第3話 虚構は真実の始まり




 馬車での移動はそう大した時間は掛からない。

 街道沿いに進めば半日も経たず、アータンは孤児院へと到着した。


「アータンだ! おかえり!」

「もぉ~、どこ行ってたんだよ。皆心配してたんだぜ?」

「もしかしたら魔物に食べられちゃってたかもって……」


「あ……ごめん……」


「コラコラ、そんなに質問攻めにしたらアータンが困りますよ」


 馬車から遅れて司祭が下りてくる。

 これまた朗らかな微笑を湛えた彼は、慣れた様子で子供達を手で制しながら続ける。


「どうやら森で迷子になってしまったようです。たまたま冒険者が居てくれて助けてくれたようですよ」


 その言葉を聞いたアータンが『え?』と声を漏らした。

 しかし、続けざまに聞こえてくる『ドジだなぁ~』や『無事でよかったね~』と告げてくる言葉に掻き消されてしまう。


 彼女はまだ、出て行った理由をこれっぽっちも明かしてなどいなかった。


(嘘……?)


 平然と吐かれた偽りの言葉は、遅効性の毒のように少女の心を緩やかに恐怖で蝕んでいく。当然、ただ単に気を遣ってくれたという可能性も考えられる。家出した理由なぞ、普通に考えて共同で暮らす者達が聞けば気まずくなるだろう。


 だがしかし、やはり逃げ出す直前に聞いた司祭達の会話が少女の脳裏を過った。

 特に〈洗礼〉という単語。一般的に入信の儀式とされる言葉であるが、プルガトリアにおいてはまた別の意味を持つ。


(〈洗礼〉ってたしか、〈シン〉を刻む儀式のことだよね……?)


──シン


 それは天使にも悪魔にも成り得るカルマの力。

 己が魂に善と悪の基準となる〈罪〉を刻むことで、自身が積んだ善行……あるいは悪行に応じた分の力を得られるとされている。


 善行を積めば聖に。

 悪行を積めば魔に。


 一見危うく見える儀式ではあるが、教団に所属している高位の聖職者のほとんどは〈罪〉を刻んでいる。

 教団に所属している騎士団や町を守護する守護天使、そして国の重役でさえ〈罪〉を刻んでいる。

 なぜならば、〈罪〉を刻みながら魔に落ちていない──その事実こそが清廉潔白に生きている証明となるのだから。


 しかし、この〈罪〉を刻む為の儀式は誰に対しても行われるものではない。

 なにせ人を人ならざる存在へと昇華させることも堕とすこともできる人智を超えた力だ。〈洗礼〉を受けられる人間は教団の聖職者が魔に堕ちぬと判断した者に限られる。


 すなわち、教団からの〈洗礼〉そのものが名誉とされているのだ。


(私の考え過ぎなのかな……?)


「アータン? アータン」

「ひゃ!? はい!?」

「フフッ。疲れてボーっとしていましたか?」


 司祭の大きな掌が少女の頭を覆い被さる。


「慣れない馬車に揺られて疲れたでしょう。今日は早めにお休みなさい」

「あ……はい……」

「皆も聞こえていましたね? 夕食を取ったら早めに眠ること。夜の闇は魔を運んできますからね。夜更かしする子は魔物に連れて行かれますよ」


 主に小さい子に向けた司祭の言葉に、集まっていた子供達は『きゃー!』と黄色い悲鳴を上げながら散っていった。


「さあ、アータンも」


 優しく背中を押す司祭に、少女も孤児院の方へ歩ませられる。


 これが日常のはずだった。

 ここが帰るべき場所のはずだった。


 だのに、どうして自分の脚はこんなにも重いのだろう?

 拭えぬ違和感や不安を胸に抱いたまま、少女は仕方なく孤児院の中へと戻る。


──どうか何事も起こらないように。


 彼女にできることは、そんな漠然とした祈りだけだった。




 ***




 孤児院の夜は早い。

 夜中は獣に野盗、何より魔物が活発的に動く時間帯だ。火急の用事がない限り外には出歩かないことは最早不文律だと言っても過言ではない。


「アータン、この絵本読んで!」

「私も~!」

「次はあたしの番!」


「ちょ、ちょっと待って! 一人ずつ! 一人ずつだから! ね!?」


 そうなれば外で遊べない子供は室内で時間を潰す羽目になる。

 孤児院の中では外のように走り回れない以上、残された娯楽は読書ぐらいだ。


 しかし、孤児院に並ぶ書物は聖書や教典といった難しい本ばかり。

 唯一幼い子供が楽しめるものは、長い間読み聞かせに使われてボロボロとなった絵本であった。


 かつて世界を救った勇者の英雄譚。

 この大陸に住む人間であれば一度は耳にするであろう伝説が描かれた絵本を、子供達は皆好んでいた。


 絵本の行く先は決まって年長者のアータンだった。

 彼女は幼い子供達から好かれており、よく就寝時間前には絵本を持った子供達に囲まれていた。

 アータン自身、幼い子の面倒を看るのはイヤではない。子供の無垢な笑顔に囲まれると自然と笑顔が溢れてくる。


 だが、今日はいつもに増して子供が殺到していた。

 普段は自主的に順番を守ってくれる子供は、今日に限っては我先にと絵本を掲げている。しまいにはあっちこっちで喧嘩が起こりそうな空気さえ流れる。

 どうしたものかと困り果てるアータンであったが、そこへ助け舟を出したのは孤児院で子供の面倒を看る老齢のシスターであった。


「お待ちなさいな、アータンが困っていますよ。彼女は疲れているのだから、今日は休ませてあげて」

「「「え~」」」

「代わりに私が読んであげますから」


 そう告げるシスターに、子供達は不承不承といった様子でアータンから離れていく。

 かくして包囲から抜け出せたアータンは、ホッと安堵の息を吐いた。


「ふぅ……ありがとうございます、マザー。助かりました……」

「いえいえ。でも、皆貴方が恋しくなったんでしょうねぇ」


 思いがけない言葉に呆気に取られると、シスターはにっこりと笑顔を浮かべる。


「貴方が中々戻ってこないと聞いて、皆心配していたんですよ? 中には泣いちゃう子も居て……」

「えぇ!?」

「貴方は孤児院皆のお姉さんだもの。さっきのはその反動かもしれないですねぇ」


 うふふ、とシスターは朗らかな笑い声を漏らす。

 対するアータンは、照れ隠しをするように頭を掻いた。まさかそこまで自分が慕われているとは思ってもいなかったとでも言わんばかりだ。


「でも、そんな貴方ももうすぐ〈洗礼〉を受けるものねぇ。神父様が言っていたわ」


 思いもよらぬところから出てきた〈洗礼〉の二文字に、少女が固まった。


「……神父様が?」

「えぇ! それにしても時が経つのは早いものですねぇ……貴方が来てからまだ少ししか経ってない気がするのに。って、いけないいけない。柄にもなくはしゃいでしまいました」


 シスターはアータンの手を取りながら続ける。


「〈洗礼〉を受けたなら、聖都に赴いて更なる修練を積んだ後、大聖堂にお勤めすることもできるかもしれません。貴方が望むのであれば、聖堂騎士団や守護天使にだってなれるはず」

「は、はい……」

「貴方の清廉さは私もよく存じています。神父様もそれを認めてくださったのでしょう。気が早いかもしれませんが、どうか祝福させてください」

「ありがとう……ございます……」


 心の底から祝福するシスターは、目尻にたっぷりの涙を浮かべていた。

 それほどまでに教団関係者にとって、〈洗礼〉を受けて〈罪〉を刻む儀式は名誉であるのだ。それを孤児院でずっと面倒を看てきた少女が受けられる。彼女にとって、それは我が事ように喜ぶべき祭事であった。


(やっぱり思い違いだったのかな?)


 感極まるシスターの様子に、次第にアータンは自分の中に留まる不安を疑い始める。


 そうだ。本来、〈洗礼〉とは喜ぶべき神からの祝福である。

 清廉潔白に生きようとする者である限り、利益になっても不利益になる事態には陥らない。それこそ国や教団の重要役職に就こうものなら〈罪〉の刻印は必須。そうでなくとも〈罪〉を刻印された事実そのものが一種のステータス──身分証明となる。


 悪行を重ねれば魔に堕ちるとされるが、それを差し引いても余りあるメリットは、確かに身寄りのない孤児からすれば泣いて喜ぶべきかもしれない。


「失礼」


 そこまで思い至ったところで、ぬるりと何者かの声が二人の間に割って入った。


「アータンはいますか?」

「あぁ、神父様。アータンでしたらこちらに……」

「おお、ちょうど良かった」


 普段から孤児院に顔を見せに来る司祭の来訪に、シスターは笑顔で応対した。

 すると彼女は話の邪魔になると思ったのか、一礼し、絵本を片手に待っている子供達の方へと向かう。


 これで二人きり。

 アータンは少し緊張した面持ちで司祭の方を向く。


「神父様、私に何か御用が?」

「実は〈洗礼〉の件で貴方にお話ししたいことが」


 単刀直入。

 まさに今シスターと話していた話題に、アータンは動揺を隠す間もなく瞠目してしまった。


 そんな彼女の様子にキョトンと呆気に取られる司祭であったが、たちまち堪えきれないと噴き出す。


「フフッ。嘘が吐けませんね、貴方は。まあ、そこが貴方の素晴らしいところなのですが」

「ご、ごめんなさい」

「大方、マザーか誰かから小耳には挟んでいたのでしょう……やれやれ。ですが、ゆくゆくは直接話すつもりでしたから手間が省けたと前向きに考えましょう」


 そう言って司祭は、おもむろに右手を差し出した。


「実はですが聖都にある教団の本部から打診が来ていましてね。『将来有望な若手を紹介してくれないか?』と──そこで、貴方を推薦しようかと考えていたんです」

「えええっ!?」


 寝耳に水の申し出だった。

 驚き過ぎたアータンは後ろに飛び退き尻もちをついた。


「わわっ、私が聖都に……!? 嘘じゃないですよね!?」

「ハハッ、そんな嘘は吐きませんよ。貴方は同年代よりも魔法の扱いにも長けている……いわば、神童です。機会さえあれば推薦しようとは常々考えておりました」

「そんな……!」


 望外の出来事に感極まるアータンへ、司祭は柔和な笑みを向けながら手を差し伸べる。


「〈洗礼〉は聖都で執り行われます。それすなわち、インヴィー神の使徒になるということ。貴方という清廉潔白な使徒を迎え入れることができて、きっと神もお喜びになるでしょう」

「あ……」

「どうしました?」


 不思議そうに首を傾げる司祭。

 だが、そもそもアータンは〈洗礼〉を受けるとは言っていない。

 あくまで〈洗礼〉を受けるか否かは本人の選択だ。けっして司祭個人の判断だけで執り行われるものではない。


 しかし彼は、少女が〈洗礼〉を受けるものだと断定した上で祝福の言葉を口にした。


「その……えっと……」

「何か不安でも?」


 断るのならば、今、この瞬間しかない。


「ぃや……あの……」


 数秒の逡巡。

 ゴクリと唾を飲み込んだアータンは覚悟を決める。


「〈洗礼〉──〈罪〉が刻まれたら、魔に堕ちるって……」


 〈罪〉の明確なデメリット。

 悪行を積み重ねる者の成れの果て──悪魔堕ちに、とうとう彼女は言及した。

 これに司祭は顎に手を当てて考え込む。


「フム……つまり、〈洗礼〉を受けた自分が魔に堕ちないか不安だと。そういう訳ですね?」

「は、はい」

「そういうことですか。なるほどなるほど……」


 うんうんと司祭は頷く。

 真摯な面持ちで、しっかりと少女の不安に寄り添おうという心情が見て取れた。


 だが、


「それなら問題ありません!」

「へ?」

「なぜなら、アータン……私が貴方を見込んだからです」


 がっしりと少女の両肩を掴む司祭。

 彼の表情からは『信頼』の二文字が読み取れた。


「貴方ほど勤勉で真面目な子は孤児院の中でも他に居ません。魔王軍に故郷を滅ぼされ、貴方は長い辛抱の時を経た……ロクに贅沢もさせてあげられず、孤児院での生活は酷く苦労を掛けてしまいましたね……」

「い……いえ! そんなっ……」

「ですが、そんな生活の中でも貴方は感謝を、慈愛を、人を人たらしめる教えを忘れなかった! それこそインヴィー教の美徳を為すところ! だから言わせてください……よく頑張りました……!

「神父様……」

「なればこそ、私もせめてもの贈り物にと〈洗礼〉を決心したのです!」


 次第に熱くなる語り口に、アータンは今の今まで胸の内で渦巻いていたモヤモヤが晴れていくのを感じる。


 と、同時にこう思った。


(私、どうして神父様のことを疑っていたんだろう?)


 こんなにも強く想ってくれる相手を疑っていたなんて、自分はなんて失礼な人間だったかと恥じ入る気分だった。

 途端に目頭が熱くなる。鼻の奥もツンとする感覚に襲われた。

 脳裏には、故郷を焼かれたあの日からの思い出が走馬灯のように流れている最中だ。辛く苦しい日々に、今も尚胸が締め付けられる気分に陥る。


 しかし、その地獄から真っ先に助け出してくれた相手は誰だ?


「……ぐすっ」

「うぇえ!? どうしたのですか、アータン!?」

「ごめんなさい……そこまで考えてもらっていたんて知らなくて……! 私……とっても失礼なこと考えちゃってて……!」

「ははっ。何のことかは分かりませんが、誰だって誰に対しても秘め事の一つや二つあるものです」


 司祭は寛大に笑い飛ばし、今度は先程と打って変わって気さくに肩を掴んだ。


「貴方の栄進を、きっとマザーや孤児院の皆も祝福してくれるはずですよ」

「っ……はい!」

「段取りはまた後日話します。もう今日はお休みなさい」


 アータンを労わる言葉を投げかけ、司祭は孤児院を後にした。

 その背中を見送ってしばらくしてからだ。

 少女は、ようやく自分が祝福されている事実に温かな涙を流した。


 他人よりも不幸な人生を送ってきた事実は間違いない。

 故郷を焼かれた事実も流れ着いた土地で受けた暴力も、けっして覆りはしない過去だ。

 それでも清く正しく生きていればいつかは報われると信じて生きてきた。


──きっと〈洗礼これ〉がそうなのだ。


 想いは堰を切ったように溢れ出す。

 拭えども拭えども、胸に押しとどめていた万感は止まるところを知らなかった。


──あぁ、私はなんて幸せ者なんだろう。


 そう、信じて疑わなかった。



 そして、アータンが王都へと出立する日がやって来た。


「アータン、行っちゃうの……?」

「うん。私向こうでも頑張るからねっ!」

「行っちゃヤダー!」


 見送りに来た子供の中には、泣き出す子が何人も居た。それもまた彼女の人徳が為せるところではあるが、これでは出発しようにも出発できない。

 見かねたマザーが子供を宥めて引き剥がし、一人ずつお別れの言葉を告げるよう促す。


「アータンこれあげるー」

「あたしもあたしもー!」


「わあ、皆ありがとう! 大事にするね!」


「……アータン、これ……」

「ありがとう! ……ん、これって……?」


 遂に最後の一人となった子供が酷くボロボロな絵本を手渡した。

 題目はアータンも良く知っている。なんだったら孤児院に来てから何度も読んだ。何度も何度も……それこそ中身の文字や挿絵が擦り切れるほどに読んだ。

 挙句、すっかり頭の中に焼き付いた英雄譚は、絵本の代わりに孤児院の子供へ何度も読み聞かせた。


 しかし、あくまでこれは孤児院の所有物だ。

 受け取る訳にもいかず、アータンはわたわたと絵本の受け取りを拒否する。


「持ってきたら駄目だよこれ!? ほら、返してきて!」

「いいんですよ、アータン」

「……マザー?」


 マザーは孤児院に来てからずっと面倒を看てきてもらった相手だ。

 ほとんど母親に等しい彼女には強く出られないアータンであるが、それでもやはり孤児院の所有物を持って行くことには忌避感があった。

 だが、それを拭い去るのもまたマザーだ。

 色褪せた表紙を撫でる彼女は、深く皺が刻まれた口角を柔らかに吊り上げた。


「私からの餞別です。貴方はこの絵本……いいえ、この物語が好きだったのでしょう?」

「でも、私が持って行ったら孤児院の皆が読む本が、」

「今度は貴方が主人公の物語が読みたいのですよ」


 そう言われた瞬間、アータンは固まった。

 物語?──自分の?──何故?──いくら考えても答えが出てこない謎に思考が止まりかけた時、マザーの朗らかな笑い声が鼓膜を揺らした。


「駄目かしら?」

「いや、えっと……が、頑張ります?」

「冗談ですよ。『それくらい頑張って』というメッセージです」

「……あ」

「ウフフ、貴方は小さい頃から変わらず素直ですね」


 絵本を掴むアータンの手に、マザーの手が重なる。

 しわくちゃな掌からはじんわりと、それでいて優しい温もりに溢れていた。


「どうかその心を……この本と共に忘れることがないようにと。そういうおまじないです」

「マザー……」

「さっ、もうお行きなさい。神父様が首を長くしているわ」

「はい!」


 もう躊躇いはなかった。

 受け取った絵本は無くすまいとがっしり両腕で胸に抱え込む。

 母同然の恩師の言葉と共に餞別を受け取ったアータンは、温かな祝福と声援を背に受けながら司祭と共に馬車へと乗り込んだ。


「皆、ありがと~!」


 アータンは満面の笑みで手を振る。

 子供達も手を振り返してくれるが、馬車が動き始めればあっという間に見えなくなった。


 さよならの声も届かなくなった頃、アータンは抱きかかえていた絵本の表紙を捲る。

 やはり挿絵は掠れていて見えない。文章もほとんど消えかかっており、ロクに読めたものではない。


 だが、内容ははっきりと憶えている。

 マザーに読み聞かせてもらった思い出も、子供達に読み聞かせた思い出も──。


「ぐすっ……」

「……名残惜しいでしょうが、いつまでも泣いてはいられませんよ。なにせマザー達はアータンの躍進を心から望んでいるでしょう」

「っ……はい!」

「フフッ、そういう私もその一人ですが」


 茶目っ気を出す司祭に、涙目だったアータンも思わず頬を綻ばせた。

 それから数刻の間、二人が乗り込むキャビンは馬の歩みに合わせて上下に揺れる。王都までの道のりは長く、馬車でも数日は掛かる。


(あれ? なんだか急に眠くなって……)


 最初こそ応援してくれる者達に応えようと意気込んでいたが、気疲れの所為か瞼が重くなってくる


「──タン。起きてください、アータン」

「ふぇあ!?」


 司祭の声に起こされ、少女は眠りから覚める。


「も、もう聖都ですか?」

「フフッ、周りをご覧なさい」


 言われるがまま周りを見渡す。


「……え?」


 そこは寂れた教会の中だった。

 通路の左右に並ぶ長椅子や窓ガラス、そして最奥に構えている祭壇に至るまでボロボロだ。

 印象としては廃墟そのもの。割れた窓から噴き込んでくる隙間風も心なしか冷たかった。


(あれ? なんで私、こんなところに座って……)


 わざわざ馬車から移動させられたのか、アータンは教会の祭壇手前に座らされていた。


 不自然。

 そして、不可解だった。


「ここは?」

「そろそろ頃合いでしょう」

「な……何がですか?」


 祭壇に立っていた司祭が何かを促す。

 何の事かと質問を口にするよりも早く、首筋に堅くザラザラとした感触が押し付けられた。


 次の瞬間だ。


「ゔっ!!?」


 理解するよりも早く、少女の体は床へと押し倒された。両腕に抱えていた絵本は手放してしまった。

 突然のパニックが少女を襲う。

 強く膝を打った痛みもだが、何よりも両側から挟み込んでくる槍の柄で気道を締め付けてくることが恐ろしかった。


「く、苦しっ……!」

「──やれやれ。一度逃げ出された時はどうしたものかと焦りましたよ」

「神父様……!?」


 顔を上げた瞬間、すでに司祭の姿は目の前にあった。

 いつも通りの声色。

 いつも通りの微笑。

 なのに、それが今だけは途方もなく不気味だった。まるで未知の存在を前にしたかのような──いいや、違う。


……!?)


 自分はを知っている。

 あの日、あの時。

 偶然教会の窓を覗いて見聞きした悍ましい怪物は間違いではなかったと、今気づいた。


「神父様!! これは一体……!?」

「なんてことはありません。ここで〈洗礼〉を行うだけですよ」

「〈洗礼〉……?!」


 司祭の男は笑顔を張り付けたまま、懐から一つの枷を取り出した。

 簡素ではあるが細かい装飾が彫られた一品だった。単に拘束する為ではないそれを、男はアータンの手首へと嵌める。


「なに、これ……!?」

「ああ、ちなみになんですが──聖都への推薦の話。

「え?」


 あっけらかんと言い放たれた言葉に、一瞬アータンの中での時間が止まる。

 キュウ、と。

 まるで心臓を握り潰されるような感覚に、彼女の全身から血の気が引いた。


「……じゃあ……なんで、ここ……?」

「本来は地下でやるつもりだったんですがね。最近はどうにも騎士団やらギルドの動きがきな臭い。大事を取って誰も居ない場所を選んだ訳です」

「それなら皆はっ?!」

「皆?」


 本当に分かっていないのか、司祭はきょとんとしていた。


「ヘレナにマルキア……リウィアは!? 神父様が言ったじゃないですか! 引き取り手が見つかったから孤児院から巣立ったって!!」

「ああ、アレも嘘ですよ」

「っ!!?」


 ほとんど殴られたような衝撃がアータンを襲った。

 思考が上手くまとまらない。

 言葉の意味は理解できるのに、頭がそれを拒否している。


 何も考えたくない。

 これ以上考えてしまえば、もっと傷ついてしまう──そんな予感だけが確信的だった。


 しかし、未だ立ち直れていない少女の様子に、司祭はいやに満足げだった。

 そして、畳みかけるように言葉を連ねていく。




「そもそも貴方の故郷を焼いたのは私ですしね」




 今度こそ。

 今度こそ、呼吸が死んだ。


 ヒュ、と一度空気を吸い込んだまま、アータンはピクリとも動かなくなる。

 唯一、辛うじて両の目を恐る恐る眼前の男の方へ向けた。


「……嘘」

「嘘じゃありませんよ」


 にこやかに男は言い切る。

 同時に、アータンの中では〈何か〉がガラガラと音を立てて崩れ落ち始めた。


──駄目だ、これ以上聞いてはいけない。


 すでに心が死に体のアータンは耳を塞ぎたくなる衝動に駆られるが、拘束してくる兵士がそれを許さない。



「貴方はその後とある家に拾われましたね。そして、酷い虐待を受けていたのを見かねて私が引き取った……アレも嘘です。元々そういう指示でした」



──嘘だ。



「そして引き取られた貴方は孤児院で質素な生活を送ったでしょう。『清貧こそが人の心を育む』、と……アレも嘘です。家畜のエサに金を掛けたくないのはどこも同じでしょう?」



──嘘だ。



「そして、貴方への贈り物に〈洗礼〉を施すと決めた……当然、アレも嘘です。素養があろうがなかろうが、いずれは〈洗礼〉を施すと決めていました」



──嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ……──。



「うっ……ぅおええ゛っ……!?」


 刹那、込み上がってきた吐き気に耐えられなくなる。

 アータンは床に吐しゃ物を撒き散らす。

 だが、吐いても吐いても胸の奥でグルグルと渦巻く不快感が拭えない。胃の中身を全て吐き尽くしても少女は、代わりに搾り出すような嗚咽を漏らすばかりだった。


(嘘? 全部嘘? 最初から? どこまで嘘なの? 分からない分からない分からない駄目だ頭痛い気持ち悪い何も分からないよ嫌だ信じられないよどうして──)


「……どうして」

「どうしてとは?」


 光を失った瞳でアータンは再度投げかける。


 ひょっとすると人としては最低な考えだったかもしれない。

 けれど、彼女は口にせずにはいられなかった。


「どうして…………?」

「ああ、そういう」


 アータンは双子だった。姉が居る。

 それなのに、──せめて理由だけでも知りたいと、張本人の司祭に答えを求めた。


 しかし、



 ある意味、それは最も残酷な答えだった。


「……え、」

「大した理由はありませんよ。たまたま選んだのが貴方の方だった。それだけの話です」

「ぇ、あ……じゃあ、お姉ちゃ……今、どこっ……なにして……?」

「さあ? 良い人に拾われたなら、温かい寝床で寝て温かい食事を食べ、良く学び良く遊び、人並みに幸せな人生を送っているんじゃないでしょうか」


──


 男が言い切るや、途端にアータンの心に暗い感情が湧き上がる。


 怒り? 憎しみ?

 確かに目の前の男に対する感情としては、それが適当だろう。だがしかし、そもそも少女の感情の矛先は別の方を向いていた。


 双子の片割れへ──自分とは違う人生を送ったであろう姉。

 幼い時、姉妹は常に一緒に居た仲のいい。遊ぶ時も寝る時も一緒。喜びも悲しみも分かち合ってきた。そんな大切な存在だった。


 だのに、この時ばかりは違っていた。

 自分だけが虐げられている一方で、人並みの人生を送っているかもしれない──あくまで推測に過ぎない予測が脳裏を過った瞬間、アータンは内から湧き上がる仄暗い感情を抑えられなくなった。


 そして、


「ぁ、あぁ、あぁああぁぁああああ!!?」


 嵌められた手首の枷から魔力が噴き上がる。

 当人の意思に反して膨れ上がる魔力は、手枷を中心にアータンの魔力回路を逆流して全身を巡っていく。


「おぉ、これは……!!」


 男はドス黒く濁った魔力をよく観察する。


「この力……この波動……!! この〈シン〉はやはり……!?」


──これを待ち望んでいた。


 そう言わんばかりに歓喜の声を上げ、今も尚逆流する魔力によって魔力回路を焼かれる痛みに悶える少女を見下ろす。

 やがて少女の体に異変が起こる。

 体表に奔っていた魔力回路の軌跡……それまで魔力の淡い光を迸らせていた数多の線が、突如として黒く染まっていく。


「ひっ……!?」


 アータンは床に落ちていたガラス片に映る自分の顔に息を飲んだ。

 何故ならば手首から肩の方へ伸びた紋様は顔の右半分にまで及んでいた。それどころか右目の結膜部分すらも黒く染まっていた。

 途端に自分が自分でなくなっていく錯覚に陥り、少女は身を捩る。


 その時、彼女の視界には一冊の絵本が映り込んだ。

 好きな絵本だった。

 勇者が魔王を倒す英雄譚。普遍的な内容だけれど、故郷を焼かれたあの日から焦がれる程に追い求めていた存在の答えを知った。


──真に救いを欲した時、勇者は現れる。


 最も印象的なフレーズだ。


 あの日、勇者が現れなかったのは真に救いを求めなかったからだ。

 漠然と逃げ惑っただけだから、誰も助けてはくれなかった。


 そう、自分に言い聞かせていた。

 今の今まで、その一文を信じて疑わなかった。


(そうだ、勇者は……!)


 アータンは手を伸ばす。

 絵本ではない、絵本の中に描かれた勇者を。


(真に救いを欲した時に──!)


 そうして求めた勇者フィクションは、











 指先が届く寸前に、眼前の悪魔に踏みつけられた。

 あぁ、と魂が抜けたような吐息をアータンが零した。


 神なんかいない。

 勇者なんかいない。

 物語は、嘘ばっかりだ。


「イヤぁ!! 放してッ……放してェ!!」

「この進行の早さ……やはり私の見立て通りです」

「むぐっ!?」


 半狂乱になって泣き喚くアータンの口を司祭が手で掴みかかる。

 そこには遠慮も配慮もない。

 強引に黙らせられたアータンはせめてもの抵抗にと睨んでみたが、すぐに視界は涙で掠れて見えなくなった。


「うぅ、ぅぅ、うぅうぅうう゛……!!」

「悔しいですか? 結構結構……負の感情こそ今の貴方に必要なもの。そのまま己の罪深さに溺れてください」

「うぅ、うっ、ぅぅ……」


 口も封じられた今、アータンはさめざめと涙を流すことしかできなかった。

 助けを呼ぶことさえままならない。

 もっとも呼んだところで誰かが来てくれるはずもない。わざわざ人気のない場所まで連れてこられたのだ。


 僅かな望みも許されず、身を焼かれる苦痛を味わい続ける。

 それどころか今までの人生すらも他人の悪意によって敷かれたものであったと突き付けられた。


 これを絶望と呼ばずしてなんと呼ぼう?


(どうして……)


 後ろから静かに扉が閉まる音が聞こえる。

 まるで、己の人生の終わりを告げられているようだった。


(どうして、私だけ──)






「『行けたら行く』っつったっけ?」






「……、……っ!!?」


 一拍遅れて、意識を引き戻される。

 瞼を開ければ、目の前の司祭も両隣の兵士も驚いた表情を浮かべているのが見えた。

 恐る恐ると振り返る。




 すると、


 魔物を倒し、

 軽薄で、

 隙を見てはふざけて、

 表情も窺い知れぬ鉄仮面を被って、

 挙句の果てには勇者と嘯いた──




「悪ぃ、




 とびっきりの噓つきライアーが。

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