第9話
翌日。
午前十時ぴったりにインターホンが鳴り、モニターで確認すると、柴だった。
いつものように手紙を置いて帰るだろう。
伊野崎は仕事を再開する。
リノベーションされた、この部屋は十畳の洋間で仕事部屋だ。
壁一面の本棚と作業机が手前にあり、奥にパソコンデスクがある。
そこで、明日締切のエッセイを書き上げ一息ついた。
昼だ。
十二時になり、冷蔵庫を漁ったが何もなかったため、伊野崎は財布を持って外に出た。
そこに、柴がいた。
インターホンを鳴らしてから二時間は経っているはずだが、まだいる。
「伊野、伊野おはよう」
伊野崎の返事はなく、柴は仕方なく独り言を続ける。
「俺、この近くに引っ越してきたんだ。今日は休みだから、散歩しようと思ってる。伊野の本、全部読んでるよ。次も楽しみにしてる。インタビューも全部読んでる。カミングアウトしたのは驚いたけど、伊野らしいって思った」
伊野崎が歩き始めると、柴は後を追う。
隣を歩く柴は、伊野崎が右に曲がると、遅れて右に曲がる。
「ついてくるな」
伊野崎が吐き捨てると、拒絶されたというのに柴は蕩けるように笑った。
「俺は、散歩してるだけだよ。伊野はどこ行くんだ?」
十分ほど歩くと、伊野崎は近所のスーパーの入口に向かった。
不意に、このスーパーで、柴と一緒に買い物した過去の記憶が蘇った。
二人で料理するのも全然苦にならなかった。
なんの意味もなかった些細な日常の記憶は、別れた後に心に深く刺さってくる。
苦い。
「ここ、一緒によく来たな」
と言って、柴も同じような表情をした。
自動ドアの前で足を止め、柴が眼鏡の奥の目元を乱暴に拭く。
店内までは追って来ないようだ。
安心した伊野崎は買い物かごを取り、二日分の食料を買うと、レジ袋に詰めた。
外に出た。
目を赤く染めた柴が待っていた。
その悲壮な様子に伊野崎は、買ったばかりのレジ袋で殴ってやりたい衝動にかられた。
伊野崎の背後を影のように柴が黙って歩く。
早歩きで帰った。
逃げるように玄関に入った瞬間、伊野崎は手首を掴まれた。
その後、家の中に一歩だけ入った柴の背後で、ゆっくりと玄関扉が閉まる。
眼鏡の奥の柴の目が揺れた。
そして、大粒の涙が溢れ出した。
「あぁあ……俺が全部、壊した」
伊野崎の手首を握る手が震えている。
「一緒にいた十年間、ずっと楽しかった……なのに、俺が…壊した…別れてから何度も後悔して思い返して。十年も一緒にいたのに、別れてから、伊野の大切さがわかるなんて…馬鹿だよ、俺」
柴は項垂れて、懺悔するかのように、頭を下げ続ける。
堰を切ったように本心を吐露する柴に、伊野崎は言葉をなくした。
「母さんに嘘なんてついたのも馬鹿な間違いだった。全部、自分のせいなのに、嘘ばかり重ねて息ができなくなった……だから、母さんが死ぬ前に、離婚して伊野のことも話した…」
柴の悲痛な声に、伊野崎は動揺する。
「亡くなったのか?」
柴は、頷く。
母親を失くし柴は一人になってしまったのか、と伊野崎は呆然とした。
「ごめん…毎日毎日、自分を誤魔化したけど……どんどん会いたくなって」
柴が涙で濡れた顔を上げた。
伊坂崎の心臓がドクッと高鳴る。
「ずっと、伊野を好きなままだった」
柴の告白に、伊野崎の心は叫びそうになった。
何を?
「…黙れ」
伊野崎は呟いた。
唇がわななく。
手首を振り払うと、するりと柴の手のひらが離れた。
「俺は違う…もう好きじゃない。俺を裏切って結婚したのはお前だ」
伊野崎がそう言うと、柴の涙が、再びポロポロと落ちる。
「…わかってる。逃げたのは俺だ。でも、逃げても逃げても伊野が消えないんだよ…」
「知るかよ。もう終わったことだ。もう来るな」
伊野崎は、玄関扉を開けながら、ぐいぐいぐいぐい柴を押した。
外に追い出す。
「許されようなんて思ってない」
一瞬、柴は扉を掴んだが、すぐに諦めたように離す。
閉まる。
ガチャっと鍵をかけた。
柴の姿が見えなくなると、手から落ちたレジ袋を拾った。
台所に運ぶ。
柴は、まだ泣いているかもしれない。
食欲は失せていた。
柴に掴まれた感触が左の手首に残っている。
その感触を消すように、伊野崎は右手で握った。
柴の言葉が、体中を駆け巡り反響する。
怒り哀しむ心に、柴の告白が徐々に広がり染み渡り、じんわりと満たされていく感覚に、伊野崎は戸惑った。
柴と別れた後、柴の気配を消すため、家はリノベーションし家具も家電も徐々に入れ替えた。
ようやく、すべてが真新しいく見渡しても、思い出は蘇らない。
そうだったはずだ。
もう、柴のことなど忘れていたはずだった。
好きじゃない。
好きじゃない。
好きじゃない。
十年以上好きだったが、その思いは、二年前に柴に踏み躙られ粉々に壊れた。
壊れた破片は風化し、知らぬ間に、どこかに飛んでいった。
伊野崎の中には、空っぽで何も残ってないはずだ。
柴の「ずっと、伊野を好きなままだった」という言葉が、伊野崎の頭の中で繰り返し再生される。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます