、それにはやむにやまれぬ事情があるからこそ……! きちんと謝罪はします……! だから、今はその男を止めるのです……!」

「ちなみに……」


 ちょいちょいとライアーは手招く。


「ちょっと耳貸して♪」

「な、なに?」

「ごにょごにょ」

「? ……──!」

「さぁ! どっちを選ぶかなぁ~⁉」


 何かを耳打ちしたライアーが、大仰に身振り手振りする。

 すると、口を結んでいたアータンがゆっくりとアイムの方へと向かって行くではないか。

 無言がこれほどまでに恐ろしいとは──司祭になってから初めて知った知見に冷や汗をダラダラ流すアイムは、股間の痛みに耐えながら少女の方を見向いた。


「ア……アータン?」

「……司祭様。貴方は私にしてきた所業を嘘と言いましたね。故郷を焼いたことも、酷い家に預からせて虐めさせていたことも……」

「は、はい! その通りです! 全ては貴方の〈罪〉を覚醒させる為! 私も誠に心苦しかったですが、仕方なかったことなのです!」

「そういうことでしたら、司祭様には私を拾い上げて面倒を看てくださってもらった大恩があります。幼かった私に魔法を教え、心を育む美徳を授けてくださった尊敬すべきお方……たとえ一つや二つ嘘を吐かれたところで、貴方への恩義が揺らぐことはありません」

「アータン……!」

「私は……私は司祭様を許しましょう」


 少女は、花のような笑みと共に司祭へ手を差し伸べた。


──ああ、この少女は何と慈悲深いのであろう。


 アイムは目の前に降臨した女神に自然と涙が溢れてきた。

 その間、アータンはゆっくりと呼吸を整える。肺いっぱいに空気を吸い込み、準備が整ったと言わんばかりに頷く。


 そして、











「──嘘に決まってるでしょぉおおおおおッ!!!」











「ぴ゛゜゛っ──あぎがぴぎがばぎゅがぁっはっばあああああああああああああああああああああああ!?!?!?!?!?!?!?」


 全力。

 ああ、それは紛れもなく全力の一撃だった。


 か細い少女の脚が、男の股間にめり込んでいく。

 刹那、司祭の顔は壮絶な百面相を描いた。人間の表情筋ってあんなに動くもんなんだなーと、ライアーが感心するほどの動きだった。


 次の瞬間、喉が引き裂かれるような断末魔が遅れて教会の窓を揺らす。

 悲痛。そう形容する他ない汚い絶叫だ。

 しかし、嘘を吐いた挙句少女を泣かせた男への罰としてはまだまだ足りない。


 執拗にタマを蹴り続けるアータン。

 絶叫を越えて慟哭するアイム。

 それを見て爆笑するライアー。


 三者三様の地獄を呈す教会の中は、しばらく天に召されるタマへの鎮魂歌が鳴り響くのであった。




 墜ちんちんランド、これにて閉園。

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