アルカイックとデッドメディア

niko

第1話

 「施設」の中で、彼女ほど浮いた人間はいなかった。というのも、そこではそもそも浮くということはなかった。ぼくたちがメモを取るのに最早タブレット端末さえ必要としていない、というかメモを取る必要性すらない中、彼女は紙と鉛筆を使っていた。だけど、そんな彼女のことを彼らは気にしなかった。調和を乱すから気にしない、とかではなくて、本当に気にならないのだ。だから彼女が浮いている、というのはぼくの頭の中にしかない事実だった。彼らは他の誰かにするみたいに彼女に話しかけるし、そこに躊躇いや態度の差は無かった。彼女は独自の価値を保ちながらも、彼らとのコミュニケーションに遅れを取らないばかりか、寧ろ彼女は教室の中で頼れる存在としての地位を確立していた。ぼくは彼女とも彼らとも違った。調和を保つことにいつも気を使っていたし、成績は良くても中の下といった感じだった。


 そんなぼくが彼女と接触できるのは、教室の外だった。あるとき彼女はあの時フリースペースの端の方で、床に座ってスケッチブックになにやら鉛筆を走らせていた。しばらくその姿を眺めたあと、ぼくは彼女の作り出す調和を乱すことを承知しながらも話しかけた。

「何を、描いているの」

彼女はぼくが話しかけるのを待っていたかのように、早すぎもせず遅すぎもしない、適当な間隔を開けて顔を上げた。

「あなただよ」

思いもよらない言葉に、ぼくは数秒間考えた。

 「anata-dayo」

網膜ディスプレイにぼくの思考に反応して、「anata」に関連する単語とその意味が流れていった。「あなた」「貴方」「彼方」「Anatahan」「Anatase」...

彼女はそんなぼくの反応を楽しんでいるみたいだった。

「知らない言葉があったら、」

彼女はまた口を開いた。女性にしては低くて、それでいて小鳥の囀りのようなニュアンスが彼女の声質にあった。

「辞書を使えばいいんだよ」

 「zisyo」

辞書ならここに、と考えるのとほぼ同時に、彼女はどこからか取り出した分厚い本をぼくに差し出した。思わず受け取ってしまう。紙の手触りとズッシリとした重みでぼくはクラクラする。

「ここ、座りなよ」

 ぼくは促されるままに座った。彼女は「貸して」と言うと、ぼくに差し出したばかりの「辞書」を取り上げて膝に乗せると、狙いを定めるようにして本を開いた。ぼくはそれを見て、それがなんだか官能的な行為に思えてしまった。情報はいつでもオープンでぼくたちはそれにアクセスできるのに、なぜ彼女は閉じられた本の中からわざわざ単語一つを引こうとするのだろうか。不効率で理解できないと感じる一方で、ぼくの中にはその面倒な行為がひどく魅力的だと訴え蠢く何かがいた。

「あったよ」


「あなた-」


そのときぼくの体が短く震えた。気付けば僕は本にのめり込むあまり、本と彼女の顔の間に体をねじ込むような体勢になっていた。これは著しく調和を乱してしまう。

「ご、ごめん。反射的にこうなってしまって」

「あなたなら、」

わざとらしく彼女は言葉を選ぶ。

「嫌じゃないよ」

ぼくには何と返せばいいか、相応しい言葉が浮かんでこない。

「…………」

彼女は曖昧に微笑んでいる。

「モナ・リザみたいだ」

「……私?」

「うん。なんか、変なこと言ってごめん」

 そう言うと、彼女はモナ・リザよりもはっきりと笑みを浮かべた。

「ううん。変なことなんて最近ほとんどなかったから退屈してたところだよ」

それに、と彼女は続ける。

「私はそんな表情ができてたらいいなって思ってたの」

「モナ・リザみたいな?」

「そう、アルカイックスマイルって言うんだけどね、」

 彼女は不自然にそこで言葉を止めた。ぼくは数秒固まった後、彼女の膝から辞書を取る。彼女はよくできました、とでも言うように目を細めた。ぼくは網膜ディスプレイを切る。そうしなければならないと思った。この辞書には、恐らくある法則に従って単語が並んでいる。頁の手前側にはひらがなが振ってある。パラパラとめくるとそれは「あ」「い」「う」「え」……と50音順に並んでいる。推測するに単語が50音順に並んでいる。自分で探し当てるように作られた本なら、確かにそれは合理的に思える。ぼくは「あなた」(二人称の人代名詞。同等以下の相手を相手を指し示す語。軽い敬語として、同等以下の相手に使うほか、妻が夫を親しんで言う場合や……)の載っている頁からパラパラと捲る。1頁ずつ捲るとどうも遅いので一気に捲ると「い」の章になってしまった。ぼくは慌てて逆に捲る……

「急がなくていいんだよ。君が目的としていない言葉も、そこに書かれているものは全て平等に読まれる価値があるから」

ぼくはその声に安心する。過度に目先の効率を求めない、大らかさみたいな、赦しのようなものを感じる。

 パラパラとページを捲るうちに、ぼくはお目当ての言葉に辿り着く。なんとなくそうする義務があるような気がして、ぼくは彼女にその意味を読み聞かせた。

「  」

彼女は、また目を細めてぼくを見た。それは笑みと呼べるものなのか、ぼくには開くべき辞書の頁は見当たりそうになかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アルカイックとデッドメディア niko @xeynototu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ