第10話

 三日後の夜。

 風呂に入り温まった体で伊野崎が、廊下を歩いていると、庭から物音が聞こえた。

 コロコロと何かが転がる音だった。


 太く育ったシマトネリコの一本立ちがあるだけの狭い庭だ。

 

 猫でもいるのだろうか、と仕事部屋のカーテンの隙間から、音がした方向を眺めた。


 目隠しフェンスの陰で居眠りしている男のシルエットが、薄暗い中に浮ぶ。


 掃き出し窓を開けてサンダルを履き、そっと近寄ると、背中を丸めて座る柴だった。

 片膝を抱え頭を垂れた状態で寝ている。


 手元に、転がったビールの空き缶があった。

 聞こえたのは、この音だ。


 伊野崎は柴の肩を揺らす。

「柴。柴、起きろ」


 秋とはいえ、星空の下で寝るには、スーツは不向きだ。

 寒くなれば、目を覚ますだろうか。


 寝息をたてる柴の頬が青白いような気がする。

 酔い潰れて脱力した姿は、普段の柴からは想像もできないほど弱々しかった。


「柴」ともう一度、肩を前後に揺らすと、うっすら瞬きをした。


 しかし、柴が唇を動かし何か呟くと、再び固く瞼を閉じてしまった。


 どう見ても、熟睡している。


 勝手に庭に入って寝入っている柴を介抱してやる責任はない。

 風邪をひいても、自己責任だ。


 十秒ほど柴を見下ろし、伊野崎は迷った。


「ああ、もう、重い」

 愚痴り、柴の肩に肩を入れた。

 柴の重い体を玄関の上り框まで運び、靴を脱がせる。


 背広の背中に葉っぱと土をつけた柴は、無防備にくの字に腰を曲げて寝た。

 ため息を吐きながら、払ってやり、部屋から毛布を取って戻り、柴に被せた。


 眼鏡を外そうと、顔を覗き込む。


 高校生の時から知っている十年間付き合った、二年前に別れた柴の顔だった。


 意識がない今だけ、少し触れてもいいだろうか。

 伊野崎は、正座をして柴の頭を撫でた。


 自分とはまったく違う、硬い髪の手触り。


 もし、柴が起きてしまったら葉っぱがついていた、と言いわけをしよう。


 だが、柴は起きない。


「柴ぁ。どうしたら、来るのを止めてくれるんだ」


 伊野崎は、答えがないとわかりながら、問いかける。


「俺が許したら止めるのか?俺に恋人ができたら止めるのか?同棲始めたりしたら止めてくれるか?俺が死んだら、さすがに止めるよな?」


 柴の眼鏡を外し、靴箱の上に置く。

 玄関の電気を消し、洗面所で歯を磨き、寝室に入った。


 今頃、柴が目を覚ましているかもしれない、となかなか寝つけない。

 ベッドで寝返りをうった。


 母親をなくしたことにより、柴は、日々、寝られていないのだろうか。


 結婚が上手くいかず、母親も亡くしたのだ。

 精神的に弱っているのは当たり前かもしれない。


 だからといって、伊野崎とよりを戻すのは違う。

 

 はい、そうしましょう、とは思えない。

 伊野崎はずっと考えている。

 柴と別れた二年間、伊野崎は、本能的に片っ端からすべての心に蓋をした。

 

 顔を思い出せない一夜の関係なら、柴と別れたあと数回あったが、恋人がほしいわけではなかった。


 結婚した柴とは違う。


 そうだ。

 裏切った柴だからこそ、あんな涙の告白なんてできるんだ。


 やはり、よりを戻すことはない。


 明日、目が覚めたら、柴にそう言おうと考えながら眠りについた。


 翌朝、寝るのが遅かった伊野崎が起きた時には、玄関に柴の姿はなかった。

 早くに出て行ったようだ。


 畳まれた毛布と「ありがとう」と置き手紙があるだけだった。







 薄暗い店内のバーカウンターで、隣に座る夏生が言った。


「先生が、ゲイを公表されたきっかけってありますか?」


 夏生と伊野崎が飲みに行く約束を果たせたのは、連絡先を交換した二ヶ月後だった。


 伊野崎の馴染みのバーだ。

 客も店員もゲイの割合が高いだけで、ゲイバーではない。


 伊野崎は答える。

「面倒くさくなって、すべて捨ててしまえって思ったんです。結果的に何も捨てずに済んだんですけど。家族も仕事も以前のままでした」

 

「何も変わらなかったですか?」


 伊野崎のカミングアウトは、柴と別れたのがきっかけだ。


「…何というか、内にこもっていた時期でね。私自身が周りの変化に疎かっただけかもしれません。夏生くんの家族は?」


「俺は、言わなくていいなら、言わないままでいいです」


「無理に言う必要はありません。私も雑誌に載せるかどうかは、当時の担当者と少し揉めました」


 その後、担当が雨宮に変わったのだから、本当は少しではなかった。


「雨宮の前の担当者に反対されたんですか?」


「はい。最後まで反対されました」


 インタビューで女性の好みを質問され「女性は恋愛対象ではない」と伊野崎は答えた。


 小説家とはまったく関係のない質問を消すこともできたのだが、伊野崎の意向で、そのまま載った。


 伊野崎は、五杯目のギムレットが空になりソルティドックを注文する。

 

 酔いたいのに酔えない。

 

 しかし、酔えないと思っているのは伊野崎だけで、次第に伊野崎の発言はおかしくなった。


「夏生くん、雨宮さんといて幸せですか?」

「え?はい…」


「バイセクシャルなんて、節操なしに決まってますよ。私なら付き合いません」


 伊野崎は断言する。


「先生は、バイセクシャルが嫌いなんですね」


 夏生は、モスコミュールを飲み、こてんと首を傾げる。


 可愛いな、と伊野崎は思った。

 頬杖をついて、夏生の目を見つめた。


「そうです。許しません。嫌いです。雨宮さんのことは好きでも嫌いでもないですが」


「相手もゲイだったら、こんな不安にならないのかなと考えることはあります」 


 伊野崎が夏生の腰に手を添えた。


「こんな可愛い夏生くんを不安にさせるなんて。やっぱり、別れて私と付き合いましょう」


「え?先生、酔ってますね?」

「いくら飲んでも酔えません」


 伊野崎の真顔に、夏生は笑う。

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