第21話
「いらっしゃいませ」
「こんにちは、メアリ」
メアリを見るなり、セドリックはとろけるような笑みを浮かべる。
それはまるで雪解けのように穏やかで、メアリも自然と笑みがこぼれた。
だが、安心してもいられない。
その雪解けのような微笑みは、極度の緊張から解放された瞬間に見られるものなのだから。
教会から思い出預かり屋へ来る間、セドリックは常に緊張している。
誰かに見つかりでもしたら、メアリに迷惑をかけてしまうからだ。
メアリはセドリックの事情もひっくるめて納得しているのだが、彼女よりも年上ということもあって、大人の
強張った顔が一気に緩む様は、何度見ても美しいの一言に尽きる。
だが、だんだんとかわいらしさも感じるようになってきていて、メアリは少しだけ困惑している。
(なんというか……油断されている感じが、あるのです)
デンバーのように見下しているのとも違う、良い意味で気を抜いている感じ。
寒い日にあたたかな湯船につかってホッと息を吐いた瞬間のような、それに近いものがあるように思えてならない。
(まぁ……それも仕方がないのかもしれませんわね)
だって彼は、街中の女の子たちが注目している美貌の公爵様。
今日は
本来ならば、高位貴族令嬢しか手が届かない人。
しかし、結婚適齢期をとうに過ぎた傷ものならば、多少身分が低くても相手にされるだろうと──爵位のない見目の良い街娘さえ期待を寄せているらしい。
(アールグレーン様に関するうわさが妙に耳に入るようになったのはなぜでしょうか……?)
不思議である。
とはいえ、細かすぎるうわさが流れているということはあらゆるところから逐一見られているというわけで──、
(まるで監視されているみたいですもの。せめてこの店の中でだけでも、ゆっくりしてもらいたいわ)
いつものようにセドリックを出迎えたメアリは、彼を応接室へ通したあと、急いで看板を片付けた。
もちろん、彼を慕う女性たちが後を追ってきていないかどうか、その確認も忘れない。
今日も今日とて通行人すらいないことに
セドリックがこの店に通っていることが秘されていることに驚きを隠せない。
まさか街中に点在する幽霊たちが力を貸しているとは夢にも思わないメアリは、今日も「アールグレーン様にはステルス機能でも付いているのかしら」なんておかしなことを考えた。
応接室へ戻ると、難しい顔をしたセドリックがソファへ腰掛けてメアリを待っていた。
目を細め、険しい視線で中空をにらんでいる。
綺麗な顔が不機嫌に歪められているのは、妙な迫力があった。
何か不愉快になるようなことがあったのだろうか。
もしかして、緊張していたのはそのせい?──なんて正直に質問するのも気が引けて、メアリはとりあえずコーヒーの準備に取り掛かった。
(うーん……。お仕事でお悩みなのかしら? だとしたら、今日デートの約束をするのは無理そう……よね?)
メアリが読んだ本には、こう書いてあった。
『狩りの邪魔はしないこと』
人間も他の動物と同じで、狩猟本能を持っているらしい。
日常生活で目標を達成させたり、仕事を成功させたり、または恋人を手に入れようとする時。そのような時に誘うのは悪手である。
また、本にはこのようなことも書いてあった。
『狙い目は、一仕事終えたあと』
獲物を得た人は、それを持ち帰り、共有することで満たされたいという心理になるそうだ。
仕事で思い悩んでいるのだとしたら、それが解決したあとが狙い目ということだろう。
(何かお手伝いできたら、良かったのだけれど……)
メアリに、一体何ができるというのか。
残念な気持ちをため息とともに吐き出した時、セドリックが「どうした?」と声をかけてきた。
「え? 何がですか?」
「悲愴な顔をしてため息なんて吐いているから……。仕事柄、話を聞くのは得意だ。話せるものなら、話してほしい。誰かに話すだけでも、一人で抱え込むよりマシなはずだ」
セドリックの言葉に、メアリは驚いたように目をパチパチさせた。
それから、何か思案するかのように小さくうなずいて、「なるほど、なるほど」と言いながら数回うなずく。
「では、アールグレーン様。私にお話ししてくださいませ」
「え?」
気の抜けた声が、セドリックの口から漏れ出る。
メアリは構わず、ズイズイと歩み寄った。
「何か悩みがあるのでしょう? 険しい顔で、何やらお怒りのご様子。いつも私ばかり話していますけれど、たまにはアールグレーン様の話を聞きたいですわ」
「いや……」
一歩近づけば、同じ分だけ逃げられる。
だからメアリはまた一歩、彼に近づいた。
「私には話せないようなことでしょうか? 私が女だから? でも、私はもうすぐオールドミスになるような年齢ですもの。もはや、女にあらず。男のようなものだと思って、気兼ねなくお話ししてください」
「そういうわけには……」
マスケット銃を一斉射撃したように
だが、メアリだって引くつもりはない。
とうとうソファの隅まで追いやられたセドリックの前で、メアリはちょこんとしゃがみ込んで逃げ道をふさいだ。
「だから?」
絶対に逃がさないという強い気持ちで、メアリはセドリックを見つめる。
セドリックは「うぐ」と何かを我慢するような顔をして、それから苛立たしげに息を吐き出した。
(やりすぎてしまったかしら……?)
思い込んだらまっしぐら。一生懸命すぎるのは、メアリの良いところで、悪いところでもある。
しょんぼりと眉を下げるメアリに、セドリックは慌てふためいた。
「ああ、違う。あなたに対して怒っているわけではなくて……」
セドリックは泣きそうな顔で言った。
不安になったり、怒ったり泣いたり、ここにいる時の彼は表情豊かだ。
うわさで聞くような、常に微笑をたたえる幽霊公爵様とはまるで違う。
きっとどちらも、セドリックなのだろう。
どちらか一方だけでは、成立しない。
メアリだって、そうだ。いろいろな一面を持っている。
それぞれの場面で、使い分けているだけだ。
(私が知っているのは、ここでの彼とうわさの彼だけ。きっと、まだ知らないことがたくさんあるわ)
メアリの中の好奇心が、ウズウズしだす。
彼女の脳裏に、獲物に飛びかかろうとお尻を振って狙いを定めている猫の姿が思い浮かんだ。
(いけないとわかっているのに……。聞かずにはいられません!)
機械以外でこんなにも興味を
自制が利かないのは、きっとそのせい。
普段だったら絶対に受け流していたはずなのに、メアリの口は軽々しくセドリックへ問いかける。
「では、何をそんなに怒っているのですか?」
キョトンと首をかしげて問いかけると、セドリックはモゴモゴと何事かを呟いた。
こんな近くにいるというのに聞こえないような声が出せるなんて、器用な人だ。
メアリはどうやるのかしらと考えながら、セドリックの回答を待った。
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