第三十九話 さよなら、ユメ


 教室の自身の席の隣……つまり俺の席に座り、ただ、黒板を見つめる憂顔。儚げで、美しく、でも悲しい、そんな顔。


「……こ、小太郎! な、なんでこんな所に居るのよ!」


 無言で、つかつかとユメに歩み寄る。心なし、上気した頬。潤んだ瞳。

 

 ……限界、か。


「さ、探さないでって言ったじゃない! な、なんで!」


 不意に、俺に抱きしめられたユメは、体を捻ってジタバタともがく。それでも、手の拘束は緩めないし、緩めるつもりも無い。


「は、離しなさいよ!」


「離さない」


「ば、バカ! アンタ、何考えてんのよ!」


「……ユメの事だ」


「あ、アンタね! アンタの好きな子は委員長でしょ!」


「ちげーよ。別に、綾乃の事が好きなんて……まあ、言って無くは無いか?」


「それなのに、今は私の事をその……だ、抱きしめてるの! 何堂々と二股宣言してるのよ! サイテー! イイ男からは程遠いわね! 折角、私が鍛えて上げたのに――」


 ほら、やっぱり。でも、言うべき事がまだ、ある。


「それだ」


「……どれよ?」


「お前に、沢山教えて貰った。お洒落も、勉強も、演劇も……何より、一生懸命生きる事。努力する事」



「……」


「……俺には、お前が必要だ」


 

 ……そう。言葉にすれば、とてもシンプル。難しい事なんて、何にも無い。



 俺には……ユメが必要。


「……コタロー……ろう?」


「綾乃の事が好きとか、ユメの事が好きとか、そう言う難しい事は……正直、良く分かんねえ。でも……一個だけわかる」


「……なに?」


「お前、もう限界なんだろう?」


「……うん」


「このままだと、消えて……俺の前から、居なくなるんだろう?」


「…………うん」


「それだけは……絶対イヤだ。俺は……」


 言葉を切り、ユメの瞳を覗きこむ。


 綺麗な、綺麗な瞳。


「もっと……お前と一緒に居たい」


「……小太郎……」


 暴れる事を辞めたユメは、そう言って俺の胸に顔を埋める。ユメの髪の毛の良い匂いが、俺の鼻腔をくすぐる。


「……三十点ね」


「……厳しいな」


「五十点満点よ」


「そっか……ん? それでも厳しくねえか? 六割じゃねえか」


「当たり前でしょ。普通、ここでは『好きだ』って言っとくべきなのよ。嘘でもね」


「嘘でもいいのか?」


「……バカ。良い訳無いじゃない」


「じゃあ……」


「そういう嘘をつかないから、小太郎の素直さが、本当の気持ちが伝わってきたから、三十点よ」


「……難しいな」


「当然。女の子は、難しいのよ」


 そう言って、俺の胸で喉を鳴らすユメ。


「本当に、難しいな。イイ男への道はまだまだ遠いよ」


「精進しなさいよ!」


「……そうだな。付き合ってくれるんだろう? お前も」


「……そうね……」


 そう言って、俺から体を離すユメ。おい、逃げ――



 不意に、体が重くなる様な感覚。



 最初は、走り過ぎたことからくる筋肉痛かと思った。でも、そうじゃない。まるで、泥の中に居る様な、そんな感覚。


「……ごめん。やっぱり、無理。私は……ここまで」


「……ユメ?」


「小太郎……イイ男になるのよ!」


「……何言ってるんだ!」


 そう言って、一歩踏み出そうとする。が、足は鉛のように重い。


「ユメ! お前、何をした!」


「……私は、サキュバス。夢とユメを操る夢魔。常夜を統べる夜の悪魔。夢は眠りの友……夢を操る事の出来る私は、同時に眠りも操れるのよ」


 徐々に……瞼が重くなる。おい! 待て! 寝るな!


「……ごめんね、小太郎。精力……足りなくなっちゃた。私……もう消えるね。消える所見られたら辛くなっちゃうから、少し眠っててね?」


「バカな事言うな! 精力なら分けてやる! 好きなだけ持って行け!」


「前も言ったじゃない。私の事、好きな人とじゃ無いと、イヤって」


「俺の話を聞いてなかったのかよ! 俺は、お前の事が――」



「……聞いてたよ」



 俺の声を遮るように。そう言って、優しい笑顔を見せるユメ。


「嬉しかった。凄く……凄く嬉しかった。でも……小太郎は、迷ってる。今、私に精力を分ける行為をしたら……きっと小太郎は私の事を一番に考えてくれるようになる。それは……凄く嬉しい」


 目に、一杯の涙を湛えて。


「でも……それはフェアじゃない。委員長にも、小太郎にも……私自身にも。小太郎は、自分に嘘をつかないで、今の気持ちを正直に答えてくれた。だから、私も、最後の瞬間、自分に嘘をつきたくない。ズルは……したくない」


「お前、それで良いのかよ!」


 そんなに辛そうな顔をして!


 そんなに悲しそうな顔をして!


 ……湛えた涙で、自分の頬を濡らして!


「……良い訳無いじゃん! 小太郎と、もっとずっと一緒に居たい! 楽しい事も一杯したい! 小太郎と……小太郎の!」


「……」


「……ずっと……小太郎の隣で……笑って居たかった」


 涙を拭って、もう一度、笑顔。


「……ごめんね、小太郎」


「……本当に……もう、無理なのか?」


「……うん。ありがとう、小太郎」


 そう言って、穏やかな笑みを見せるユメ。



 自身の決めた事に、後悔の無い、そんな顔。


 

 俺が、ユメを選んでいたら、違った結末があったのだろうか?


 ……いや、そんな結末……ユメは望んでいないのだろう。


 ……そっか。お別れ……か。


「……泣かないで、小太郎」


 いつの間にか、俺の両頬を、熱い涙が伝わってきた。俺、泣いているのか。


「……最後のお願い。笑って?」


 ユメの言葉に、俺は涙を湛えたまま精一杯の笑顔を浮かべる。不細工で、不格好な、そんな笑顔。


「……うん。ありがとう」


「……」


「お願い聞いてくれた事と……私の為に泣いてくれた事。本当に、ありがとう」



 ……いいよ。気にするなよ。



「……みんなに見せてた『ユメ』は消すね。『葛城ユメ』って女の子は何処にも居なかった。だから、小太郎の生活は元に戻るだけ」



 ……そっか、みんな覚えてないのか。そりゃ、寂しいな。



「本当は……小太郎の記憶も消さなきゃイケないと思ってるんだけど……小太郎の記憶だけ……残しておいてもいい?」



 ……なんだ、そりゃ。どんなイジメだよ。俺だけ、俺一人だけ、お前の事ずっと覚えとくなんて……辛すぎるぞ?



「……イヤ?」



 ……バカ野郎。俺の記憶まで消すなんて言ったら、ぶっ飛ばす所だった。



「……」


 ……一人だけ、お前の事覚えてるのも辛いけど……お前の事忘れちゃう方が、きっと、もっと辛い。


「……うん。ありがとう、小太郎。私も小太郎には……小太郎だけには覚えていてほしい」


 瞼は徐々に、だが確実に重くなっていく。ついにその両の瞼が閉じられ、眼前には漆黒の闇だけ。


「……ろう……とに……い……まで……がとう」


 ユメの声も、途切れ途切れにしか聞こえない。もう、半分以上意識は持っていかれている。


「……ろう……っぱり……わた……ろうの……こと……だ……き」


 完全に意識が途切れる、その瞬間。俺の唇に暖かい感触。


『ふん! 私の胸を舐めまわすみたいに見て……変態!』


『私? 私は夢魔。聞いた事があるでしょ? 夢魔ぐらい』


『その人とその……『にゃんにゃん』して一人前と認められてから、初めて生涯の伴侶の所に向かうのよ!』


『……やっぱり、ダメーーー!』


『え? 『お義兄ちゃん』の方がいいの? やだな……マニアックっぽくて』『その……一緒に行っても良い?』『私……家までの帰り道が分かんないのよ!』『楽しいね~、美術部!』

『う、うるさいうるさい! アンタ今、絶対変な想像した! この変態!』『だから、アンタも努力しなさい!』『つまり、委員長が『小太郎、格好いい! 好き……付き合って……』って言う様なイイ男に私が育ててあげる!』『ちゃんとすればソコソコ見れるじゃない』『……うん。分かった。大事にする。ありがとう、小太郎』『根性無しで、やる気が無くて、全然ダメダメで、つっけんどんだけど……大事な所では優しい、いい人』『……ん。そ、その……や、優しく……して?』『……それでも我慢したら……人間の『餓死』みたいに……消えてなくなる』『……委員長の事……好きなの?』『あ、アンタね! アンタの好きな子は委員長でしょ!』『小太郎……イイ男になるのよ!』




『……最後のお願い。笑って?』




 ……幸せな、夢を見た。


毎日、部長の下らない話に辟易して、修斗のバカがクラスで騒いで、沢渡が暴走して、綾乃と姉御がそれを止めに入って……そんな光景を、呆れたように俺は見つめ、その俺の隣では、ユメが楽しそうに笑っている。何処にでもある、何時でもそこにあった、ただの日常の一コマ。


 そんな……そんな幸せな『ユメ』を見た。


 目を開けた時、眩しい太陽の光に目を細め、教室を見渡し、そこにユメの姿が無い事を確認して。


 俺は少しだけ泣いた。

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