3.スタートダッシュは唐突に
新人賞でデビューしてから早二年、今のところ順調に小説を書き続けられていた。友人たちは社会人として企業に勤務している人が多く、実家で暮らしながら小説家一本で活動している私はおおいにレールを外れている。
疎外感もあるが、執筆したり資料を読み漁ったりする時間はやはりなによりも楽しい。
◇
――鏡を見ながら髪の毛をセットしていると、にやけ顔の自分と目が合った。なんといっても今日は大好きな作家さまのサイン会。にやけるのも仕方ないだろう。
しかもしかもだ、あの
読書嫌いだった紗穂とブックカフェで勉強していたのは高校生のころだ。たまたまそこで一冊の本に出合ってから、紗穂は私以上の本の虫になった。
そして、県外の大学に進学した紗穂が帰省してそのブックカフェに行ったときに出会ったのが今の彼らしい。
いやはや、これはもう私が恋のキューピッドといっても
とまあ、そんな紗穂が結婚する。もうそんな年齢になったのか、としみじみ思う。二十四歳での結婚は早いのか遅いのか、私にはわからないけど。
同棲しているというのも聞いてはいたが、実際にそのお相手にはまだ会っていない。
私が好きな作家さまのサイン会に偶然にも紗穂も行くらしく、だったらサイン会の前に会おうよ、と約束を取りつけた。紗穂の恋人さんをやっと紹介してもらえる。一体どんな人なのだろう。気分が高まることばかりだ。
空は雲一つない快晴。
待ち合わせをしていたブックカフェにたどり着くと、可愛らしい格好をした紗穂を見つけた。その横にはガタイの良い男性が座っている。
「久しぶり、紗穂」
パッと振り返った彼女は前に会ったときよりもさらに可愛くなっていた。幸せオーラが出ているからだろうか。
「
椅子に座りながら、私はさりげなく紗穂の彼を観察する。うん、ちょっと見た目が怖い。
紗穂はにこにこしながら彼を紹介してくれた。
「こちらが
相変わらず紗穂の笑い方は変だ。だけど変わっていなくて安心する。頭をかく紗穂に対し、細美さんは
「その笑い方キモイからやめろって」
私の親友にその発言はいかがなものかと一瞬思ったが、細美さんの紗穂を見る目はやわらかい。ああ、大好きなんだなぁと伝わってきて、私は思わずテーブルにおでこをぶつけた。だって尊いんだもん。
急に変な動きをした私に紗穂は「ど、どうした佳奈美!」と高校生のころと変わらないノリで接してくれる。私はゆっくりと体を起こした。
「はぁ………………」
「なにそのおっきいため息。幸せ逃げちゃうよ」
紗穂は口を
「幸せをチャージしすぎて
今度書く小説は恋愛ものにしよう、うん、それがいい。
それから細美さんの仕事の話とか、紗穂の家事能力についてとか、たくさん話をした。もちろん本の話も。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
紗穂がそう言って席を立ったので、私と細美さんは二人っきりになった。細美さんは口数が多くなく、紗穂が高校生のときに付き合っていた子とはタイプが全然違う。
彼女の元カレはみんなよく喋る人たちで、私にもフレンドリーに接してくれていたのを思い出す。
細美さんはブラックコーヒーを一口飲むと、おもむろに口を開いた。
「……紗穂って高校時代どんな感じだったんですか?」
「うーん、バドミントン部のキャプテンやってて、部活大好き! みたいな子でした。文化系の私と仲良くなったのが不思議なくらいです」
「へぇ、部活やってるところとか見てみたかったな」
私はかばんからスマホを取り出し、動画を探す。
「あ、あった。県大会行ったときのやつです」
「あんま運動してる姿見ることないから貴重っすね」
「ははは、私からしたら紗穂が本を読んでいる姿のほうがレアだったんですけどね」
私はスマホをしまってから、顔をあげた。
「紗穂は意外と寂しがり屋なので、たくさん甘やかしてあげてくださいね」
私がそう言うと、細美さんは目を丸くしてから考えるようにあごに手を当てた。
「甘やかしているつもりなんだが……
と、独り言のように
紗穂はご飯に行くといつも
紗穂の話をしていると、当の本人がトイレから戻って来た。彼女の手には単行本が
「ねね、優大くんこれ持ってたっけ?」
「ん? あー、あったようななかったような?」
はっきりしない返答に紗穂は「えー」と不満げだ。細美さんは肩をすくめた。
「買っても置くとこない」
同棲している家は本で溢れかえっているらしい。
私も結婚するなら読書好きの人がいいなと思ってはいたが、読書好き同士だとそういう悩みがあるのか。それは考え直さなければならない。そもそも結婚する前にお付き合いする相手がいないのだけど。
結局単行本は
「じゃあそろそろ行こっか」
切り替えの早い紗穂に続いて、細美さんと私もサイン会の会場に向かった。ブックカフェから歩いて十分ほどのところにある書店で行われるのだ。
書店で新刊を買ったあと、特設会場でその本にサインをしてもらう。
新刊を買うついでに、自分の本を探してみた。最新作が平置きされているのを発見し、自然と口角があがる。紗穂もそれに気づき、小声で「置いてあるね」と興奮気味に
私が自分の本に手を伸ばすと、誰かと手がぶつかってしまった。なんだこのベタなシチュエーションは、と思いながら
「すみません」
すると、その手の主は私の顔を見てきらきらと瞳を輝かせた。な、なんだろう、この子。制服を着ているから学生さんだろうけど。
「
ズイッと距離を縮めてくる彼に私は大きくのけ
佐倉蜜柑は私のペンネームだ。名づけ理由はただ一つ、サクラとミカンが好きだから。
ここでは人の邪魔になるため、私は仕方なく男の子の腕をつかみ、その場を離れる。紗穂と細美さんもついてきた。
というか、新人賞をとったときに雑誌に小さく写真が載っただけなのに、よく私の顔を覚えているものだ。
彼はぱあっと効果音がつきそうな顔で私に笑いかけた。
「佐倉先生のデビュー作を読んでからずっと大好きなんです!」
顔が近い。
彼の肩を押して距離を取りながら、私は一応「ありがとう」と言う。ファンと言われて嬉しくないわけがないけど、距離感がバグっている。
「うわー! ど、どうしよう! あ、そうだ、連絡先交換してください!」
落ち着きのない彼はスマホでQRコードを見せてきた。いや、初対面なのだけど?
助けを求めるように紗穂を見ると、彼女はにやにやしながら言った。
「いいじゃん、佳奈美。悪い子じゃなさそうだし」
「そういうことじゃないでしょ」
はぁと大きなため息が出る。まあ、害はなさそうな子だけども。
紗穂は男の子をチラッと見てから、口角をあげた。
「こういうはじまり方もいいんじゃない?」
「ええ……」
サイン会の時間も
連絡先の交換が完了すると、彼は大喜びでサインを求めてきた。私のデビュー作を持ち歩いているらしい。不思議な子だ。
「あざっす! 大切にします!」
「うん、ありがとう」
紗穂は結婚という新しいスタートを切った。私は一人暮らしもしたことがないし、県外で暮らしたこともない。ただただ家で小説を書く。これまでとずっと変わらない生活をしている。
この出会いは私にとっての新しいスタートになるのだろうか。
わからないけど、大事そうに私の本を胸に抱える彼の笑顔は、好きだなと思った。
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