第25話
三杯目のビールが空になった頃、伊野崎の携帯が着信を報せた。
「夏生くんからだ。ちょっと外で話してくる。同じビール注文しといてくれ」
伊野崎が携帯を持って席を離れる。
言われた通り追加注文し、柴も新たにワインを頼んだ。
空いたグラスと皿を片付けてもらい、所在なさげに店内を見回していると、ビールとワインが届く。
戻ってきた伊野崎が椅子に背を預け息を吐いた。
「三井の車と遭遇して、強引に雨宮さんだけ車に乗せて連れ去られたそうだ。残された夏生くんも可哀想に。三井のマネージャーに連絡しといた」
三井が不法侵入した翌日、伊野崎は三井のマネージャーから謝罪と口止めの連絡を受けたと聞いている。
マネージャーは「三井がご迷惑をかけた際は、ご連絡下さい」と言ったそうだ。
柴は雨宮に同情する。
「担当じゃなくても雨宮さんは、三井に強く断れないんだろうな。夏生くんも伊野みたいにゴミ箱、蹴ったりしなさそうだし」
豪快にビールで喉を潤した伊野崎は「夏生くんは静かに怒るタイプだよな」と何かを思い返したような顔で頷く。
伊野崎が続ける。
「去年の話なんだけど、雨宮さんが夏生くんの誕生日を忘れて、俺の家で寝落ちしてたことがあったんだよ」
柴が初めて聞く話だ。
「その時に雨宮さんの携帯に思わず俺が出ちゃったんだ。夏生くんとは会う前だから。知らない男が彼氏の携帯に出たっていうのに夏生くんは少し話をして普通に通話を切ったよ」
人の携帯に出るのは伊野崎らしくないな、と柴は怪訝に思った。
「俺、意地悪したんだ。二人が別れればいいと思って」
「どうして?」
「夏生くんが昔の自分みたいな気がして。どうせ、雨宮さんも女と結婚してしまうなら、さっさっと別れとけって、最低なこと考えてた」
最低なのは伊野崎ではなく柴だろう。
それだけ、伊野崎に深い傷をつけたのだ。
柴は自分がした過ちは、伊野崎の十年間すべてを価値のないものに変えてしまったのかと慄然とする。
「…今もそう思ってるか?夏生くんの話じゃなくて。伊野は俺と早く別れておけばよかったと思ってる?」
柴が、俯き手を振り、
「悪い。外で聞くようなことじゃなかった」
店の中で感情的になってしまった。
「これ、飲んだら出よう」
伊野崎も柴も考え込んだ顔でグラスを傾ける。
店を出た。
駅前でタクシーに乗り、伊野崎の家で降りると、伊野崎の携帯が鳴った。
「今度は雨宮さんだ」と言って伊野崎は応答をタップする。
「はい。こんばんは」
鍵を開けて玄関に上がる伊野崎の後に柴も続いた。
送るだけのつもりだったが、電話中の伊野崎に声をかけることもできず、リビングに進む。
「大丈夫でしたか?……………ほんと困った人ですね……………ははっ…………あーなるほどね…………はい……おやすみなさい」
電話を切った伊野崎が振り返った。
伊野崎が柴を引き寄せる。
そして、柴の唇に唇を重ねた。
柔らかな伊野崎の唇が離れる。
呆然とした柴に、
「鼻血は出てないな」
キスしたばかりの至近距離で伊野崎が言った。
柴は息が荒くなる。
「今でも早く別れておけばよかったって思ってるよ。そしたら、こんな面倒な気持ちにはならなかった」
伊野崎は、どうしようもなく情けない表情をした。
もう一度キスをしたいと思いながら、柴は言う。
「別れた後も、伊野を忘れられなくて苦しかった。でも、伊野と付き合わなければよかったなんて思ったことない」
「俺と付き合ってなかったら、柴は幸せになれたかも-」
伊野崎の言葉を柴は遮る。
「それは違う。初めて会った時から、伊野を好きだ。伊野を好きになったことを後悔したことなんてない。俺からキスしてもいい?」
「駄目だ…」
伊野崎が柴の顔により、二人はゆっくりと目を閉じ、唇が触れ、甘い初恋のようなぎこちないキスを交わす。
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