第二章 伊野崎

第7話

「こんにちは。覚えてますか?」


 伊野崎晶いのさきしょうはレジにいる男に笑いかけた。

 A大学駅前のカフェだ。


 その男が、はっとした表情を見せた。

「もちろんです。伊野崎先生」


 どこにでもいるような容姿でありながら、人懐っこい愛嬌のある表情をする男だ。


「サイン会の日、 雨宮あまみやさんから、ここのカフェラテをいただいたんですよ」


「はい。いらっしゃいました」


 カフェラテを注文し、彼から商品を受け取る時、伊野崎は小声で言った。

「あの時は、私のせいで誕生日を台無しにしてしまってごめんね」


 両手を胸の前で振り、彼が急いで否定する。

「そんな、先生のせいなんかじゃないですよ」

「私が叩き起こせばよかったんですよ」


 長めの髪を耳にかけながら、伊野崎は「またね」と言って店を出る。

 歩きながら飲む。あまり時間がない。


 電車を乗り継ぎ、大手出版社の本社ビルのエントランスに着き、三階の文芸出版部に向かった。

 訪問を告げると個室ブースに通され、暫し雨宮を待つ。


「お待たせしました」と雨宮が現れ、向いの席に座った。

 カラー用紙を広げる。


「文庫の装丁ですが、3パターンのデザインを考えてもらいました。これとこれとこれ。先生、どうですか?」

 

 半年前に伊野崎の担当編集になった雨宮は、見栄えがよい。


 特に笑うと端正な顔に隙ができ、伊野崎の好みではないが女性に好かれるだろうな、と思っていた。


 しかし、雨宮はバイセクシャルで現在は男と付き合っている、と聞いた。

 雨宮の恋人は、たぶん先程のカフェにいた彼だ。


 バイセクシャルと付き合うなんて時間の無駄だ、と伊野崎は思っている。

 他人ごとながら、早く別れた方がいいと忠告したくなる。

 過去の自分と重ねてしまうからだろう。


 装丁と帯のデザインが決まり、打ち合わせが終わった。


 雨宮が腕時計を見る。

「昼過ぎちゃいましたね」


 コンビニに行く雨宮と共に外に出ると、並んで歩く。


「さっき雨宮さんの後輩くんに会いましたよ。サイン会で花束あげた子」

 伊野崎は、何気なくを装って口にする。


「どこでですか?」

「A大学駅前のカフェで。名前は 夏生なつきくんでしたよね?」

「…はい」


 雨宮から営業用の笑顔が消えた。

 伊野崎が、夏生の名前を覚えていたのが気に入らなかったのだろう。


「あの…先生…」

「コンビニ過ぎちゃいますよ」

 コンビニの前だった。

「あっ」


「お疲れさまでした」と挨拶し、雨宮を残し駅へと向かった。


 途中で適当に昼飯を食べ帰宅する。


 伊野崎の自宅は平屋の古く狭い一軒家で、もともとは祖父母が住んでいた。父親が相続し、五年前から伊野崎が暮らしている。


 最寄り駅からかなり歩くが、静かで住みやすい場所だった。


 玄関前のアプローチに見知った男が佇んでいた。

 見間違えるわけがない。

 それは、二年ぶりに見る 柴理一しばりいちだった。


 振り返った柴が、伊野崎の姿を目に入れた瞬間、驚いたように大きく肩をびくっと震わせた。


 十秒。お互い微動だにしなかった。


 二年では、何も変わってないように見える。

 伊野崎が知っている柴のままだった。

 

 知的な容姿に黒のセルフレームの眼鏡。

 輪郭は少し痩せただろうか。


 感情を押し殺したように唇を噛んだ柴は、その後、嬉しそうに笑った。

「伊野…引っ越してなくてよかった」


 そう言った柴を見ないように顔を背けた伊野崎は、顔を歪めた。


 もう一生、会うことはないだろうと思っていた。

 死んでしまえばいいのにとさえ思った。


「会えた」

 安心したような表情の柴が近寄ってくる。

 歩き方も変わっていない。


 そんな言葉、聞きたくない。

 伊野崎は会いたくなかった。

 

 眼前で立ち止まった柴の胸倉を、伊野崎は掴んでいた。

 ほぼ同じ背丈で、視線が交わる。

 首を締め上げると「うっ」と柴が呻いた。

 伊野崎は、声を荒げた。


「二度と来るな。帰れ!二度と来るな!」


 興奮し、徐々に声が大きくなる。


 そして、力任せに突き飛ばし、玄関の鍵を急いで開ける。

 

 勢いよく地面に腰を打ちつけ、痛みに堪える柴が告げた。

「俺、離婚したんだ」


 伊野崎は、柴を一瞥する。


 玄関に入り、怒りにまかせ扉を強く引き閉めた。

 大きな音が響く。


 柴と別れ、二年が過ぎた。

 あの時の絶望は、今もはっきりと残っている。


 何もする気力がなく、伊野崎はからっぽになった。

 食欲もなく、寝ることもできなかった。


 その時、心が死んだ。

 泣くことも、怒りも、喜びも、笑うことも、消えてしまった。


 ただ、生きているだけ。

 

 しかし、今、止まっていた時間が動き出した。


 頭が痛いぐらいの怒りが沸き起こり、枯れたはずの涙が止まらなかった。

 伊野崎は、久しぶりに心を取り戻したように号泣した。


 玄関扉を閉めた時に割れた爪から、赤い血が滲み出た。

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