温泉 13

 少々の肌寒さを感じる。

 部屋に差し込んできた日差しで、自然と目が覚めた。

 そんな気持ちのいい朝。

 外を見ると快晴。

 実にいい天気だ。

 雪がその光を反射しているのだろう。

 どこを見ても眩しい。

 目の奥がキューっとなるような感覚を覚える。


 窓の外に向かって軽く息を吐く。

 一瞬で熱が奪われ、白くなった水蒸気が見える。

 キラキラと光る景色にそれが重なる。

 だから何って事は無いんだが。

 なんとなくやってみたい気分だった。


 ……朝風呂にでも行くか。

 この時間ならまだ掃除前のはずだし。

 温泉宿の醍醐味だろう。

 これ入らないのは損でしかない。


 ゆったりとした部屋着のまま。

 部屋を出る。

 寝惚け眼を擦りながら、廊下の壁に多少体重を預けつつ。

 どこかおぼつかない様な足取りで向かう。

 まだ半分寝ているような形。

 別に、きちんと起きようと思えば起きられるのだけど。

 この寝惚けた状態で入るのがいいのだ。

 歩き方も、これが自然で楽だという感覚はある。

 ただ、同時にしっかり歩くとその分身体が起きてしまう気がして。

 だからわざとこうしてるのもある。

 分かるかな?

 まぁ、俺独特の感覚かもしれない。


 脱衣所で服を適当に脱ぎ。

 ぐちゃっと。

 下から2番目のかごに放り込む。


 服を脱いで気がついたが、息子が謎に元気いっぱいだ。

 ま、起きたばっかりだしね。

 生理現象ってやつだ。

 一度しまった服を取り出し、軽くたたみ直す。

 丁寧にやるわけではないのだが、ゆっくりと。

 無駄に時間を掛ける。

 別に興奮してるわけでもない。

 空元気は長続きしないのが定説。

 人も息子も。

 それに、俺としては下を向いてくれさえすればいいのだ。

 別にちょっとぐらい硬くても構わない。


 多少は大人しくなったし、もういいだろう。

 我慢出来ずに浴室の扉に手を掛ける。

 乾燥した空気と肌寒さから、この湯煙とむあっとした熱気。

 かなりのギャップだ。

 身体がすでに喜ぶ準備をしてるのを感じる。

 浴槽から湯を桶ですくう。

 不意に手が触れた。

 それだけで、全身に歓喜が伝播する。

 電流とかそういう表現ではないが。

 温風が近いかもしれない。

 リアルではそう気持ちのいい物ではないけれど。

 イメージで言えばそんなところだ。


 そして、湯をかぶる。

 半覚醒だった身体が一斉に目覚める。

 軽い身震い。

 視界が一気に開けるような感覚。

 突然の刺激に飛び起きたような形だ。

 騙し騙しここまで来て良かった。

 これがいいのだ。


 湯船に入ろうとして、ふと気がついた。

 他に先客がいたらしい。

 おっちゃんかと思ったが違う。

 もっと華奢。

 シルエットが明らかに細いし。

 どちらかといえば、より女性的な感じの……


 って、女将?

 珍しい。


 俺が気づいた事に気が付いたのだろう。

 軽く頭を下げるような動作。

 柔らかい。

 こういうのを雅だとでも言うのだろうか?

 絵になる人だ。

 一瞬、その所作に見惚れてしまっていた。

 慌てて会釈を返す。


 仕事の方はひと段落ついたのだろう。

 途中で休憩とかいってサボるタイプじゃないし。

 プライベート中である。

 それでここの温泉に入るというのも。

 この宿が好きなんだなと。

 客としてはいいよね。

 それだけ、ここに自信があるって事だ。


 はぁ〜、あったけぇ。

 肩まで浸かる。

 そのまま全身を湯に任せて、体を水面に浮かべてしまいたい所だが。

 流石にね。

 人がいる場所で。

 それも、女性がいる場でそれをするほど阿呆ではない。


 さて、この後の事だ。

 どうしようかな。

 いや、街を散策する予定ではあるのだが。

 辺りを見回す。

 湯船にいるのは女将だけ。

 おっちゃんの姿はない。


 昨日、何をしようと色々話して盛り上がりはしたのだ。

 ただ、時間とか細かい事は決めていなかった。

 よくあるやつだ。

 やりたい事だけ話して予定は何も決まらないパターン。

 部屋に戻ってから思い至った訳だが。

 まぁ、同じ宿に泊まってるしね。

 いつでも会えるでしょと。

 それに、あのおっちゃんなら朝風呂に来る物だと勝手に思い込んでいたから。

 そこで続きを話そうかなって。

 結果としては、全然普通に居なかったんだけど。


 旅好きが朝風呂を逃すとは考えにくい。

 自称ではあるが。

 でも、ただの観光地好きではなく港町とかにも行く人だし。

 この後来るならいいんだけど。

 ちょっと心配。

 もしかして、体調崩したりとか?

 まさか、ね。

 昨日は元気そうだったし、心当たりなんて


 ……


 女将の方へ、そっと視線を向ける。

 柔らかな笑みを返された。

 風呂場で人を見つめるような事はマナー違反。

 気持ちのいい事では無い。

 特に混浴状態なのだから尚さら。

 それに怒るでもなく、笑みを返すだけ。

 やはり、いい人だ。

 でも、何故だろう。

 変な汗をかいてきた様な。


 いや、温泉に入ってるからね。

 何もおかしな事ではない。

 汗をかくなんて実に自然な話。

 むしろかかない方が不自然。


 ……あ、そういえば。

 俺、おっちゃんと話し込んでたから。

 しかも、かなり長々と。

 そのせいで結構長風呂になっちゃってたし。

 あれで湯冷めしたんだろ。

 多分。

 うん、そうに違いない。

 これで解決、っと。


 にしても、温泉入りに来て長風呂で湯冷めして体調崩すとか。

 おっちゃんも結構ドジな所あるんだな。

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