第34話
メアリは初めて入った教会の住居部分──
冷えた手に、温もりが染み入る。
カップに口をつけながら、メアリはさりげなく向かいを盗み見た。
年季の入った車椅子に体を預けた神父が、セドリックの話を聞いて柔和な顔に苦笑いを浮かべている。
ブランケットに浮かぶ足のシルエットから察するに、彼はもう歩くことができないのだろう。
枯れ木のような太ももの上に載せた聖書が、やけに重そうに見えた。
「神父様、私は着替えてきます」
「ああ、行っておいで」
セドリックの神父に対する態度がかたく見えるのは、彼らが上司部下の関係だからだろうか。
引っ掛かりを覚えて、メアリは首をかしげた。
「メアリ、少し待っていてくださいね」
「ええ、わかりました」
すぐに戻ると言って、セドリックは部屋を出ていった。
パタンと音を立てて扉が閉まると、神父は落ち着かない様子で廊下の様子を探るように顔を巡らせた。
(うーん……神父様って、こんな方だったかしら?)
何かがおかしい。妙に元気というか、生命力にあふれているというか。
メアリの知る神父はいつだって眠そうで、こんなにシャキッとしているところは見たことがなかった。
(たまたまお元気な日なのかしら?)
手が十分に温もったところで、持っていたカップをテーブルへ置く。
その瞬間、神父は待っていましたとばかりに居住まいを正してメアリと視線を合わせた。
「さて、ベケットのお嬢さん。あなたとセドリックぼう……いや、セドリックは一体どんな関係なのかね?」
まるで人が変わったかのように、神父の目が鋭くなる。
頭のてっぺんから足の先までくまなく探られるような
コンラートとの婚約話が持ち上がった時、メアリの父がそんな目をしていたのだ。
おそらく父は、娘の結婚相手になる男を精査していたのだろう。
残念ながらその目は節穴だったようだが、神父の目にメアリはどのように見えているのか。
(好意はありますよ。だって、初めて私を認めてくれた人なのですから)
個を認め、尊重する。
男性同士ならば当たり前のことかもしれないが、女性相手となるとなかなか難しい。
外で働く女性が増えたことで、一般女性の地位は向上してきているようだが、貴族令嬢はそうもいかないのが現実だ。
大人の余裕ゆえなのか、それとも彼の本質なのか、わかるほどメアリは彼のことを知らない。
けれど、少なくとも今の彼と出会えたことは、自分の人生を左右する大きなターニングポイントだったのだろうとメアリは思う。
「ふふ。まさか神父様からそんな質問をされるなんて、思ってもみませんでしたわ」
「なぜ?」
「だって、私がアールグレーン様に恋愛感情を抱いていると思っていらっしゃるのでしょう?」
大丈夫ですよ、とメアリはおかしそうに笑いながら言った。
「神父様だからお話ししますが……ベケット家は没落の
メアリは、母の死をきっかけにガラリと家の中が変わっていったことを話した。
淡々と事実を語りながらも彼女は淡く笑んでいて、そこに両親への恨みは感じられない。
「神父様。私は、恋をしたくないのです」
過ぎた日々を思い出すように遠くを見る目は、父のようにはなりたくないと怯えているようだった。
「だから、大丈夫だと?」
「今までもそうでした。だからこれからも、そうでしょう……」
メアリの気持ちは、街中の少女が持っているような類のものではない。
と、彼女は信じている。
彼女にとって、恋や愛という感情は身を滅ぼすものなのだ。
ベケット家を没落に追い込んでいるのが、父の母への愛だから。
「神父様が危惧するようなことは、何もありません。私と彼は、機械を愛する仲間。友人なのです」
神父は毒気を抜かれたようにポカンとした。
だが、それも一瞬のこと。
すぐさま彼は、車椅子の手すりにしがみついて前のめりになりながら、メアリを問い詰めた。
「恋人になりたいとか、結婚したいとは思わないのかね?」
メアリは、神父が大変な苦労をしてきたのだなと察した。
きっと、セドリックに言い寄ってくる女性に何度となく困らされてきたのだろう。
人と接することが仕事である、神父さえも困らせる恋する乙女たち。
メアリは神父を気の毒に思いながら、やはり恋なんてするものではないと思った。
するものではなく、落ちてしまうものなのよ。
以前、シェンファが言っていた言葉が思い起こされる。
だがメアリは「それじゃあ困るのよ」と耳をふさいだ。
「ええ、友人です。だって、私は貴族の娘。結婚相手を自由に決められるような立場ではありませんから」
あっけらかんと答えられて、神父の眉間に皺が寄る。
きっと、神父にはこう聞こえたのだろう。
セドリックはメアリの伴侶にふさわしくない、と。
案の定神父は、
「セドリックはベケット家にふさわしくないと?」
と言ってきた。
静かな怒気を感じる厳しい声に、メアリは「いいえ」と首を横に振る。
「ふさわしいかどうかは関係ありません。ベケット家は、没落しかけている。私は、家の困窮を救ってくれる方なら、誰とでも結婚するつもりなのです」
「セドリックにはそれだけの資産がある」
「……」
神父が心配することは何もない。
そう言っているのに、疑いは晴れないようだ。
メアリの化けの皮を剥がそうとしているのか、さらなる好条件をちらつかせてくる。
しかし、打算的な愛のない結婚を望むメアリに、効果はない。
「少しも……その気はないと?」
「……おかしな神父様。まるで、どうしても私が彼に好意を抱いていることにしたいように聞こえますわ」
神父は居心地が悪そうに視線を泳がせ、口をモゴモゴさせた。
そんな彼に、メアリは「大丈夫、わかっていますわ」と微笑みかける。
「アールグレーン様は女性に人気がありますもの。疑うのは、当然です」
「あ、ああ」
決まり悪そうに答えているのは、疑ったことへの罪悪感だろうか。
そんなこと、気にしなくて良いのに。
メアリは普段から、もっと失礼な目に遭っているのだから。
それにしても、とメアリは思う。
この短時間でセドリックに抱いていた印象がかなり変わったのは、偶然だろうか。
(それも、私の結婚相手として問題は何ひとつないと言わんばかり)
権力、能力、容姿。加えて、財力と健康面も問題がないらしい。
パーフェクトすぎて怖いくらいだ。
ますますもって、メアリはふさわしくない。
「しかし、たとえ私と結婚したとして、アールグレーン様には何のうまみもないではありませんか」
メアリが与えられるのは、機械の知識だけ。
むしろ、借金の肩代わりとメアリの世話代までかかってマイナスである。
「損ではない……と思うが」
「損しかありませんよ」
「……お嬢さんは……がない……のじゃな……」
神父の声は、まるで寝言のように判然としなかった。
興奮したせいで疲れてしまったのだろうか。
聞き取れなかった言葉を尋ねようとしたけれど、神父は目を閉じてしまう。
すぐに規則正しい呼吸音が聞こえてきた。
「神父様? 眠ってしまわれたのですか?」
神父の胸が上下している。
まぶたが持ち上がる様子はなく、完全に寝てしまったようだった。
メアリは神父のそばまで行くと、彼の膝の上に載っていた聖書を退かし、ブランケットを胸まで引き上げた。
耳を済ませても、セドリックが来る様子はない。
メアリはその場へしゃがみ込むと、
「神父様。私、ふさわしいかどうかは関係ないって言いましたけれど……。本当は、私が彼にふさわしくないのです。だって私は、みんなから遠巻きにされるような変わり者ですから」
セドリックの隣には、美しくて聡明な良家のお嬢様がお似合いだ。
そうでなければ、みんなが納得できない。
今はまだ、霧の街にいる貴族たちしか知らないけれど。王都の貴族たちも、セドリックの今の姿を見れば見方を変えるはず。
機械いじりが趣味の令嬢なんて、お呼びではないのである。
(神父様はおそらくこう言ったのよ。お嬢さんは自分に自信がないのじゃな、と)
メアリはその通りだと思った。
それほど悪いわけでもないのに、自信がないから前へ進めない。
そのくせ、妙に高いプライドが邪魔をして直す気もない。
(そして、それはこれからも……)
だって、その方が楽だから。
メアリはずっと『このまま』を選択し続けていくのだろう。
いつか壊れるその日まで、見ないふりをしながら。
メアリは椅子へ戻り、腰掛けた。
すっかり冷めてしまった紅茶を、飲み干す。
同じ紅茶のはずなのに、さきほどよりも苦い味がした。
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