11.二人だけの記憶

 まだビール二杯目だというのに、拓真たくまの顔は赤い。気分も上がってきているのか敬語もときたま外れている。

「姉さんはほんと可愛くて……」

「いつも姉さんは優しくて……」

「あのときの姉さんはかっこよくて……」


 拓真はジョッキを握りながら飽きることなく紗穂さほの良さを語ってくる。俺の知らない小中高時代の彼女のことを中心に熱弁し、酔っていてもナチュラルにマウントを取る拓真は相当なシスコンである。

 紗穂の良さは夫である俺が一番よく知っているつもりだが、拓真は自分が一番だと譲る気はないようだ。俺は彼の姉語りに「うん」「そうだな」と相づちを打ち続ける。


 義理の弟である拓真との初めてのサシ飲みは、開始三十分も経たずにぐだぐだな感じになってしまった。それもこれも拓真が酒に弱いからだ。

 紗穂の情報によると、拓真は酔うと泣くのだという。さすがに店の中で泣かれるのは連れとして俺が恥ずかしいので、さりげなく拓真の前に水を差し出した。けれど拓真は水に目もくれず、ビールを飲み続ける。


「姉さんと優大ゆうだいさんの馴れ初めってどんな感じだったの……じゃない、ですか」

 拓真はタメ口になっていることに気づき、視線をそらしながら敬語に直した。別にタメ口でもいいのだが、変なところで気を遣ってくる。


「ブックカフェで紗穂が具合悪そうにしてたから声かけたのが最初」

 俺が紗穂との出会いを端的に話すと、拓真は興味深そうに目を見開いた。

「へぇ、ブックカフェで会ったのは姉さんからも聞きましたけど、優大さんから話しかけたんですね」

「ああ、それで好きな小説が同じだってわかって話が盛り上がった」

 あのときの彼女はすごく生き生きと小説の魅力を語っていた。最初声をかけたときは俺の姿を見て「なんだこの人」みたいな目を向けていたが、好きな小説が一緒だとわかるとあっという間に紗穂は俺に懐いた。


「告白は? 優大さんから?」

「……いや……どうだろうな……」

 つい歯切れが悪くなってしまった。どれを告白ととるかで俺からなのか、紗穂からなのか変わるのだから仕方ない。

 返答に納得がいかなかったのか、拓真は俺の顔を怪訝そうにのぞき込む。


「どうだろうってなんですか」

「色々あるんだよ」

「なんですか色々って」

「色々は色々だ。――すみません、ビール一つ」

「ちょっと優大さん、逃げないでください。弟として知る権利が俺にはあるんですから」

 俺は拓真の追及を無視し、店員が運んできたビールを飲んだ。


 ◇


 紗穂と初めて会った日、俺たちは連絡先を交換して別れた。「また会いましょうね!」と楽しそうに手を振る彼女を駅で見送り、一人でアパートに帰ると、早速彼女から『いつ空いてますか』とメッセージが入っていた。


 高卒で働いていた俺は、仕事の関係で休みがバラバラだったため、当時大学生だった紗穂が休みを合わせてくれた。何度か食事をし、だんだん本の話だけではなく、お互いの家族のことや学校のこと、仕事のことなどプライベートな部分を知るようになっていった。

 何回目に会ったときか、今ではもう覚えていないが、一緒に歩いていると紗穂は手を繋いできた。少し照れながらも何事もなかったかのように紗穂は俺に話しかけてくる。俺はその手を握り返した。


 やがて駅で解散ではなく、俺が紗穂のアパートまで送るようになった。

「じゃあまたな」

 紗穂の手を離し、背を向けると彼女は「優大くん」と俺を呼び止め、腕を掴む。

「……うち寄ってかない?」

 うつむきがちに提案する紗穂の表情は見えない。俺はスマホで時間を確認する。

「終電なくなる」

 俺がそう言うと、紗穂は怒ったように俺を見上げた。

「泊ってけばいいでしょ」

 その発言を聞き、今度は俺の眉間にしわが寄る。

「それ、意味わかって言ってんのか」

 俺が紗穂に一歩近づくと、彼女は一瞬ビクッと肩を揺らし、ゆっくりと首を縦に振った。


 初めて上がった紗穂の部屋は俺の部屋とは違って物がたくさんあった。何個か飾ってある写真たてには、制服姿の彼女が笑顔で映っていたり、ジャージ姿でみんなで肩を組んだりした写真があった。

 棚に本が入らないのか、床には本が積み重なっている。流しには皿やコップが水に浸かったまま放置されていた。彼女の生活感が丸見えである。


 紗穂はやっと自分の部屋の状態に気づいたのか、慌てて俺の顔の前で手を振る。

「ちょ、ちょっとジロジロ見ないで優大くん! たまたま片付けるの忘れてただけだから!」

 あわあわしている紗穂は俺からさっと離れて、急いで床に散らばった本をかき集め始める。


 たぶんいつもこんな感じで片付けもしていないんだろうなと想像したら、笑えてきた。俺が思わず声を出して笑うと、紗穂は本を胸に抱えたまま頬を膨らませた。

「絶対部屋汚いって思ったでしょ!」

「いや、らしいなと思ってただけだ」

「らしいってなに、わたしが汚いみたいじゃん!」


 俺は元気にツッコミを入れる紗穂のそばにいき、彼女を抱きしめた。「へあっ!」と変な声を上げた紗穂の耳に顔を寄せる。

「笑ってるときも拗ねてるときも照れてるときも、全部すげぇ好きだ」

「タイミングがおかしいよ!」

 またもわーわーと騒ぐ紗穂は、俺の背中に手を回し、力強く抱きしめ返した。彼女は落ち着きを取り戻すようにふぅと息を吐き出したあと、俺の耳元でささやく。

「……わたしも大好きだよ、優大くん」

「……知ってる」


 お互い力を緩めて顔を見合わせると、紗穂はすごく嬉しそうに瞳を輝かせた。にこにこしながら俺の頬を両手ではさんでくる。

「優大くんが照れてる!」

 俺も紗穂の頬に手を添え、初めてのキスをした。

 その日は長い夜だった気がする。


 ◇


「ちょっと優大さん~、自分の世界に入らないでくださいよお……俺とのサシ飲みなのに……ううう……どうせ姉さんとのいちゃついてる日々を思い返してたんでしょ……」

 拓真の声で意識を戻す。彼はビールを飲みながらぐずぐずと泣いている。紗穂との思い出に浸り過ぎて拓真の酒制御が間に合わなかった。


「悪かった。悪かったから泣くな拓真」

 彼の手からジョッキを引き離し、水を持たせる。すぐさま紗穂に連絡を入れると、『お迎え隊員を派遣したからあと十五分くらい耐えて』と返信が来る。

 出来る限り水を飲ませていると、拓真は涙を流しながら寝てしまった。泣いているより寝ていてくれたほうが安心だ。お迎え隊員とやらを俺は一人で待った。


「――細美ほそみさん、お久しぶりです! 拓真を迎えに来ました」

 お迎え隊員として派遣されていたのは、紗穂の高校の同級生である宮内みやうち大河たいがだった。俺たちの結婚式にも来てくれたため覚えているが、会うのは久しぶりだ。

「お迎え隊員って宮内のことだったのか」

「いえす! 今拓真に猛アタック中なんで」

 拓真の腕を自身の肩に乗せながら、宮内は親指を立てた。猛アタック中。そういうことか。


「拓真ー、ほら帰るぞー」

「ぬあ……? って、え、なんで宮内先輩がここにいるんですか。ストーカーですか。通報しますよ」

 起きた拓真は宮内から距離を取ろうと体を引く。宮内は爽やかスマイルで拓真の体を引き寄せた。

「ストーカーじゃないって。ちゃんとお前の大好きな姉ちゃんから頼まれたんだから」

「姉さんが……? そ、そうですか」

 紗穂の名を出すだけで拓真はおとなしくなった。

 会計を済ませ、店の外に出る。拓真は最初こそ嫌そうにしていたが、なんだかんだ仲良さそうに二人は並んで歩いている。


 左手につけた腕時計を確認すると、自然と指輪が目に入った。紗穂は毎日のように指輪を見てにやにやしている。

 ――早く彼女が待つ家に帰ろう。

 二人の背中を見送り、駅へと向かうスピードを速めた。

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