沖原⑦
「樋口」
廊下にいたそいつに、俺は声をかけて近づいた。代々木は思った通りクラスの教室に入っていって、それを見届けてからだ。
「やあ」
樋口はいつもの穏やかな笑顔で応えた。
今は別々のクラスだし、はっきり友人だと認め合うような関係ではないけれど、俺と樋口はそこそこ気の知れた間柄だ。樋口はかなり太った奴で、特徴として一番にはそれが挙げられるが、性格がすごく良く、こいつを嫌ってる人間なんて一人もいないんじゃないかと思う。
「なんか、お前、少しやせたんじゃねえ?」
俺は問うた。
「あれ、わかった? 確かに五キロはやせたけど、俺くらいだとその程度じゃほとんど気づかれてないみたいなのに」
「いや、俺も今声をかけてから、かもしれないと思ったレベルだけどさ。そんなにしょっちゅう顔を合わせるわけじゃないから気づけたのかもな。でも、なんでやせようと思ったんだ?」
「え? 別に……っていうか、ずっとやせようとしてたんだよ。太ってるのは健康に良くないからね」
「ふーん。じゃあ、やっとうまくいきそうってことか。何ダイエットなんだ?」
「何っていうのはなくて、やってることは普通だよ。運動するのと食事に気をつけるの」
「そんでうまくいくか? それなら前にだってやっただろうよ。他に何か秘策があるんじゃねえの?」
「ううん、本当にそれだけだよ。要はコツをつかめてきたんだ」
「コツ?」
「うん。運動するのと食事を控えめにすればやせるのは間違いないんで、言ってみればダイエットっていうのは、それを継続するために気持ちの部分をどうするかって問題なんだよね。『運動は疲れるから嫌』とか『食べる量を制限するのは苦痛だし、メニューをいちいち気にするのは面倒だ』って人が多いから、体にいい食べ物の一つをひたすら食べるみたいな簡単にできるダイエット法がたくさんあるわけだけど、効果が疑わしいそういったダイエットを探すよりも、どうすれば気分よく運動や控えめの食事ができるかを考えればいいんだよ」
「へー。で、具体的にどうすれば気分よくできるんだ?」
「いろいろあるんだけど、例えば運動は毎日何キロ走るといった計画はまったく立てず、そのときやりたいと思ったことをする。鬼ごっこみたいな遊びだろってものでも、運動になればOK。筋肉をつけたほうがやせやすい体になるらしいから筋トレはほぼ毎日やってるけど、それも気が進まないときはやらなくていいことにしてる。それから食事は、とにかく『我慢する』って意識だとつらくなって続かないから、なるべく健康にいい食べ物を選んで、なるべくたくさん食べないようにするという程度の心掛けでよくして、それでもストレスにならないように、何でもいいから食べること以外の気分が良くなることをやったり考えたりするのを多くやるようにしたんだ」
「ふーん」
「つまり、たいしたことはやってないから、俺みたいに太ってない人はすぐに効果は出ないかもしれないけど、継続できるぶん、少しずつでも確実にやせられると思うし、何よりもこのやり方のいいところは、ハードな運動だとか思いきり努力してやせた場合は、ゆくゆくまた太ったら、『あんな大変な思いはしたくない』ってダイエットをもう一度やる気になかなかなれないと思うけど、そんな心配はまったくないってとこなんだ」
「なるほどな。じゃあさ、さらにやせて誰が見てもわかるくらいまでなったら、今の説明や体重が減っていった経過を書いて、本にして売れば、儲かって一石二鳥じゃねえ?」
「ハハハハ。いいかもね」
「ところでさ、お前、代々木と仲いいの?」
「え? なんで?」
「いや、俺が話しかける前のあいつとのすれ違いざま、親しい相手にあいさつするような動作をしなかったか? 代々木に仲がいい奴なんていないだろうと思ってたのに、そんなふうに見えたから、軽く驚いてさ」
俺が違和感を覚えて樋口に訊きたかったのはそのことだ。やせた件じゃない。ついでに尋ねた感じにしたかったから、ダイエットの話を先にしたのだ。
樋口も一年生のときは俺と、ゆえに代々木とも、同じクラスだった。その間あいつと仲が良かった印象はない。違うクラスになったから、俺は樋口と接する機会は減った。通常は代々木もそうなるだろうに、いつのまにか二人の仲が良くなっている感じだった点が引っかかったのだ。
「え? そんなに親しく見えた? そりゃあ去年同じクラスでお互いに知っているから、会えばあいさつくらいはするけど、仲がいいってほどじゃないよ。一緒に遊んだりもしないし」
「そっか。やっぱあいつとはその程度の関係だよな。じゃ、ダイエット頑張れよ」
「あ、うん」
俺は軽く手を振って樋口と別れた。
何だ。あのすれ違ったときの様子だと、けっこうな仲の良さで、代々木に関して俺たちが知らないことを何かしら聞けるかもと思ったのにな。愛想が元々いい樋口と愛想が以前と比べたら格段に良くなった代々木という組み合わせによって、そう見えたのか。
あー、気を張って後をつけて、結局成果なしか。精神的な疲れがどっと来たな。
代々木への捜査は、俺の気持ち的には、しばらく中断か、もう終了だな。
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