第22話

「柴」と呼ばれ白昼夢から覚醒し振り返る。

 雨宮が帰り、リビングには柴と伊野崎だけだった。


「仕事部屋にいるから、コーヒー淹れてくれ」


 そう言うと伊野崎は背中を向ける。

 柴はその背中に「持ってくよ」と答えながら、キッチンに入った。


 仕事部屋にコーヒーを運ぶと、伊野崎の様子がおかしい。

 ノートパソコンの前でこめかみを押さえて俯いていた。


「どうした?」と訊いても「どうもしない」と返す声が掠れぎみのようだ。


 リビングに戻った柴は、薬箱から体温計を探して、仕事部屋に戻り伊野崎に渡した。

 

「頭が痛いんだろ。熱を測れよ」

 

 伊野崎が黙って体温計を脇に挟み、電子音が鳴るのを待つと、体温計に表示されたのは三十七度八分だ。


 眉間に皺を寄せる伊野崎を、柴は見下ろした。

「寝た方がいいんじゃないか?」


「そうする」

 伊野崎はマウスを動かし、パソコンの電源を切っているようだ。


「薬なさそうだったから、買ってくる。食欲はあるか?」

「食欲はない。頭が痛い」


「玄関の鍵貸してもらうからな」

 そう言って、柴は買い物に出掛けた。


 薬局とスーパーが隣接した店に行き、必要な物を買い揃えると急いで帰る。

 リビングに伊野崎の姿はない。

 仕事部屋にもいなかった。残るは寝室だけだ。


 ノックをした柴は「はい」という返事を待ってから扉を開けたというのに、伊野崎は着替え中で半裸だった。


「な…」

 なんで、着替え中だと言わないんだ。

 

 背中を向けた伊野崎の綺麗な肩甲骨の動きや脇から腰のゆるやかな曲線を、柴は目で追った。

 ゆったりとした薄いジャージに包まれた臀部の膨らみ。

 在宅が多くなった伊野崎の肌は、艶めかしい白さだった。


 真っ白なTシャツに着替えた伊野崎が振り返り、柴は風邪薬とペットボトルを渡す。


「買ってきた」


 浅ましく胸の突起を探してしまいそうになり、目を逸らす。


 薬を飲むと伊野崎は布団に潜り、怠そうに「柴、帰っていいぞ」と言った。


 伊野崎の乱れた髪がシーツに広がる。

 柴は溢れ出た唾液を嚥下した。


「リトに餌をあげたら帰るよ。夕方は何時にあげればいい?」

「…六時ぐらい」

 伊野崎が寝返りをうち、顔を背けた。


「伊野のごはんも作って置いておくよ。お粥かうどんどっちが食べたい?」

「釜玉うどん」


 伊野崎が体調を崩した時の定番メニューだった。柴は笑った。


「わかった。寝てろよ」


 リビングに戻った柴はソファーに座る。


 見たばかりの伊野崎の半裸が浮かび、伊野崎とのセックスが鮮明に蘇った。


 唇を重ね舌を絡ませる。

 伊野崎の肌の感触。匂い。

 手のひらで胸を撫で脇腹に降りる。

 伊野崎の喘ぐ声。


 記憶の中と同じように、柴は久しぶりに下腹部に熱を感じた。

 しかし、下着の中を覗いて見ても反応はない。


 柴が伊野崎と出会ったのは、十七歳の高校生の時だった。

 他の男とは違い、伊野崎のそばにいると胸が高鳴り、肌が触れると疼くものがあった。


 そして、好きだと自覚した途端に、性的な欲求が渦巻き、男を好きになったことよりも理性を失った己の行動に驚いた。


 伊野崎を抱いたあれは、レイプだったのではないのか。

 合意だったのか。後から記憶を辿ってもわからない。

 

 告白してからの十年間、伊野崎だけを好きだった。


 それなのに、別れを告げた夜、「別れてほしい。結婚することになった」と柴は乱暴に告げてしまった。

 そして「別れない」と言う伊野崎を切り捨て、身勝手に家を出たが、満月が浮かぶ夜空の下で、柴は動けなくなった。


 今なら戻れる。

 伊野崎を愛している。

 立ち止まり考え続けた。


 そして、柴は愚かにも伊野崎から離れる方へ歩み出してしまった。

 忘れられると思ったのだ。


「にゃー」とリトが鳴く。

 足元に擦り寄ってきたリトと名付けられた子猫を撫でる。  


 同棲していた頃、猫を飼いたいと言う伊野崎に反対してしまったことを柴は悔いていた。

 だから、購入した子猫を拾ったと嘘を吐き、伊野崎に預かってほしいと頼んだのだ。


 どうして、伊野崎を捨てるなんてできたのだろう。


 クラス会の夜「俺も会いたかった」と伊野崎が言ったが、どんなに悩み悲しみ答えを導き出したのか、柴には容易にはわからない。


 伊野崎の愛を否定して逃げた柴は、拒絶されて当然なのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る