2.思い出をまた一つ

「これでよし」

 編み込みのハーフアップを鏡越しに確認する。うん、我ながら良い出来。お気に入りのブラウスとロングスカートをはいて、いざ出陣!

 出陣って言っても向かうのはブックカフェ。

 大学生になってはじめての夏休み、実家に二週間ほど帰省するので、思い出のブックカフェに行くことにしたのだ。


 空席ありという店の前のタブレットを見る。カウンターでカフェオレを注文し、席に着いた。

 カバンから花柄のブックカバーがかかった文庫を取り出す。大好きな小説をブックカフェで読むのはなんだかすごく優雅な感じだ。


 子どものころから読書が苦手だったわたしは、高校時代このブックカフェでとある一冊の本と出合ってから、本の虫になった。

 本を読むようになったら、国語の成績も驚くほどぐっと上がった。なんで今までこんな簡単な問題が理解できなかったんだろうと不思議に思うくらい。


 読書はわたしに新しい世界を見せてくれる。ファンタジーやSFを読むと、作者さんの頭の中はどうなっているんだろうと毎回思う。あの世界観は一体どこから生まれるんだろう。

 恋愛ものを読んできゅんきゅんしたり胸が苦しくなったりもする。本を読むと色んな感情が生まれ、色んな視点や価値観も知れる。


 あんなに毛嫌いしていた読書が、今ではわたしの一番の趣味になった。


 ◇


 読書に集中し、カフェオレを飲み干してしまうと、急にお腹に痛みが出てきた。う……やばい。太腿も腰も痛い。これはもしかしなくても女子がみんな嫌いなあれがやってきたのか。

 予定では一週間後のはずなのに。


 お腹をおさえて下を向く。まさか生理になるなんて思ってないからナプキンも持ってないし薬もない。太腿が痛すぎて歩くのもしんどい。最悪すぎる。

 痛みに耐えながらお腹を圧迫していると「おい」とドスの効いた声が聞こえた。

 こっわ。

 こんな落ち着いたブックカフェで威圧感のある声は似合わない。まあわたしに話しかけてるわけじゃないだろうし、気にしない気にしない。それにしても痛い。


 お腹を拳で叩いて痛みを紛らわせていると、頭上から先ほどと同じ低い声が降りかかった。

「おい、お前」

 ちらっと顔を横に向ける。イメージ通りの強面の男性がすぐ横に立っていた。黒髪短髪で目つきが悪い。って、なんでそんな人がわたしに話しかけてくるんだろう。こっちはお腹痛いのに。しかもこの人、初対面の人に向かってお前って言ったよね。


 脳内で一人喋っていると、その男性はわたしの顔をのぞき込むように姿勢を低くした。

「おい、大丈夫か?」

 ほんの少し、本当にほんの少し心配の色を含んだ声に、わたしも少しだけ警戒を緩めてしまう。

「大丈夫、じゃ、ないです」


 痛みに耐えていたから汗も出てきた。もう最悪すぎる。せっかく大好きなブックカフェに来たのに。

「腹が痛いのか? 立てるか? 横になるか?」

 男性は変わらずの低い声でまくしたてる。

「よ、横になり、たいです」

 絞り出すようにわたしが言うと、男性はキョロキョロとあたりを見回す。そしてすぐにわたしを抱えた。


 ……お姫様抱っこされてるんですが。


 男性は机に置かれた文庫本と椅子にかけていたわたしのカバンを丁寧に持ち、ブックカフェを大股で出る。

 顔近いし、周りの視線もすごい。恥ずかしすぎる。恥ずかしさで痛みがなくなればいいものの、そんな甘くはない。わたしは男性の筋肉質な腕に包まれながら、痛みと恥ずかしさでどうにかなりそうだった。


 やがて駐車場に来ると、男性は車のドアを開け、助手席にわたしをおろす。シートを最大限倒し、「とりあえず水分とれ」と、未開封のペットボトルを渡してきた。わたしはありがたくそれをもらう。一口飲んだあと、うつ伏せになった。こっちの体勢のほうがお腹が圧迫されるから楽だ。


「何か必要なものあるか? 薬とか」

「薬と、な……」

「な?」

 男性に生理用品を頼むのはどうなんだ。

 ああ……もう知らない。どうせ初対面だし、もう会わないだろうし。

「……ナプキン」

「わかった。生理痛の薬で良いな?」

「はい」

 落ち着いた会話のラリーにこっちが戸惑う。


 男性はすぐにドラッグストアで薬とナプキンを買ってきてくれた。とりあえず体を起こして薬を飲む。彼は運転席に乗ると、何をするわけでもなくじっと隣に座っていた。十分くらい沈黙の時間が続くと、太腿の痛みがちょっと和らいできた。トイレに行くのは今しかない。


「あの、すみません。トイレ、行きたいです」

「歩けるのか?」

「はい、一人で行けます」

 そう返したものの男性は普通に付いてきた。わたしがトイレから出てきてもまだいた。

「とりあえず大丈夫そうだな」

「色々ありがとうございました!」

 わたしはあえて大きな声を出した。よし、これでさよならだ。薬とナプキンのお金を渡し、わたしは逃げるようにその場をあとにした。


 腕時計を見ると、まだ時間が空いてるし、痛みも落ち着いてきた。わたしは気を取り直して再びブックカフェに向かったのだが、男性がしれっと対面に座っている。

「あのー、もう痛みもないですし、大丈夫ですよ?」

「また痛くなるかもしれないだろ」

 それもそうかもしれないが、いつまでいるつもりなのか。はぁと小さくため息をつくと、男性の手元が目に入る。


「それ! このシリーズの新刊!」

 思わず前のめりになってしまった。それはわたしの大好きな作者さんの最新刊だったのだ。

「ああ、面白いよな、これ。癒される」

 この人の口から「癒される」なんて言葉が出るとは。わたしは思わず笑ってしまった。すると彼は不愉快そうな表情になる。


「なにか可笑しなこと言ったか?」

「いや、誰にとっても癒しは必要だなって。これ、すごく良いですよね。佳奈美かなみ……あ、わたしの友達は好みの作風じゃないらしいんですけど。わたしは先生の作品に出会ってから大ファンで。サイン会も行って、すっごく美人な女性で! もう憧れちゃって!」


 あ、いけないいけない。初対面の人にマシンガントークをしてしまった。これではまるで本の話をしているときの佳奈美だ。佳奈美は子どものころから本が大好きなので、本について語るときはとても早口になる。

 男性はわたしの様子に目を丸くしたあと、ふはっと声を出して笑った。

「すげー楽しそうに話すな」

 その笑顔のあまりの破壊力に、図らずもドキッとしてしまう。


 そのあと、わたしたちは思いのほか本の話で盛り上がった。彼はこんな見た目をしているが、名前が細美ほそみ優大ゆうだいらしい。顔からは想像できない名前だ。失礼極まりないけど。

「本好きなのが意外です」

「まあ、よく言われる」

 わたしはギャップに弱い。いや、全人類ギャップには弱いはずだ。

「他にもおすすめ教えてください、先輩!」

 すっかり気を許してしまったわたしは、閉店まで彼と話をした。


 ◇


「今考えてもさ、わりと強烈な出会いだよね」

「ほんとな」

 ソファに座る優大くんの両脚の間に、わたしはスッポリとはまった体勢でテレビゲームに向き合う。


 わたしたちは同棲二年目だ。とはいえ、わたしが優大くんの家に転がり込んでいるだけなのだが。

「あー、また負けた」

 悔しそうに優大くんはこぼすと、後ろから体重をかけてきた。重い。


「ほんっとゲーム下手だねぇ」

「不器用で悪かったな」

「あ、そういえば」とわたしは対抗するように体を後ろに倒す。

「このゲームの原作本が今度出るんだって」

「へぇ、買うのか?」

「んー、優大くんが買うなら買わない」

「なんだそれ。じゃあ、紗穂さほ益田ますださんの新刊買ったら読ませて」


 益田さん、はわたしの親友の益田佳奈美のことだ。ある小説賞で大賞をとってデビューした。高校時代もひっそりと執筆をしていたらしい。

「おっけー、でもさ、もうそろそろ本の置き場ないよ?」

 本棚を指さす。棚にはぎっしり本が詰まっていて、机の上にも本が積み重なっている。というか、もう雪崩がおきている。


「そのことだけど。新しい家、住まねえ?」

「え! いいねいいね! じゃあ来週のお休みに見に行こ」

 わたしが一人ではしゃぐと、彼は後ろからぎゅっと抱きしめ、「そうだな」と呟いた。


「……ねね、それよりさ、このあと何する? する?」

 ゲームもひと段落したし、このあとはまだまだ時間がある。わたしは優大くんを振り返り、そのままソファに押し倒した。

 彼は眉間にシワを寄せている。わたしが眉間をうりうりと押してみると、優大くんはわたしの手を取り、優しく指を絡めてきた。

「こんな真っ昼間からしねぇーよ、アホ」

 えー、なんでよ。今のはする流れじゃん。


 わたしはぺたりと優大くんにくっつく。こうすると心臓の音がよく聞こえる。わたしの心臓はドキドキ鳴っててうるさいのに、優大くんのはいつも通り落ち着いている。

 彼は反対の手でわたしの頭をなでた。

「だって優大くん、今日遅番じゃん」

 小さな声で不満を口にすると、彼は盛大なため息をついた。そして軽々とわたしを押し倒す。その勢いのまま唇を重ねた。と、思ったら優大くんはすぐにソファから立ってしまう。


 ちぇっ、これ以上はおあずけか。わたしも体を起こそうとすると、優大くんがわたしの体を急に持ち上げた。あのときと同じお姫様だっこだ。そのまま寝室へと連れていかれ、優大くんはわたしをベッドにそっとおろす。


「ぬへへ〜」

 嬉しくて変な笑い声が出ると、彼も表情を緩めた。

「紗穂」

「何?」

「その笑い方はキモい」

「なっ! ムードが台無しだよっ!」

 ツッコミをガン無視した優大くんは、わたしのブラウスのボタンを慣れた様子ではずした。

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