15:花の香りのその人は〜怪異調査対策室清掃係業務レポート〜

 その人は、他の人とは違う匂いがした。

 鮮やかな花の香りのような生の匂いと腐臭のような死の臭いが。


「……おかあさん、ここなんかくさいね?」


那子なこ……またなの? 何も臭わないじゃない。相変わらず気持ち悪い子ね」


「ねぇ、あの子ってびょうきかな?」


「ねぇねぇ……。ナコちゃんが言ってた子、びょうきでしんじゃったんでしょう?」


「うん……なんで知ってたんだろうね。ナコちゃん。まるであの子がしぬの知ってたみたい……」


「……気もちわるいね…」 「ね」 「キモチわるい……」 「キモチワル……」


「いらっしゃいませ」


 今日も店中にコーヒーの香りが広がるこのお店は、駅に近い事もあって訪れるお客様は多い。


「おねーさん、いつもの!」


「はい! アイスラテの氷少なめミルク多めですね!」


「それそれー」


「順番にお作りしていますので、横にお進みになってお待ちください。次のお客様、お待たせいたしました」


 常連のおじさまの後ろに並んでいたお客様に目を向けた瞬間、ぴくりと指先が跳ねた。


 その人からは、と死のにおいがした。


 幼い頃から、わたしの鼻は異質な臭いを嗅ぎ取っていた。

 それは言うなれば死の臭い。腐臭にも似たそれがするのは決まって死期が近い人からだった。

 早くて数時間後、遅くても一週間以内にはその臭いがする人は命を落としていった。


 この臭いがなんだかわからなかった幼い頃のわたしは、このことを不用意に周囲に話しては、段々と気味悪がられ、疎まれていった。

 大人になった今では、その事は誰にも告げないようにして、鼻腔をリセットすると言われているコーヒーの香り漂うこの店で働きながら、静かに目立たぬように暮らしていた。


 動揺を抑え、再びカウンター越しに立つそのお客様を見る。


 今日は夏を思わせる蒸し暑い日で、黒のシャツに黒の細身のパンツを穿いた彼は明らかに暑苦しいのに、何故かその人の纏う空気は涼し気で。

 そして摘み立ての花のような匂いと、むせ返るほどの死の臭い。


 相反するソレを纏いながら、静かに彼は立っていた。


「……オーダー、いいですか?」


「っ! は、はいっ!! お待たせいたしました!」


 完全に意識をとられていたわたしに、少しだけ訝し気に首を傾げた彼が注文したアイスコーヒーを慌てて用意する。


「ご、ごゆっくりお過ごしください!」


 そう告げて、しまった! と思っても後の祭りで。

 持ち帰り用のプラカップにストローを刺した状態で、確かにわたしが手渡したアイスコーヒーを片手に持った彼が、少しだけ微笑んで去って行った。


 僅かな死臭と、鮮やかな花の香りを残しながら。


 そんな出来事から、早半月。

 あの日の相反する香りを纏った彼の事などすっかり忘れていた頃、仕事を終えうつむきがちに家路を急いでいたその時、鼻に忍び込んできたのはあの匂いだった。


 ふと視線を上げれば、あの時の彼が向こうから歩いてくる。

 今日も全身真っ黒コーデだが、相変わらず纏う空気は清涼で。だけど……。


「……なんで生きてるの?」


 迂闊なその言葉は、思いがけずよく響いてしまい、彼の耳にも届いたようだ。


 何故なら、わたしの言葉ににんまりと嗤った彼が、わたしの腕を掴んでビルとビルの間の暗がりに連れ込んだからだ。


 傍から見ればいわゆる壁ドン状態で、見上げた先にあった彼の顔の顔面偏差値を鑑みれば、もしかしたらご褒美になり得たかもしれない。

 ……彼の浮かべる表情が、それをありありと裏切っていたが。


「ねぇ、君さ。この先のカフェの店員さんだよね?

 で? なんで俺が生きてる事がそんなに不思議な訳? 君暗殺者か何かなの?」


 怒涛のように告げられて、返事をする隙間もない。

 いや、とか、あのとかしか答えられないまどろっこしい時間だけが過ぎていき……。


「……なぁ? 聞いてんの? ……ちゃんと答えろよ」


 ぐっと顎を掴まれて彼としっかり目が合う。

 壁ドン状態の時から感じていた花の香りが一層濃くなり、酔いそうになったけど、それを上回る勢いで死の臭いが奥へと続く暗がりから強く漂ってきた。


「おい。よそ見すんなって」


「ひぅっ!」


 思わず臭いの元に視線を向けようとして強く顎を掴まれた。だけど、痛みに歪む視界の端に映ったソレに、思わず悲鳴を上げてしまう。


 ソレは暗がりからのそりと現れた。真っ暗な暗闇から姿を現した……異形。


 ずるずると長い手足を引き摺って、恐らく顔であろう部分に一層の闇を纏いながら、ソレはそこに在った。


「ひっ!」


 より強くなる腐臭と、目にしているソレが怖くて、全身が震え出す。


「……お前……見えてんのか?」


 いきなり震え始めたわたしを訝しむ言葉ではなく、ソレが在る事を認めた上での言葉に驚いて、彼の顔を呆けたように見つめてしまう。


「……へぇ」


 彼の手が顎から離れた。


「……あ」


 さっきまで見えていたナニカが姿を消す。が、残された腐臭がまだ危機が去っていない事を告げていた。


「ん? 見えなくなったのか? ……あぁ、こうか?」


「ひっ!?」


 男の手がわたしに触れた瞬間、先程の異形が再び現れる。むしろさっきより近づいてきている。

 ソレが近づくほどに強くなる腐臭が恐怖を煽る。


「に、逃げないと……」


 わたしの手を握っていた男の手を、逆に縋るように握って、ここから一刻も早く立ち去る事を願う。

 縋りついた男の身体からは、やはり花の匂いがした。


「まぁ、待てって。せっかくだからコレも見せてやるよ」


 焦りを一片も感じさせない、余裕綽々を体現したような男の言動と共に、彼の指には何かが書かれた白い紙が挟まれていた。

 ふわりと放たれたそれが人型を結び、そこには巫女のような衣装を身に着けた幼女と言っても差し支えない年頃の女の子が一人。


 ふわりと現れた幼女が手にしているのは見た目を裏切る大鎌で、一条の光のようにそれが煌めくと、躊躇なくソレを切り裂き、悲鳴もなくソレが消えていく。


 その光景を目にした途端、かっくりと腰が抜けて、彼の身体に縋りつくよう身を預けてしまった。


「なんじゃあおい。其方が女連れとは珍しいのぉ……ほぉ、なかなか面妖な力を持った女子おなごじゃの」


 すいっと音もなく近づいてきた幼女に、下から顔を覗き込まれた。


「ななな……」


「ふむ。なかなか良い拾い物をしたようじゃの」


「だろう?」


「よいよい。なるほどなるほど。穢れを鼻で感じる能力か。葵が触れていれば視認も可能と……うむ。よきよき」


 じぃとわたしを見透かすように見ていた幼女の言葉に驚く。実際彼女は見透かしていた。誰も信じなかった、この異常な嗅覚を。


「という訳で、ちょっと俺と一緒に来てくれるか?」


 拒否は許さねぇと言わんばかりの表情で告げられるそれに、もはやわたしの精神は限界で。

 彼の放つ花の香りに包まれながら、ふつりと気を失った事を誰にも責められないと思う。


 ……その結果。

 男の部屋に連れ込まれるわ、幽霊やら異形やらその存在自体俄に信じがたい存在を退治するアシスタントとして駆り出されるわと、わたしの人生は随分と波乱万丈になるのだった。


「いやぁぁぁ! 臭いぃぃぃ!! ここ臭いぃぃ!! 絶対ヤバいのいるぅぅ!!」


那子なこ! 元凶がまだ見つかってねぇぞ! ほら!手ぇ繋いでやっから!」


「うぅ……っていやぁぁぁ! 左斜め前方から貞〇みたいのが出てくるぅ!!! もうやだぁ!!」


「よくやった! すすぎ、祓えっ!!」


「うむ、今日も絶好調じゃのぉ」


「もういやぁぁぁ!! おウチ帰るぅ!!」

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