第15話
桜が葉桜になった四月下旬。
駅から二十分歩き伊野崎家のインターホンを鳴らした俺は、うっすらと汗をかいていた。
「勝手に入って下さい」と
鍵はかかってなかった。
廊下の突き当たりのリビングから伊野崎が姿を見せた。
自宅にいる時の伊野崎は、ゆったりとしたシルエットを好んで着用していることが多い。
長めの髪を無造作にまとめ上げ、顎のラインや額があらわにした伊野崎は、秀麗な印象を与える。
「こんにちは」と挨拶を交わす。
リビングの扉の影から、ぬるりと現れた小さな毛玉があった。
それは子猫だ。
茶トラの子猫は、とてとて歩きで伊野崎の足を追いかける。
「どうしたんですか?この子」
大きな黒い瞳孔を射抜くように俺に向けた子猫は、じっと動かなくなった。
「猫です。
「はい。大丈夫です」
「知り合いが子猫を拾ったんです。賃貸だから飼えないと言うから、四日前からうちで預かってます」
いつもの仕事部屋に案内される。
子猫は警戒しているようで仕事部屋には侵入せず、廊下から監視することにしたようだ。
「そのうち子猫を拾った男が、買い物から戻ってきますが気にしないで下さい」
伊野崎がパソコンデスクの前に座ると、俺は鞄の中から持参した資料を渡した。
伊野崎のデビュー作がついに文庫化発売となる。
「こちらが、来月の文庫発売のキャンペーンの資料になります」
プレゼント企画とSNSを使った企画を伊野崎に説明し、これからのインタビューの予定を確認する。
途中、インターホンが鳴り中断した。
大量のレジ袋を抱えた男が、仕事部屋の前を通る時、こちらに頭を下げた。
清潔感のある短髪で黒のセルフレームの眼鏡をかけた知的そうな男だった。
「こんにちは。伊野崎の同級生の柴といいます」
そう言った柴の声に聞き覚えがある。
四ヶ月前に、伊野崎と揉めていた男じゃないだろうか。
先生が俺と夏生をセフレかのような嘘を吐き、介抱していただけの俺達に柴は「帰って」と言ったのだ。
思い出した。
俺も名乗った。
「伊野崎先生の担当編集者してます雨宮です」
通り過ぎた柴に、伊野崎は背中を向けて無反応だ。
しばらくすると、柴がコーヒーカップ二客を運び入れ「どうぞ」と出し、静かに退室した。
不愉快そうにした伊野崎だったが、カップに口をつける。
無駄のない柴の振る舞いは、この家をよく知ってる者だ。
ただの同級生ではなさそうだ。
コーヒーを飲みながら、文庫発売企画に話を戻した。
プレゼント企画に伊野崎のサインを入れてもらう。
一時間後。
帰り支度をした俺が廊下に出ると、柴が子猫を抱いて部屋から出てきた。
「触ってもいいですか?嫌がるかな?」
手を伸ばすと、子猫はするっと柴の腕から床に跳ぶ。
「逃げちゃったか。名前は決めましたか?」
「リトです」
と、伊野崎がリトを目で追いながら答えた。
このまま伊野崎が飼うのだろうな、と俺は思った。
「じゃあ、俺も帰るよ」と柴が言い「必要な物は、ほぼ買ってリビングに置いたから」と説明している。
柴も帰るようだ。
玄関で靴を履き、俺が先に外に出た。
「伊野、また来るよ」と柴が言うと、伊野崎が「あぁ」と返していろのが聞こえる。
駅の途中に住んでいるらしい柴と一緒に歩く。
「あの子猫、本当に拾ったんですか?」
赤信号で止まり、俺は引っかかっていたことを訊いた。
「なんでですか?」
「いや、拾われた子にしては柴さんにも先生にも懐くのが早いと思って」
柴が口ごもる。
「…買った猫だと言ったら、もらってくれないかなって思ったんです」
俺にはわからないが、二人の事情があるらしい。
四ヶ月前、巻き込まれた俺達は、伊野崎に問いただしたりはしなかった。
今でも首を突っ込むつもりはないが、夏生のために訂正したい。
「柴さんと会うの初めてじゃないですよね?覚えてますか?」
「はい。あの時は失礼しました。伊野崎から嘘だと聞いてますよ」
それを聞いて安心した。
「もう一人も伊野崎先生とは何の関係もありません…僕の恋人なんです」
言うか迷ったが、柴には隠す必要を感じなかった。
「誤解してごめんなさい。なんか、もう謝ることしかできなくて申し訳ない」
柴が名刺を取り出し、
「引っ越しの予定があればなんですが。住まいのことなら賃貸でも紹介できます」
と言った。
大手ハウスメーカーの名刺を受け取る。
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