第四章 柴

第21話

 カーテンを閉めた部屋の中、自らの性器を手のひらで握り、柴理一しばりいちは自慰をする。


 しかし、十分経っても手の中に反応はない。

 手を離すと、棒状の肉はくたりと垂れ下がった。


 長いため息を吐いた。

 駄目だ。やはり、まだ治らない。


 虚しい空虚感にとらわれる。


 三年前に結婚した柴が「離婚」を最初に口にした時、妻は、ほっとしたような表情をした。


 そして、妻から離婚届を渡されて終わった。


 原因は、柴の勃起不全だ。

 結婚した途端に発症し、性行為は一度もなされなかった。


 柴の役立たずの性器は、気まずい夜を幾度と繰り返し「ごめん」と何度も呟いた。


 精神的な問題だと柴にはわかっていた。

 

 自ら選んで伊野崎晶いのさきしょうと別れたはずだったが、どんなに誤魔化しても心は正直だ。

 嘘に塗れた結婚生活も柴の体を蝕み、まったく反応をしなくなった。


 病院で貰った薬も効かない。


 家に帰ろうとすると、緊張し動悸が激しくなり、ぐっすり眠ることもできなかった。


 EDになった柴が離婚したのは、結婚十ヶ月目だった。

 柴には長い十ヶ月だった。


 自業自得な結果だ。


 そして、伊野崎を思い出しては、何度も「ごめん」と心の中で呟き続けていた。


 芯を持たなくなった性器は、離婚しても変わらない。


 スウェットパンツを再び履き、洗面所で手を洗う。

 柴は顔も洗い、黒フレームの眼鏡をかけ直すと、出かける用意をした。


 水曜は定休日で、子猫の世話を言い訳に伊野崎に会いに行く。


 離婚後、伊野崎の家を訪ねたのは、やり直せると思ったからではない。

 だが、二年ぶりに再会し欲が出た。


 伊野崎のそばにいたい。

 その衝動に駆られ、すぐに行動に移すと、この部屋に引っ越し毎日欠かさず伊野崎を訪問していた。


 外に出ると、暑い七月の太陽の下を日陰を探して歩く。

 到着すると、インターホンを鳴らした。 

 

 一緒に暮らしていた頃は、当然、家の鍵を持っていたが今はない。


 短いアプローチを進み玄関扉の前で待つ。

 扉が開いた。

 伊野崎が目の前に現れる。


 暑さが苦手な伊野崎は、気怠げな表情を浮かべると、一歩ひいて柴を迎え入れた。


 陶器のような滑らかな肌や肩の高さで切り揃えたストレートな髪に触れたくなる。

 

 柴は自然と笑みが溢れる。


 伊野崎は、薄い唇を開けた。

雨宮あまみやさんが、柴にお礼を言いたいって、リビングで待ってる」


 今日は、編集の雨宮と打ち合わせがあると聞き、時間をずらしたのだが、返って待たせてしまったらしい。


 リビングに入ると、そこに雨宮がいた。

 伊野崎とは方向は違うが、雨宮も整った容姿をしている。


 第一印象は、伊野崎の口を塞ぐ怪しげな男だった。

 二度目に会った時は、誤解したことが申し訳なくなるほどの好青年だった。


「柴さん、マンションの紹介ありがとうございました」

 雨宮が、頭を下げる。


 柴が勤めているハウスメーカーは賃貸マンションの斡旋もしている。

 今回、雨宮の部屋探しに協力したばかりだ。


「たいしたことはしてません。引っ越しは終わりましたか?」


 柴の紹介状を添付することによって、同性カップルの入居者でも、オーナー審査に通ったのだが知らせる必要はない。

 

「はい。先週、夏生も引っ越してきました」


「夏生くんと仲良くしてるみたいですね」

 伊野崎がそう言うと、雨宮が破顔した。


「ちょー楽しいです」

 整った容姿がくしゃと崩れる。


 柴も、伊野崎と一緒に暮らした三年間は楽しかった。


 別れるなんて予想もしていなかった。


 柴は何度も後悔する。


 リビングのローテーブルの上にページが開かれたままの雑誌があり、視界に入った。

 雨宮が見ていたのだろう。


 先週発売された書籍情報雑誌「ピエーロ」だ。

 書籍だけでなく漫画や芸能の情報もある画期的な雑誌だ。


 最新号は、伊野崎初の対談がカラー四ページにも渡り載っていた。

 柴も発売日に購入した。


 対談相手は、音楽ユニット「ロマンス」の三井だった。

 三井はアーティストながら二作の小説を執筆し、権威ある賞にノミネートされた。

 その三井の強い要望で伊野崎が対談相手に抜擢されたそうだ。


 対談というより、三井がメインで伊野崎はインタビュアーのような扱いではあったが、伊野崎の写真もある。


 雑誌「ピエーロ」のカラーページに伊野崎の顔が登場したのは初めてではないだろうか。


「それ、すごく評判がいいですよ」

 柴の視線を追った雨宮が説明する。


 この雑誌は、伊野崎がカミングアウトした雑誌でもあった。





 伊野崎のカミングアウトした記事を読んだ日のことを、柴は一生忘れることはないだろう。

 

 まだ母が生きていた頃だった。


 あの日、柴は母の響子に離婚したことを伝えなければならないと思いながら、大学病院に向かった。


 離婚してから四ヶ月が過ぎても、柴は響子に報告できてなかった。

 不甲斐なさに辟易する。

 

 治療の継続が難しいガン患者のための緩和ケア病棟に、響子が移ったのは、一ヶ月前だった。


 この病棟は、すべての部屋が個室である。

 スライドドアを開けると、ベッドの上で半身を起こした響子が、雑誌を読んでいた。


 今日は調子がいいようだ。


 ふっくらした母の面影はない。

 頬や頸は細くなり、パジャマの袖から覗く手首も骨ばっている。

 また痩せたなと思った。

 

 顔を上げた響子が言う。

「伊野崎くんのインタビューが載ってたわ。理一読んだ?」


 不意につきつけられた名前に柴は、動揺を隠した。

 頸を横に振る。

 

 入院してから何冊かの雑誌を定期購読しており、響子が手にしている「ピエーロ」もそう中の一冊だった。


「母さん、今日は大事な話があって」

「何?いい知らせ?」

 響子が頸を傾げる。


 柴は苦い顔をした。

「俺、離婚した」


 入院中の母を妻と一緒に見舞ったのは、十回もないはずだが、響子は、親しみを持って妻に接していた。

 

 どんな反応が返ってくるのだろうと、身構えた柴に「…そう」と響子は息を吐いただけだった。


 意味もなく眼鏡のフレームを触る。


 響子は唇を噛んだ。

 そして、ページを広げた状態の雑誌を柴に差し出す。


「ねぇ、理一、これ読んでみなさいよ」


 ページの右下にある伊野崎の横顔写真が目に飛び込む。

 胸が軋んだ。


「なんで?」と狼狽える柴は、響子に促され文字を読み始めた。

 伊野崎の声が聞こえてきそうだ。


 そして、好みの女性のタイプを問われた伊野崎の答えは、驚くものだった。


『私は女性が恋愛対象ではありません。女性を好きになることは一生ないですね』


 それは、ゲイだとカミングアウトするものだった。

 繰り返し文字を追う。


 柴は愕然とした。


「理一、どうして結婚したの?私が嬉しがるとでも思った?」


 その通りで、何も言えない。


 だが、逃げたのは柴だ。

 でも、逃げても逃げても伊野崎が消えない。


「ごめん」


「理一みたいな馬鹿じゃなくて、伊野崎君みたいな息子が欲しかったわ」


 高校の同級生である伊野崎と響子は面識がある。


 柴は雑誌の中の伊野崎の写真に見入る。


「俺、伊野と付き合ってた。今でも好きだ」


 驚きもしない響子は、ただ笑った。


「伊野崎くんはあなたには勿体ないわ。でも、私は理一の幸せを願ってる」


 響子の笑った顔を見たのは、それが最後になった。


 柴が小学生の時、父親は交通事故でこの世を去った。

 その後、遠方に住んでいた祖父母も亡くなり、母響子が一人で柴を育てあげた。

 その母もいなくなってしまった。


 母が死んでから、幾度となく柴の脳裏にその時の笑顔が浮かんだ。

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