第8話

 伊野崎は、夢を見ていた。

 夢だが、これは現実にあったことだ、とわかった。


 夢の中で、伊野崎は高校生だった。


 下半身だけ脱いだ姿で、柴と繋がっていた。

 高校三年の時だ。


 初体験は気持ちがいいものでは、まったくなかった。

 柴は、自分本意で夢中で腰を動かしていた。


 男同士のセックスの仕方など知らなかった。

 切れて出血した。


 いつも冷静な柴が、衝動にかられ理性をなくし伊野崎を抱き、あっという間に果てた。


 彼女がいる柴を好きになったのは、伊野崎だ。


 わかっていた。

 柴は、彼女と別れなかった。

 だから、高校卒業をきっかけに、きっぱりと諦めた。


 柴から告白されたのは、二十歳の時。

「彼女とは卒業前に別れてたよ」

「伊野を好きみたいだ」


 幸せな夢だ。儚い夢だ。

 それから十年間付き合った。

 早回しで過ぎていく。


 夢の中の伊野崎は、三十歳になった。

 これ以上は見たくない。


「母さんが入院した」

 この家で同棲していた柴は、そう言って一時的に実家に帰った。


「もって二年らしい」

 柴の声は震えていた。


 母子家庭で一人っ子の柴にとって、母親は唯一の家族だ。

 症状は思わしくなく、柴は毎日のように見舞いに行っていた。

 

 そして、半年が過ぎた、ある時。

「別れてほしい」

 柴が言った。

「結婚することになった」

 聞きたくない。


「いやだ」

 伊野崎は柴を引き止めた。

「俺より好きな人ができたのか?」

 柴の胸を拳で叩く。

「どうして?何があったんだよ」

 

「母さんに、結婚するって…孫を見せるって…」

 嗚咽する柴。


「別れないからな」

 呪詛を唱えるように伊野崎は、繰り返す。


 繰り返し繰り返し、小さくなり消えていく。


 宣言通り、柴は伊野崎を裏切り結婚した。


 そこで、伊野崎は目が覚めた。


「はあ」

 起きたばかりなのに疲れた。

 もう一度、目を閉じ、両手で顔を覆いながら夢を反芻する。


 過去の夢を見てしまったのには、理由があった。

 あれから毎日、柴が家にやって来るからだ。


 それは、もう一カ月続いていた。

 時間はまちまちで、必ず一日一回、インターホンを鳴らし、ポストに手紙を入れていく。

 

「また、来ます。ごめんなさい」と書かれた手書きの簡潔な手紙だ。


 伊野崎は、毎回ビリビリ破って捨てた。


 インターホンの画面越しの柴は、画素が粗く表情までわからない。


 携帯の番号もアドレスも変更した伊野崎と柴の連絡手段は、他にはない。


 今日も柴は来るのだろう。





 季節は移り変わり夏から秋になった。


 ようやく肌寒くなり、衣替えしたばかりのジャケットを羽織った伊野崎は、出版社のエントランスから出てきた。


 午後六時。

 雑誌のインタビューを終わらせたところだ。


 ふらりと出版社ビルの真向いに建つ電機店に立ち寄り、店内を見て回った。


 パソコン周辺機器の売り場で、偶然、夏生に会った。


 顔を上げた夏生と目が合い、お互いぺこりと頭を下げる。


「就活ですか?」

 伊野崎は声をかけた。


 夏生が紺色のリクルートスーツを着ている。


「説明会の帰りなんです。雨宮さんの会社の近くだったので、帰りに飲みに行く約束をして、待ってるとこです」


「何時に約束ですか?」

「…七時です。ちょっと過ぎてますけど」

 夏生は苦笑した。

 十八分過ぎている。


「それなら、雨宮さんを待ちながら、この辺りで一緒に飲みませんか?」


 悩ましい存在を綺麗さっぱり忘れて、伊野崎は飲みたい気分だった。


 だが、夏生は、作家先生のお誘いに尻込みする。

「先生とご一緒できるのは嬉しいですが…」


「行きましょう。雨宮さんには連絡したら大丈夫ですよ」

 

 伊野崎は少々強引に誘ってみた。

 これで駄目なら諦めようとしたが、夏生が承諾したため、近場の和食居酒屋に入店した。


 席に案内され「雨宮さんに連絡します」と言って、夏生はメッセージを打つ。


 注文した生ビールが届き、軽く乾杯した。


「夏生くん、三年だよね?」

 

「はい」と夏生は答え、就活の話を始めた。

 伊野崎が新卒で入社したのはホテルマンだったと言うと、夏生が驚く。


 夏生の携帯が鳴り、雨宮の返信があった。


 メッセージを読む夏生は躊躇いながら言った。


「あの、雨宮さんに連絡したら、先生に伝えてほしいと言われたので、いちよう伝えます…俺と雨宮さんは付き合ってます」


 伊野崎は、雨宮の慌てた様子が目に浮かんだ。

 担当作家が彼氏を口説いている最中だと誤解されたようだが、伊野崎に下心はない。


 声を出して笑ってしまった。


 夏生が心配げに言った。

「もしかして、気づいてましたか?俺、わかりやすいですか?」


「男性の恋人がいると教えてもらってましたから、深夜の電話を受けた時に、そうかなと」


 ビールを豪快に飲み、夏生は小声で呟いた。

「俺、ゲイなんです。同じ人と会ったのは先生が初めてです」


「ゲイバーは?」

「行ったことないです」

 夏生は横に首を振った。


「私の知っている店でよけらば、今度一緒に行きますか?厳密には、ゲイのバーテンダーがいる店ですが」


 二杯目の生ビールを頼みながら、連絡先を交換した。


「二人で飲みに行ったら、こんなおじさんでも、雨宮さんに怒られますか?」 


「たぶん大丈夫です。でも、先生は全然おじさんじゃないですよ。年齢関係なく綺麗だから、どきどきします」


「ありがとございます。土日は、雨宮さんの休日だから避けた方がいいですよね。バイトは平日の夜も入ってますか?」


「入ってないです。先生はいつも自宅で仕事してるんですか?」

「そうですね。一人なので、気楽にやってます」


 雨宮繋がりの仕事の話をしていると、息を切らした雨宮が現れ、夏生の隣にどかりと座った。


 雨宮が口を開く。

「先生、聞きましたか?」


 雨宮のプライベートは、意外に幼い。

 伊野崎は笑みを隠して答えた。

「雨宮さんと夏生くんのことなら聞きました」


「先生気づいていたらしい」 

 夏生が伝える。

「え?わかってて誘ったんですか?」

「健が約束の時間に来ないからだろ」

「あっ、遅れてごめん」と雨宮が謝った。


「雨宮さんが来たことですし、私は帰ります」

 そう言って、伊野崎は、ここまでの会計を払い、引き止められたが店を出た。


 伊野崎が「また連絡します」と夏生に言ったことで、今頃、雨宮に問い詰められているだろう。


 飲みたりないかもしれない、と思いながら、自宅最寄り駅のホームで降りた。


 柴の後頭部らしき後ろ姿が目に入った。

 柴だ。


 改札に向かう雑踏に紛れて、スーツの背中が見え隠れする。


 柴はスーツが似合う。

 ハウスメーカーの営業職で、高価な商品を勧めるのに相応しい物を選んでいた。


 これから、伊野崎家に行くのだろうか。

 後をつけるようで気まずいが、時間を潰すのも癪に触る。


 しかし、柴は、まったく予想外なマンションのエントランスに入った。

 三階建の一人暮らし用の賃貸マンションだ。


 ベランダ側に回りこみ眺めていると、二階の角部屋に明かりが灯った。


 伊野崎の家とは、徒歩十五分程度の距離だ。

 

 今日も外出する時、ポストに柴からの手紙があった。


 再会後、どのタイミングかわからないが、柴はここに越して来たのだろう。

 

 ほぼ毎日、伊野崎の家に来ているのだから、近くに住んでいても不思議ではない。


 酔いが覚めてしまった。

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