秋はまだ、探さないことにする

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秋はまだ、探さないことにする

当たり前のように秋はまだどこにも落ちているはずはなく、そこには、蝉の写真ばかり撮っている少年がよくいるだけだった。


僕は大学生をしながら虫取り網を片手に近くの公園に行くので、少年のことは何となく知っていた。少年は木に抱っこされた蝉を下から見上げる角度でいつもシャッターを切っていた。ひなびたある昼下がり、僕はその少年より先にここへと着いた。なぜならば、卒論というものから逃げ出してきたからだ。潰れた古書店を越え、弓なりの川を越えて、眠らない赤信号で足止めを食らい、人気のない交番を越えても、たどり着いたその先には結局、いつもの公園があったというわけだ。


僕は公園の入り口付近から、砂場のある場所を見つめた。そうしなければいけない雰囲気を全身がキャッチしていた。蜃気楼と呼ばれる現象が、砂だまりの真ん中に縞々の水を出現させて、どういうわけか僕に見せつけてくる。楽しくもないのに拍手をしたい。そんな気持ちをそっとひとなでするように、やれやれという感じで僕はのんびりと動きだす。少し離れたところから、ときを刻むシャッターのような音。その間にある距離をいつだって、無邪気な太陽がじわじわと燃やすのだ。


水道の蛇口をひねる。水が上に向けられた格好であふれ出ている。柔らかいものは柔らかい手の格好で。受けとめられた水は掌に冷たさを知らせる。何かに似ているなと思う。思った瞬間、何かだった記憶はパッと弾けて、忘れられた記憶に形を変える。そもそも忘れることに形などないのだと、毎回僕は遅れて気づく。掌の形が、僕の顔面を覆う。例えばここは、どこなんだろう。シンプルな洗面台の前かもしれないし、外に置かれた外水栓をひねったからかもしれない。水があふれて出てきているので、あわてて手の格好を変えた。目の前にあるのは、光の輪郭で縁取られているだけの銀色の蛇口。


からからの砂場には今日も誰もいやしない。熱中症アラートが半ズボンの中でぼそぼそと喋っている音が耳にきこえる。かわいそうだが取りだす気にもなれない。透明な手が浮かぶ入道雲をつまむ。チューインガムみたいに行為と意識が練られて混ざる。明日だって、その次の日の朝だって、僕は変わらなく続いていく光景を頭の中心に強く思い浮かべることができる。けれども、その実、意識の片隅ではぼんやりとそれをあざ笑ってもいた。はたして図書館にでも行くべきだったのか、ときおりきこえてくる音に肩を叩かれ、僕は吸い寄せられるままに砂場まで足を進めた。


あいにく今日は手ぶらだった。だって嫌なことから逃げ出してきたのだから。するべきこともしたいことも見つからないので、砂場を砂漠に見立てる。ちょっとした遊びだ。砂漠にはオアシスがある。オアシスにはサボテンがあり木々が生い茂り魚だっているはずだ。集中と分散だけが、例えばお昼下がりの転寝のようにリズミカルに枝をしならす。目を凝らせば木の上には、お腹を空かせた大小の鳥たちがところせましと止まっているのが見えるだろう。僕だって同じかもしれない。高い所にいるのか、低い所にいるのか、見比べるくらいの違いしか持てやしない。


僕は都内の大学に都外の町から通う。低い所から高い所へと。いつも決まった時間に起床して、同じ時間に歯を磨く。顔を洗いながら、素敵な寝癖と眠気にまとめてさようならをする。利き足を靴に滑らせるようにしまい、ワイヤレスイヤホンを耳に押し込む。駅に入れば左から二番目の改札口(これも決まっている)にSuicaをかざし、電車に乗るときは星を探すように空を見上げる。えいえんとつづくこうけい。見渡す限り、どこまでも灰色の空の終わりに、鳥たちが真っ黒く汚れた羽根を、少しずつ溶かしながら泳ぐさまをしっかりと見つめて、右足から地面に着地した。 


オアシスはどこにある? 「Don't Look Back in Anger」 本当はそんなものないことくらい知っている。だから僕はせめて砂漠にあるオアシスで泳ぐことにする。目隠しをされたイノシシみたいだ。あるいは一つのことに囚われ続けるレミングみたいに。準備運動はしない。だって本当の水じゃないから。その代わりきこえてくる音をききもらさないように、水の変化に耳を澄まして脳を動かす。太陽光の雨が降る。雑草の種が揺れる。ピンと張りつめていく。かっこいい集中を途切れさせたくない。水との接地面積が最小限になる姿勢のまま真っすぐに入水していく人になりたい。でも水には逆らわない。水はしらない誰かの心の記憶。


顔についた砂を叩きながら、僕は休憩をしにベンチへと向かった。ベンチの周りはコの字型の薄茶色い壁に覆われていて、その上に日差しを遮ってくれる大きな緑色の屋根が備えつけられている。ベンチのなかには小さなベッドほどの平たい机が一台、それを囲うように長椅子が三脚あって、押しても引いても動かないようにすべて足元の金属はセメントで固定されているのが、しゃがみ込むと分かる。ヒメシバの軍隊があくせくと地面のほとんどを占領し終えて、周りから見ればそこはちょっとした隠れ家のように見えなくもない。


隠れ家ベンチ(と僕は呼んでいる)を中心として、その周りに遊具が三つほど、近くもなく遠くもない距離をあけて設置されている。本当は五つあったんだけれど、ボルトが錆びたり、部品が外れかけていたり、塗料が捲れたり、危険だからという理由でそのいくつかはなくなってしまった。少なくとも遊具の頭には、危機感の三文字なんて浮かばなかったんだろう。そういうことがたまたま起きたから、それがまた違うどこかで起きないように、誰かが気を利かせているのかもしれない。


眠っている絵のようだ。不意を突くように、教授は僕にそう囁いてくる。絵は夢と少し似ている。研究室で迎える朝はもう何度目だろう。いつしか夢は見なくなり、閉め忘れたブラインドの隙間から太陽がノックもせず部屋に入ってくることにも慣れたのに、卒論が書けない。このまま深海に頭から沈んでいきそうだ。お尻から生えた導火線にも火をつけてほしいくらいだ。教授は不機嫌そうに机の上で足を組みラッキーストライクなんかを吹かしている。朝か、いや、まだ夜か。窓をあけると研究室が目をさます。きみと毛伸びして似たようなポーズで深呼吸をした。寝言と、人の鼾だけがくりかえし吹き込まれていく。


危険じゃない遊具が、まるで口笛を吹きたくなるような朗らかな日に、晴れて仲間入りをした。危険じゃない遊具は、どこもピカピカとしていた。遠くから見てもその違いがよく分かった。シロツメクサが遊具と遊具を繋ぎとめるように生えていて、風がそよぐとゆらゆらと手招きをする。さて、隠れ家ベンチのなかには僕よりも先に座っている人がいた。僕は人と話すのが大好きさ。でも人からは黙っていれば賢そうに見えるのにとよく言われる。おまけに文字を読むと眠たくなるときた。でも、それはいま問題じゃない。その人が本を読んだりしていなければ、もっと早く仲良しになっていたかもしれないと考えるのだ。


雪が降ると、公園には雪だるまができた。簡単には溶けることのない冬。冷蔵庫のような冷たさが日々を包み込んだ。木々が雪の葉をつけるなか、公園のなかで一番暖かい場所、そこで僕たちは頬を赤くしておしゃべりをした。それが冬の乾いた空気にとけ、雪の上にまた一つ層を重ねる。誰もいない日は、ぴたりと耳あてをしているのに、雪の降る音が耳のなかへと落ちていく気がした。遊具と遊具の間にはまだいくつかの足跡がとり残されていて、そこに長靴をはかせたら、足跡はブランコの方へと帰って行った。やがて二つのブランコが仲良く揺れた。切手のない知らせを待った。


月日は過ぎ、虫取り網を営業鞄に持ち替えて、僕は今日もProboxで得意先に向かっている。段々仕事にも慣れてきて、気の利かない冗談も、口をついて出てくるようになってきた。住み慣れた町から少し、遠くの会社に出社している。メガネはコンタクトに、皺だらけのTシャツとくたびれた半ズボンは、皺のない真っ黒な洋服に。住む所も変わった。それから結婚をした。僕は虫じゃない人をつかまえて、虫のように日々を飛び回っている。


数字とにらめっこする。提出した見積に不備があり、大急ぎで修正をしていたら、こんな時間になってしまった。先方にはこっぴどく叱られて、上司から「まあ、そんなことも、あるよ」と言われ貰った缶コーヒーを最後に飲みほし、一息つく。妻に今から帰るよと電話をした。いつのまにか周りの電灯は消えていて、僕だけが光の真下に立っていることに気づく。明滅するスマホの画面。静寂。そこに映し出された一枚の写真。一体こんないたずらをしたのは誰なんだろうか。僕は蝉の写真を撮った覚えなんてまるでないのに。


ときどき、ラジオをきく。味気のない白い車のなかに誰かの声が響くのがいい。スイッチを入れると数字はシャッフルされていく。123、359、594。音もなく止まった数字に耳を傾ける。どうやらアラスカの永久凍土がまた少し融解したそうだ。今度はスイッチを右にひねっていくと妙な音楽が流れ始めた。よくあることだ。音楽はやがて行き場を失くし、サイドミラーから、自転車が数台、勢いよくすり抜けていった。その間に、進むべきほうの信号機は、青いきらめきを残し見えない壁を作った。しばらく待ったら、あの角を曲がった先の左手に、ちょこっと傾いた会社の看板が見えてくる。


新しい町にも公園はある。僕の知らない公園。ときどき近くを通ると思い出す。けれどもう、会うことはないんだと頭のすべてが分かっている。記憶はいつしか薄れていく。えいえんにつづくものなんてない。えいえんも僕も道草をする。それでいいのかもしれない。出口と入口が一直線上にある、熱くなったフェンスの内側では、一組の家族が蝶々と花のように遊んでいるのに、僕はもう遊べないのだ。虫取り網が光って、僕をあの公園へと導いてくれた、キラキラとした運命。頭のおかしい少女と、蝉にとりつかれた少年。


ひとすじの線が目の前を落っこちていく。


こんな日に降る雨を、狐の嫁入りというらしい。物知りな妻が教えてくれた。雨のあとに架かるきれいな色環。きっと虹も泣きたいのだろう。と僕の心の声はそう呟く。途切れた景色と入れ替わり、わきあがるいくつかの鳴き声が、シャッターを切る音に重なって、僕の耳を更新する。羽化するように空気中の光の粒が、濡らされたすべての景色を吸収すると、僕の手と同じような色の濃さに落ち着く。目をつむり、風が吹き、葉っぱがいくらか揺らされたあと、夏蝉は一番美しい姿にかわり、濡れた洋服を乾かしながら、虹の彼方へと見えなくなった。


夏はまだそこらじゅうに満ちていて、もう少しこのままでいたいから、それを掴もうと掌の形を変える。指の隙間から漏れた光は、掌にじわじわと熱を伝えた。掴んだ手をひらいたら、夏が抜け殻になるんじゃないかって、そんなことが頭をふとよぎるのに、手の格好がグーだから、秋はまだ、探さないことにする。


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