あいつのいない幸せ

 その日は雨が降っていた。土砂降りの日で、どこかの川が氾濫するほどの強さだったと思う。そんな日に俺は、あいつと生きる未来を捨てることを決断した。

 あいつはいいトコのお嬢様だった。身分違いの恋というやつで、誰にも祝福されない関係だった。それでも、俺達は時間の許す限り逢瀬を続けた。幼かった俺達は、お互いが全てだと思っていた。そんなはずないということは、とっくのとうに分かっていた。それでも、見ないふりをしてお互いだけを求め続けた。ロミオとジュリエット効果にまんまと酔い、二人で叶いもしない愛を育んだ。

 だが、そんな日にも終わりは訪れる。ついにあいつに婚約者が決まったのは、よく晴れた日のことだった。

 いつもの待ち合わせ場所に行ったらあいつは居なくて、その代わりにあいつの家の執事が待っていた。そして、「もう二度とお嬢様に会わないこと。お嬢様には婚約者が出来たのです」と告げて帰っていった。俺は失意に突き落とされた。いっそのこと、あいつを攫って駆け落ちしてしまうとも考えた。だが、駆け落ちした先で訪れる運命を考えるのであればそれは得策とは言えなかった。今が良ければ全て良いのか。未来のことを考えるのであれば、一番取ってはいけない選択肢だった。

 次の逢瀬の日も、同じようにあの場所へ行った。いつもとは違う道を通って来たのか、泥だらけのあいつが大きなカバンを持って立っていた。あいつが発しようとした言葉が何か、俺には分かった。それだけは、俺が絶対にしたくない選択肢だった。あいつが何か言う前に口をふさいだ。最後のキスだ。

「さようなら、だ。悪かった。君に地獄を生きて欲しいわけじゃなかったんだ」

「地獄じゃないわ。あなたがいるなら」

 その言葉には何も返さずにその場を後にした。話し合っても平行線になるであろう話し合いには価値が見い出せなかったし、あいつのその言葉に俺が絆されてしまいそうだったから。

 後ろから、震えた声で「……なんで」と言って泣き崩れるあいつの姿が鮮明に伝わってきた。だが、それでも駄目だと自分に言い聞かせた。だって、相手のいない幸せと相手のいる地獄なら喜んで地獄を選ぶなんて、それはエゴでしかない。結局自分ために、二人とも地獄に落ちることを選ぶのだから。俺は、相手の幸せを想うなら、身を引くべきだと思う。

 だから俺は、あいつのいない幸せとあいつのいる地獄なら、あいつの居ない世界を望む。あいつに地獄を生きてくれなんて、俺には到底言えないから。

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