第26話

 唇が離れると、柴は伊野崎の額に額を合わせ目を閉じた。

「もうどこにも逃げたりしない。大切にする」


 柴は伊野崎の手をそっと握り、手の甲にキスを落とした。


「別れる前の柴のことは好きだった。でも、もうどこにもいない」


 柴は冷水を浴びたかのように、一瞬で凍えた。


 伊野崎からキスをされて、許されたような気がしたのは束の間だけだった。

 伊野崎が好きだったのは、付き合っていた頃の柴であって今の逃げた柴ではない。


「またあの頃と同じ二人には戻れない。俺も柴もあの頃のままじゃないだろ」


 伊野崎の言う通りだ、同じ二人には決して戻れないし、柴が壊した伊野崎の心の欠片をすべて取り戻すことはできない。


 伊野崎が躊躇いながら告げる。


「でも、自分でもわからないけど、やっぱり…俺にとって柴だけが特別なんだ」


 伊野崎が面倒な気持ちと言ったのは、柴だけが特別だということだろうか。

 柴にとっての伊野崎も特別だ。唯一だ。


 柴は瞬きを繰り返し眼鏡を外すと、目尻を袖で拭く。

  

「好きだ。伊野に触れたい。恋人になりたい。伊野がキスなんかするから、我慢できなくなるだろ」

 

 伊野崎がたまらなく欲しくて、柴は泣き叫びたくなった。


「俺だって一緒だ。もう一回キスしとくか?」

 伊野崎が苦笑する。


「もう一回キスして恋人になれるんだったらしたいよ」


 ただキスするだけでは、行き場のない欲望が目を覚ますだけで、虚しいだけだ。


「理一」


 不意に伊野崎が名前を読んだ。

 柴の背中に両手を回すと、伊野崎は体重をかけて抱き、苦しいほどの抱擁を受ける。


 三度目のキスは、伊野崎の湿った舌が口内に入ってきた。

 伊野崎の手のひらが、背中から腰を繰り返し撫で、ぞくっと背骨に快感が走る。

 

 伊野崎の頭を柴は撫でた。細く柔らかな髪が、柴の指の間を流れる。


 伊野崎の両手が柴の双丘を掴み、二人の下腹部を密着させた。

 伊野崎の中心が固くなっているのがわかる。


 高揚した柴は、心臓が静まるのを待っていられなかった。

「今のは恋人でいいんだよな?」

 柴は伊野崎の頬を手のひらで包む。


 伊野崎は、その柴の手に手を重ねて、甘えるような仕草で呟く。

「そうだ」


 どこか淀んだ空気を纏っていた柴の表情が明るくなった。

 伊野崎は少し驚いたように目を細めた。


 柴が逃げて結婚したことを許されたわけでもないし、柴を好きになってくれたわけでもない。それでもいい。

 二度目に恋人になれた喜びは、一度目とは違い、ほろ苦かった。


「十年より長く、ずっと長く一緒にいよう」

 柴が、そう言うと、伊野崎が「そうなるといいな」と呟いた。  





 

 二度目の付き合いが開始した日から一週間後。

 伊野崎の家に昼過ぎに到着した柴は、恋人らしく一緒に買い物をして夕食を作り、食べ終わったところだった。


 家の中では、伊野崎と目が合うたびに何度かキスを交わし、今もソファーに座った二人の手は握られていた。


 柴は意を決して口を開いた。

「今日、泊まってもいいか?明日も休みなんだ」


 伊野崎は、柴と目を合わせる。


「今日は…エッセイの締切が明日の昼までなんだ。一行もできてないから、仕事部屋から出てこないかもしれない」


 伊野崎の膝ではリトが寝ていた。


「ごめん。俺が邪魔した?今日は仕事しないのかなって思ってた」


「柴が帰ったらしようと思って」

 伊野崎は頬を赤らめた。


「在宅だと、いつが休みか分かりにくいな。じゃあ明日の昼にまた来てもいいか?」


「寝てるかもしれない。夕方ならいい。明日なら泊まっていいから」

 伊野崎は答えた。


 柴は伊野崎の頭を撫で、引き寄せて、瞼に唇を当てて言った。 

「俺、まだ治ってない。勃たないけど」


 伊野崎が柴の下腹部に手を伸ばし、服の上から探ると、静電気のような一瞬の刺激を感じ、なぜか鳥肌が立った。


 伊野崎は、そこを手のひらで撫でながら、言った。

「一度だけ、俺が挿れたことあったよな」

 

 柴も覚えている。

「嫌だ。前に伊野が挿入したら苦しくて吐いただろ」


「また吐いてもいいよ」

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