第22話
しばらく
じっと見つめ続けていると、セドリックがチラリと視線を向けてくる。
安心させるつもりで微笑みかけると、彼の唇がキュッと力んだ。
(あら?)
首をかしげた途端、セドリックはふいっと顔を背けて、メアリの視線から
彼にそうまでさせる原因とはなんだろう。
メアリの好奇心はますます膨らむばかりである。
「匂いが……」
「匂い?」
仕事のことだと決めてかかっていたメアリは、墓地の匂いを想像した。
土の湿った匂いと
彼女にとっては領地を思い起こさせる、懐かしい匂いだ。
「店の匂いがいつもと違うから……。いつもは機械油とバニラの甘くて良い香りしかしないのに、今日はなんというか……男くさい」
言い出したら止まらなくなったのか、判然としなかった言葉が滑らかに語られる。
彼からは、不貞腐れた子どもが文句を言うような、どこか納得がいっていない空気が漏れ出ていた。
しかしメアリは、それに気づくどころではなかった。
甘くて良い香り。
その言葉が耳に残って離れない。
(不意打ちで褒めるのはずるいです……!)
だって、機械油もバニラもメアリがまとう香りだ。
バニラはともかく機械油もとなると変わった好みだなと思わなくもないが、良いと言われて悪い気はしない。
ヘラヘラとだらしなく笑ってしまいそうになって、メアリは慌てて口を覆い隠した。
その瞬間、セドリックがものすごく怖い顔でメアリを見る。
ぎゅん!とすごい勢いで顔を近づけられて、メアリは驚いた。
いや、あまりに急すぎて驚く間もなく、声を出せないまま停止したというのが正しいだろうか。
「⁉︎」
眼前に、とんでもなく綺麗な顔があった。
まばたきするのも、もったいなく感じる。
これは、ありがたく鑑賞させてもらうべきなのだろうか。
それとも、淑女たるもの、恥ずかしさのあまり卒倒するのが常識的な行動なのか。
(顔を鑑賞する際に、マナーなんてあったかしら?)
固まるメアリを前にして、ようやくセドリックは現状に気が付いたらしい。
わざとらしく咳払いをしながら身を起こし、メアリとの距離を置く。
その瞬間、空気が揺れた。
セドリックの匂いが、かすかに香る。
デンバーがつけていたような複雑な
大人の男性らしい、洗練された匂い。それに少しだけ混じる機械油の甘い匂いは、まるでメアリの移り香のようだ。
(なんてことを考えているの……!)
とんでもないことを考えてしまったと、メアリは口を押さえたままうつむいた。
(移り香だなんて、移り香だなんてぇぇぇぇ!)
匂いが移るほど、近くにいたことなんてないはずだった。
しかし、気が付かなかっただけで──機械に興奮している時、彼女は理性がないに等しい──実はそれほどまでに近くにいたのだろうか。
考えれば考えるほど、墓穴を掘っているような気がする。
(男だと思えだなんて、何を考えて言ったのかしら)
しっかりちゃっかりセドリックを男性として意識しているらしい自分に、メアリは猛烈な恥ずかしさを覚えた。
(ま、まぁでも? アールグレーン様は事実男性なわけですし。男性だと認識するのは当然のことと申しますか……。であるからして、気にする必要はないのです! たぶん)
一人混乱しているメアリに、セドリックは言った。
「……ひとつ」
必死になって自身を落ち着かせようとしていたメアリは、その声に顔を上げる。
淡い青の目と目が合った。
セドリックの探るような視線が、まるで絡め取ろうとしてきているような錯覚を抱く。
息をすることすら忘れそうになっているメアリに、セドリックは言った。
「質問をしても良いだろうか?」
怖いくらい真剣な目で見つめられて、メアリはコクンと唾を飲み込んだ。
名探偵や名刑事に罪を暴かれる犯人は、こんな気分なのだろうか。
「……構いませんけれど」
わずかな逡巡はまるで、答えに窮しているようだ。
悪いことなんて何もしていないはずなのに、隠し事をしているような気がしてくるのはなぜだろう。
口の中がカラカラに乾いていた。
チラリと横目で
「あなたには、恋人がいるのだろうか?」
「恋人、ですか?」
いないと答えようとして、セドリックが被せるように「ああ、いや」と言ってくる。
気を取り直して、いないとまた言おうとしたメアリに、セドリックはまたしても声を被せてきた。
聞きたくないのだろうか。
聞いておいてそれはないだろうと、メアリは不満げにセドリックをにらんだ。
「あ。いや、その……。特定の付き合いをしている男性がいるのなら、私とこうして二人きりで会うのは失礼だろうと思って、だな……」
「ああ、なるほど」
紳士らしい気遣いに、メアリはなぜだか残念な気持ちでいっぱいだった。
それに、何を今更と思わないでもない。
期待していた言葉をもらえなかった時のような、肩透かしをくったような複雑な気持ちが胸に湧く。
おかしいと内心では首をかしげながら、しかし顔には、取り繕うかのように接客用のミステリアスな微笑みが浮かんだ。
「ご安心ください。そういう方はいませんから。匂いは、つい今しがたまで当店の男性スタッフがおりましたので、そのせいでしょう」
「そう、か。この店にはメアリしかいないと思っていたのだが……。そうではなかったのだな」
セドリックの声が残念そうに聞こえたのは、きっとメアリの願望だろう。
彼との時間は、いつだってメアリをいい気持ちにさせてくれるから。
そこに二人以外のものなんて、誰もいらない。
デンバーはもちろん、シェンファにだって遠慮してもらいたい。
「基本的には私だけです。防犯のためにも毎日出勤してもらいたいところなのですが、サボり癖がある人なのでめったに出勤しません」
「それなのに雇い続けているのか?」
「侯爵夫人がそうしろと仰るので」
「なるほど」
これで話はひと段落しただろうか。
メアリは汚れてもいないスカートを払いながら立ち上がった。
指摘されたせいか、先ほどよりもデンバーの
「ところで……。匂いが気になるようでしたら、作業部屋でお話ししませんか? まだ、ご案内したことはありませんでしたよね?」
メアリの提案に、セドリックがパッと目を輝かせた。
「いいのかい?」
言いながら、もう立ち上がっている。
早く行こうと腕を引っ張る子どもみたいだ。
ソワソワと落ち着かない様子が、なんともかわいらしい。
メアリが思わずクスッと笑うと、セドリックの頬がわずかに上気するのが見えた。
「ええ、構いませんよ。雑然としていますが、それでも良ければ」
「ずっと気になっていたから……嬉しいな」
恥ずかしそうに、だが本当に嬉しそうにセドリックが言うものだから、メアリは今更になって、部屋を整頓しておけば良かったと後悔した。
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