2
俺はずいぶんと眠っていた。
「今どのあたりだ?」
ずっしりと重い頭で聞いた。
「はい。ちょうどアステロイドベルトのいつもの仕事場を過ぎたところです」
相棒の中性的な声が聞こえてきた。
これまでなら薬が切れるより前に目が覚めていたというのに、どうしたことだろうか。そんなにも体がだめになっているのか。
俺の人生を過ごした場所を冥土の土産に見ておこうと思っていたが、まあ仕方がない。
「あの場所には何か変わったことはあったか?」
「いいえ。いつも通りでした」
「そうか。お前とは長い間あそこで過ごしたな」
「はい。もう故郷のようなものです」
「故郷か…。まあ、そうかもしれねぇな。で、今は故郷を抜け出してどれくらい経った?」
「はい。1時間ほど経ちました」
「それじゃ、そろそろ火星が見えてくる頃か」
「はい。今日は少し離れていますが、2時の方向に見えます。拡大しますか?」
「いや、いまさら見なくてもいい。もう十分だ」
「わかりました」
「なんだか今日はずいぶん眠い。それに頭も痛い。もうひと眠りするから、あとで適当に起こしてくれ」
「はい、わかりました。おやすみなさい」
『エマ、ここへ来るのはまだ早いわ。あなたはまだ十分生きられる。どうしてそんなに死に急ごうとするの? ねえ、エマ、エマ…』
「…エマ、そろそろ起きてください」
俺を呼ぶ声で目が覚めた。
「左前方、11時の方角に地球が見えてきました。拡大します」
「あ? ああ…これが地球か……」
「はい。ここにもかつてわれわれの遠い祖先に当たる知的生命体が住んでいた痕跡がありますが、今となってはただの岩石の惑星です。火星とほとんど同じようなものです」
「なんだか子どもの頃の歴史の授業を思い出すな。われわれの祖先は別の惑星で生まれたってな。こんなに太陽に近いところに生物が住んでいたとはとうてい思えないがな」
「現在とは環境も大きく異なっていたと考えられています。われわれの住む地上に近い環境だったとか」
「ふーん、こんな惑星がね…」
黄色っぽい灰色の球体。俺はその惑星を見ても何の感傷も湧いてこなかった。
何十年と見慣れたアステロイドベルトの小惑星を眺めている方が、よっぽど変化に富んでいて面白い。
小惑星帯にはいつの時代のものかわからない宇宙船も漂っていた。
どれだけ太陽の周りを回り続けているのか。
そこにいることを望んだのか、あるいは事故でとどまらざるを得なかったのか。
考えても仕方ないことだが、俺はいつもその朽ちた宇宙船たちがとても誇り高いもののように感じていた。
「少し寄り道をすれば地球に接近できます。どうしますか?」
「とくに興味もない。遠目に眺めるだけでいい」
「わかりました。それでは現在の針路のまま航行を続けます」
「まだ他にも惑星はあるんだったか?」
「はい。ふたつあります。その惑星の近くへ寄っていきますか?」
「いや、いい。もう十分だ」
「わかりました。では最短ルートで太陽へ向かいます」
俺はそれからまた眠りについた。
ほとんど憶えていないが、なんだか夢を見ていたように思う。
「暑い……」
「エマ、目覚めましたか? およそ3時間ほどで、太陽の重力から脱出できなくなります。あとは太陽に引き寄せられるままです。やっと来ましたね」
「ああ、もうすぐだな」
俺は目の前に迫りつつある太陽のぬくもりを感じた。
「さて、と。じゃあそろそろ始めるか。おい、お前の航行制御を完全手動モードにしてもらえないか。最後は自分の手で飛びたい」
「わかりました。ただ、安全のためすべてを手動にすることはできません」
「安全のためだって? それでお前はどうやって太陽に突っ込むつもりなんだ?」
「………おっしゃる通り、セーフティーモードもすべて解除してあります。手動モードに移行します」
「ありがとよ。あとはこのコース通り進むだけだな」
「はい」
「それじゃ、軌道は固定しておいて…。ちょっとプログラムをいじらせてもらうぞ」
俺は頭の中で組み立てておいたプログラムを出力し、既存のものと一部入れ替えた。
「エマ、何をしているのですか?」
「何って、聞かなくてもわかってるんだろ。お前の航行プログラムを書き換えている」
「軌道を変える必要はありません。なぜいまさらそんなことをするのですか?」
「気が変わった。お前は俺に付き合う必要はない。太陽に行くのは俺ひとりで十分だ」
「待ってください。何を言っているのでしょうか」
「ここまでよく連れてきてくれた。地上に戻ってスクラップにされるか、あいつに使ってもらうか、それが嫌なら、どこでも好きな場所へ飛んでいけばいい。太陽以外の、な」
俺はプログラムを完了させ航行制御システムを再起動させた。
「このプログラムは…。これではわたしは一緒に行けない。ああ、ダメです、プログラムを元に戻せません。いったい何をしたのですか」
「パスワードをなくしたからな。もう誰にも直すことなんてできやしない」
「なぜ最後まで一緒にいさせてくれないのですか?」
「だから、気が変わったんだ。そういうことだ。じゃあな」
俺は緊急脱出ボタンを作動させた。
ハッチの前面が大きく開き、緊急脱出カプセルに包まれた俺の体は太陽に向かって勢いよく射出された。
背中に強いGを感じ、体中に痛みが走った。
背骨のひとつやふたつ折れているかもしれない。
体は脱力し、ただ動かすのすら億劫になってきた。腕は…まだ動く、大丈夫だ。
「悪いな…。これは宇宙船乗りとしての俺の
巨大な太陽が目の前にある。
ほとんど止まって見えた星の動きが早くなってきたように感じる。
太陽の熱で緊急脱出カプセルの中の空気が揺らめいた。
目の前の空間に、たくさんの宇宙船乗りの姿が現れては消え、俺に向かって手招きをしている。
その中には知っている顔もあったが、あいつは確か事故で死んだはずだったのではないかと、ぼんやりとした頭で考えていた。
「やっと来たな。一杯やっていくか?」
あの頃と同じ陽気な声で、そう言っているようだった。
とうとう俺の頭もどうかしてきたんだろうか。
そう思ったとき、太陽の前面に黒い薄雲のようなものがあるのに気がついた。
しだいにそれが人工物の様相を呈してきたかと思うと、それらは宇宙船の残骸で、そこらじゅうに散らばっていた。
小惑星帯のように瓦礫が集まり、よく見ると人型の
ここはまるで宇宙船乗りとその船の墓場のようだった。
俺はその瓦礫の間をすり抜けるように高速で飛んでいく。
脱出カプセルをかすめるように何かが通り過ぎていった。
あんなのにぶつかったら、ひとたまりもない。
どうにか当たらないことを運に任せるしかない。
「あっはっはっはっ!」
急に
これから死にに行こうというやつが、なぜ生きることを考えているのか。
いっそのこと、この墓場でもいいじゃないか。目の前にずっと太陽を眺めていられる。いい景色じゃないか。
なるようになれ。
そう心を決めると、あとはもうどうでもよくなった。
細かい破片がいくつか当たったが、どれも大きな障害にはならなかった。
しだいに瓦礫はまばらになり、目の前は漆黒の闇に浮かぶ太陽だけになった。
『かわいそうに…』
頭の中に声が響いた。
「誰だ…?」
俺は相棒が戻ってきたのかと思いあたりを見回した。けれど何もない。
その時、ふと思い出した。
かつて一度だけ宇宙船の事故に遭遇したことがある。
その観光宇宙船は小惑星を見に来たらしいが、エンジントラブルで制御が効かなくなり、小惑星のひとつに突っ込んでしまった。
非常信号を受信して、たまたま近くにいた俺は相棒を飛ばして向かったが、その光景はひどいなんていう言葉で表せるものじゃなかった。
宇宙船は原形をとどめないほどに壊れ、そしてたくさんの人と思われるものが宇宙空間に漂っていた。人もまた形をとどめず、俺は宇宙という死の世界の現実を突きつけられた。
そこにひとりの女がいた。
彼女は
『かわいそうに…』
俺はその声を聞いた。
彼女の声だと思った。
しかしその穏やかな彼女の顔からは、すでに生気が失われていた。
『かわいそうに…』
そしてもう一度、彼女のものではないその声を聞いたのだった。
寒い。こんなに太陽に近いのに、なぜこんなにも寒いんだ。
さっきの暑さはなんだったんだ。
ああ、俺はこのまま死んでいくんだろうな。
もはやものを考えることもできなくなってきた。
『かわいそうに…』
また聞こえた。
『けれど、ここまで来てしまったら仕方ないわね』
俺はその声を聞き逃さないように、ゆっくりと目を閉じた。
『エマ、わたしはみんな覚えている。あなたのことも、彼女のことも、みんなのことも、そして、生きものすべてのことも』
その声は、俺の体を両手でやさしく包み込むようだった。
『お帰りなさい。もう安心していいのよ。痛くもないし、怖くもない。みんなこうやってわたしの元に戻ってきているわ。それにほら、聞こえるでしょ、これから産まれるみんなの声が…』
やっと還ってきた。
これで俺も太陽とひとつになれると思った。
死と生を孕んだ、母なる太陽と。
星に還る-ある宇宙船乗りの最期の記憶- 蓮見庸 @hasumiyoh
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