4 氷石のチェスボード

 私の乗ったブランコは、弧を描く虹に沿って上っていく。

 大空洞にはたくさんの横穴があってフロアになっていた。どうやらここは巨大な塔の吹き抜けのようだった。

 上っていく途中、背中に翼の生えた大人と何度かすれ違った。彼らは一様に、私を見るとにこやかに手を振ってくれる。

 やがて塔の天井が見えた。複雑な文様と色使いで描かれた天井画を見ようとして、私はぴたりと止まる。

「え?」

 虹の終点は壁だった。今までのように横穴がない場所に、ブランコは進んでいく。

「わぁぁっ」

 ……ぶつかっちゃう。

 咄嗟に目を閉じた私の全身に、水の中に浸かったような感触があった。

 そっと目を開けると、そこには長い廊下が広がっていた。

「とうちゃく?」

 ブランコが止まったので、私は床に下りる。

 赤い絨毯が敷かれていて、壁には金の額縁の絵がかかっている、華やかな廊下だった。けれどどこからか冷気が吹きこんできて、少し肌寒い。

 静寂が辺りを支配していた。

 一つの黒い扉をみつけて、私はその前で立ち止まる。

 コンコンとノックをしてみた。けれど中からは何の音もしない。

「そこはケイオスの部屋」

 突然耳元で誰かの声が聞こえた。私はびっくりして振り返る。

「けど、もうずっと帰って来ない」

 後ろには誰もいなかった。代わりに、私の目の前の扉とは対照的な、白い扉があった。

 白い扉は細く開いている。冷気もそこから吹きこんでくるようで、私は微かに震えた。

 けれど意を決して白い扉に歩き出す。

 扉を両手で押すと、それはゆっくりと開いた。

「ここは……」

 そこは森の中だった。網の目のように枝が生い茂って天井まで覆い隠していて、壁から伸びた枝の先には花が咲いている。小鳥が花の蜜をついばむように花びらの上にとまっていた。

 けれどそれらは時が止まったように静止している。側の枝に指先で触れると、それはひんやりと冷たい。

 足元も寒いと思って視線を下げると、床が凍っていた。

「あれ?」

 氷の床は四角い黒と白の石で出来ていた。周りを見ると、黒と白の石が交互にはまっている。

 これって確かと気づいた時、私の目の前に蝶が飛んできた。

 蝶がいくつも集まったかと思うと、銀色に輝いて一つの形を作る。

「お前がガイアか」

 そこに現れたのは、十五くらいのお姉さんだった。長い艶やかな黒髪を後ろで三つ編みにして束ねていて、銀色に輝く瞳を持っていた。

「こんにちは。かわいいおねえさん」

「僕は男だ」

 眉を寄せて、どこから見ても可愛いお姉さんは不機嫌に言い放った。

「おね……おにいさんが、父祖ベルゼバブ?」

「そうだ」

「わたし、ケイオスをさがしにきたの。どこにいるかしらない?」

 私が問いかけたら、ベルゼバブは俯いた。

「ケイオスは王の牢獄に捕われた。二度と帰ってこられないかもしれない」

「どうして?」

「お前のせいだろう!」

 きっと私を綺麗な銀色の目で睨みつけて、彼は声を荒げる。

「ケイオスは「ルールの外にいる者」をこの世界に参加させた罪を問われたんだ」

「ルールのそと?」

「許せない。ケイオスが、お前ごときのせいで存在を失うかもしれないなんて」

 突風で私は後ろに転んだ。

「わ……っ」

 冷気の発生源は彼だった。雪が私の全身に吹きつけてくる。

「諸悪の根源であるお前がこの世界からいなくなれば、ケイオスは許されて帰ってくるだろう」

 そう告げて、ベルゼバブは蝶になって消えた。

「ゲームをしよう。僕が勝ったら、お前には消えてもらう」

 私はチェスボードの黒のキングの場所に立っていることに気付いた。

 少し考えて、私は起き上がりながら言う。

「ケイオスは、おうさまのところにいるんだね?」

「ああ」

「わたしがかったら、おうさまのところにつれていってくれる?」

 向かい側の白のキングの場所に現れたベルゼバブが、腕組みをしながら頷いた。

「よかろう」

「じゃあ、ゲームをする」

 トン。

 私が告げるのと同時に、キング以外の駒が降ってきてボード上に立ち並んだ。

「d2のポーン、二歩前進」

 等身大のチェスゲームが始まった。ベルゼバブが指示すると、駒はひとりでに動いて前に進む。

「えと……みぎからふたつめのポーン。ひとつまえにすすんで」

 私には座標の読み方がわからないので、駒に向かって指を指して言う。

 ふわりとポーンの駒が黒く光って浮きあがる。

「わ、うごいた。すごいっ」

 私は魔法が使えないから駄目かと思ったら、私の指さしたポーンはちゃんと進んでくれた。

「おにいちゃん、みてみて。うごいたよっ」

「……g1のナイト、右斜め前に前進」

 私が盤上でぴょんぴょん跳ねていても、ベルゼバブは無反応で駒を進めた。

 私は自分の黒い駒を見渡して考える。

「えと、じゃあね、つぎはね」

 自分で進むなんてすごい。駒自体もきらきらしててとっても綺麗だ。まるで宝石の駒だ。そんなことを思いながら私は駒を動かす。

 三ターン経過するまでは、お互い駒を取られることもなく進んでいた。

「e3のビショップ、左へ三歩前進」

 ぴくっと私は反応する。

 一気にこちらの陣地に踏み込んできた。白のビショップが杖を振り上げると、私のポーンに雷が落ちる。

 煙と共に私のポーンが一つ消えてしまった。

「う」

 だけど私の配置では侵入者を倒すことができない。

「……ひだりのナイト、ななめひだりにふたつ」

 空気が変わった気がした。

 いきなり来るとは思っていなかった。少し動揺しながら応戦すると、ベルゼバブは迷うことなく動いた。

「キング、一歩前進」

 えっと私は息を呑む。

 キングは絶対に取られてはいけないから周到に防御を張るのに、キングを自ら進めてきたから。

「クイーン、四歩前進」

 それから敵の猛攻が始まった。

 もっとも機動力のあるクイーンを先頭に、ナイト二体が私の陣地を貫くように動いてきた。

「キングサイドで、キャスリング」

 私は防御手段としてキングを逃がすことにした。キングとルークの場所と入れ替えて、守りやすい端に移動する。

 それでも攻撃は収まらない。次から次へと陣地への侵入を許してしまう。

「ああ、腹立たしい」

 ベルゼバブは氷のような冷たい声で言う。

「どうしてケイオスはお前などを連れ込んだんだろう。魔法も使えない、脆弱な体しか持たない、何もかも僕らより劣った者を」

 白のルークとビショップも攻めてくる。駒を総動員しての攻めの姿勢だ。

 けれど私は陣地に入り込んだ敵を討ち取ることができない。ベルゼバブは巧みな配置で、私の攻撃をひらりひらりとかわす。

「すごいや」

 ……このお兄さんは、上手い。そう確信する。

 縦横八マスしかない空間を最大限に使って、駒の特性を生かして動かしてきた。

 私の想像を超えた奇抜な手を次々と繰り出してくる。

 私はそっと胸を押さえた。

 どきどきする。このお兄さんは次にどう打ってくるのだろうと、わくわくする気持ちを押さえられない。

 感心して思わずため息をついた。

「ケイオスとぜんぜんちがうんだね」

 記憶に残るケイオスも、もちろんチェスは上手だった。だけどケイオスは攻守のバランスが均等で、整合性の取れた勝ち筋を導いていた。

 未熟な私に教えるためでもあったのだろう。ケイオスの勝ち方は、いつも綺麗で論理的だった。

 だからケイオス相手なら、ある程度は次に打つ手がわかるようになっていた。でもベルゼバブは全く読めない。彼の手はあまりに独創的だから。

「お前がケイオスを語るな。彼は僕らの世界を新たに作った、僕らにとって創生主に等しい男なんだぞ」

「そうせい……?」

「僕らがせっかくまいた種すら簡単に枯らしてしまうお前たちに、ケイオスのことがわかってたまるか」

 怒りと憎しみに満ちた目でベルゼバブは私を睨む。

 このお兄さんは怒ってばかりだ。綺麗なお兄さんだから、きっと笑ったらもっとかわいいのにな。そんなことを思いながら、私は駒を進める。

 十ターンが二回巡った、中盤から後半に入ろうとした頃だった。

 私の駒は既に半分以上取られていた。ルークが二体、ナイト、クイーンがひとそろいと、ポーンが二体しか残っていない。

 それに対して、相手はポーンこそ三つに減っているものの、後衛の機動力のある駒たちはほとんど残っていた。

 チェスは駒が取られたら戻ってこない。数が少ない私の方が圧倒的に不利だ。

「チェック」

 ベルゼバブから王手がかかり始める。

 命であるキングの周りは味方で固めきれていない。敵の白い駒が陣地に入り混じって、キングを確実に追い詰めている。

「キング、うしろにいっこさがる」

 キングの私は自ら回避行動を取るしかない。味方の駒で防御しようにも、これ以上他の駒を犠牲にするわけにはいかない。

「チェック」

 毎ターンのようにかかるチェックから、私は逃げながら策を考える。

「ポーン、まえにひとつ。……ごめんね」

 やむをえず味方の駒を盾にする場合もあった。

 どうしようか。このままだと味方の駒がなくなってしまう。考える時間がどんどん長くなる。

「リザインしろ。その駒の数じゃ勝てない」

 そんな私に、ベルゼバブは降参するように言ってくる。

 確かに、戦局は絶望的だ。

 私の力量が劣っているのも感じている。相手の手筋すら未だに読めていない。

――わーっ。もうだめ。まけだっ。

 ケイオスとのチェスの時も、何度となくリザインした覚えがある。

――どうしてリザインしたんだ?

――だってこのままやっても、かてないもん。

――本当に?

 私がやけになって倒してしまったチェスボードへ元通りに駒を並べて、ケイオスは言った。

――俺ならここからでも勝ってみせるよ。もう一度見てごらん、ガイア。

 私は顔を上げて自分の駒の位置と、敵の駒の位置をみつめ直す。

「どうしたって無理だよ。いつまで逃げ回る気だ?」

 ベルゼバブは痺れを切らしたように言う。

 私は頭の中にチェスボードと駒の配置を描く。

 あれをこっちに動かして、そうしたら敵はたぶんこう動いて、そうしたら私はこうやって……と、手筋を考える。

 考えて、うなって、私は微かに頷いた。

「……できるかもしれない」

「何?」

「ゲームは、さいごまでわからない」

 一ターンごとにゲームの世界は変わる。どんなに不利な状況でも、たった一手で優勢に転じることができる。ゲームの世界はそれだけの可能性を持っているのだから。

「それなら僕が終わらせてやるよ。d5のナイト、右斜め前に進め」

「みぎのルーク、まえにふたつ」

 私の応戦が早くなったことにベルゼバブも気づいて眉を上げる。

 ベルゼバブに気づかれないように、私は自軍のルーク二体を少しずつ敵陣に混ぜ込み始めた。

「c8のビショップ、斜め後ろに一歩後退」

 私は不機嫌そうなベルゼバブをじっとみつめながら思う。

 ケイオスには、私の手筋は先の先まで見通されてしまった。盤上のあらゆる駒に意識を走らせて、どんな状況でも勝ちの可能性をみつけてみせた。

 けど、と白と黒の盤上をみつめながら私は思う。

 今目の前にいるお兄さんはどうだろう。ゲームは一手で優勢に転じることができるけど……その裏もあることを忘れていないだろうか。

「ナイト、ひだりななめうしろにさがる」

「いたく消極的になったな」

 主戦力になるナイトを、私は下げ始める。

 そして二ターン使ったところで、私はナイトの動きを止めた。

「捨てる気か? b5のクイーン、二歩前進」

 ……ここだ、と私は口元を引き締める。

「クイーン、まえにみっつすすむ」

 あえて窮地に陥ったナイトを放置する。

 私の残り僅かな駒は、一体だって無駄にはできない。けれどここでベルゼバブの近くの護衛兵をナイトに引きつけておかなければいけない。

「b5のビショップ、敵のナイトを取れ」

 攻守の要、黒のナイトが稲妻で消える。

 ここまでは考えた通りだ。

 それでも、もう後はない。一ターンでも敵が想定外の動きをしたら負ける。肌寒いくらいなのに、私は手に汗がにじむのを感じた。

 残りの味方は、ポーン一体と単調な動きしかできないルーク二体、そして唯一の頼りであるクイーンが一体だけ。敵の数とは倍ほどの差がある。

 とっくにリザインしていてもおかしくない状況だ。

 けれどまだ一つだけ、勝ちの配置を作れる可能性がある。

 意を決して頷くと、私は手を上げた。

「ポーン、いっこまえに」

 私はぽつんと敵陣の中に残った、最弱のポーンを指さす。

 一歩ずつ前に進むしかない、時には相手にもされない弱い駒だけど、敵の最終列まで辿り着いた場合だけ特殊な力を持つ。

「プロモーション。クイーンになれっ」

 それは最後まで前進したら、最強のクイーンにも変化することができるということ。

 小さなポーンが強く輝いたかと思うと、立派な黒い金剛石のクイーンに代わった。

「今更遅い」

 ベルゼバブは眉をひそめたけど、私は首を横に振った。

「ううん。まにあって、よかった」

 私は次のターンで敵陣にいる方のクイーンを動かして、キングであるベルゼバブの斜め前に配置する。

「チェック」

 私は王手をかける。

「クイーンを捨てるつもりか……いや」

 彼は周りを見回してはっとする。

「まさか、この布陣」

「さあ、クイーンをとらないと、おにいさんがとられるよ」

 彼の周りで、私のクイーンを取れる場所にいる駒はたった一つだ。キングである彼自らが動くしかない。

 けど、動いたら命取りであることを、彼だってもうわかっている。

「く……」

 ベルゼバブは動いて私のクイーンを取った。そうするしか方法がないのだから。

「もうひとつのクイーン、みぎにいっぽすすむ」

 ポーンが変化した二つ目のクイーンを動かして、私はそこにあった敵のナイトを取った。

 盤上の端に二つ目のクイーンを動かして、私の布陣は完成する。

「馬鹿な……」

 ベルゼバブを隅に追い詰めて、彼の対角線上にクイーン、前と後ろに二体のルークを配置した。

 彼は信じられないといった様子で立ち竦む。次のターンでキングは取られる。けれどもう、彼はどこにも逃げられないのだ。

 私はすっと息を吸って言った。

「チェックメイト」

 ……私の、勝ちだ。

 ベルゼバブを三方から黒い光が包む。

「僕の負けだ」

 彼はその中で俯いて呟いた。

 その宣言と共にゲームは終わる。白い駒も黒い駒も、みんな床に沈んでいく。

 駒のなくなった氷のチェスボードの上に、ベルゼバブが崩れ落ちる。

「あっ。どうしたの、おにいさん……っ」

 私が駆け寄って覗き込むと、彼は顔を覆って蹲っていた。

「えぐ……っ」

 しゃくりあげて、彼は小さな子どものようにぽろぽろと涙を流していた。

「こんな子どもに負けて……っ。僕がこんなに弱いから、サタン様にいくら懇願してもケイオスを返してもらえないんだ……っ」

 真珠みたいに綺麗な涙をこぼしながら、ベルゼバブは言う。

「何が父祖だ。僕は弟一人、守ることができやしない」

 ぐすぐすと泣く彼に、私は近付いた。

「おにいさんはつよいよ」

 背伸びして、私はそっと頭をなでなでする。

「ケイオスも、とってもつよいおにいさんがいるっていってた。チェスだって、すごくじょうずだった」

 ケイオスにだって負けていなかったと思う。本当なら、私には到底敵うことのない相手だった。

 もしベルゼバブに敗因があったとしたら、それは一つだ。

「ただ、おにいさんはぜんぜんたのしそうじゃなかったから」

「……『ゲームは楽しくあれ』」

 ケイオスの言葉を、ベルゼバブはぽつりと呟く。

「ゲームの原動力は楽しさだと、ケイオスは言っていたな。楽しさは発想力になるからだと」

 彼は凍りついたチェスボードを見回して黙った。

「僕は勝ちへの執着で心を凍らせて、自分で勝つ可能性を狭めてたのか」

 一度強く目を閉じて、ベルゼバブは涙を振り払う。

「わぁっ」

 彼は私を抱き上げると、ハスの葉の上に飛び乗った。

 天井を覆っていた枝たちが解けていくと、空洞が現れた。それと同時に、ハスの葉はふわりと浮きあがって私たちを上に連れていく。

 ハスの葉が止まったところで、目の前に赤い扉が現れた。

「ここが最上層。僕らの王、サタン様の居室だ」

「ケイオスがここにいる?」

「ああ。だが、僕はもう入れない。ゲームに負けたから」

 俯くベルゼバブを、私はじっと見返す。

「おにいさん。ケイオスはわたしがとりかえすよ」

 私は彼の胸から下ろしてもらって扉の前に立つ。

「ゲームして、かつの」

 深呼吸して、私は扉を見上げる。

 コンコン、とノックをする。

「入っておいで」

 返って来た声に聞き覚えがあった気がして、私は首を傾げながらもノブに手を伸ばす。

 扉はゆっくりと開いて、私は扉の中に入る。

「よく来たね、ガイア」

 奥の椅子に座っていた男性に、私は目を見開く。

 短い黒髪で切れ長の目をした、二十代後半ほどの青年。

「……ケイオス?」

 私が思わず呟いた名前に、彼は柔らかく微笑んだ。

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