2章 公爵様に懐かれる

第11話

 次にセドリックが思い出あずかり屋を訪れたのは、なんと翌日のことだった。


 仕事をはじめてひと休み、という午前中のお茶の時間帯。

 店の中には、だらりとゆるい空気が流れている。


 客がいないのを良いことに、メアリはお気に入りの音楽を蓄音機グラモフォンで流しながら、応接室のカウンターの後ろでアイデアを紙に書きつけていた。


【ミストスクリーン──映写機で投射される映像が映し出す平面が、霧だったら面白いのに。だってこの街には飽きるほどあるもの】


【ミストスクリーンプロジェクター──ただの映写機ではおそらく無理。専用のものを考えないと。通常のスクリーンは正面投影だから、背面投影を試してみるのが良さそう。きっと、空中に浮いた立体映像のようになるはず】


 控えめなノックがして店の扉が開いたのは、三つ目のアイデアを書きつけている途中だった。


「こんにちは」


 穏やかな声が、メアリの耳に届く。

 聞いていて心地よい声だ。

 顔を上げると、開いた扉からそろりと入ってきた男の淡い青色の目と視線が絡んだ。


 メアリの神経が、ピリリと警戒する。

 もしも彼女のお尻に猫の尻尾が生えていたら、ピンと立っていたに違いない。


「こんにちは。いらっしゃいませ、アールグレーン様」


 スムーズに声が出て、メアリは安心した。

 だって、心の中は激しく動揺していたから。

 嵐の中で波に揉まれる小舟のように、メアリの気持ちが上下する。


 嬉しい。でも困る。

 そんな相反する気持ちを押し込めて、メアリはなんでもないような顔をする。


 カウンター越しにメアリがあいさつを返すと、セドリックは端正な顔に穏やかな笑みを浮かべた。

 メアリの反応を心から喜んでいるような表情に、不本意にも心臓が高鳴る。


(いけませんわ。普段歓迎されることなんてないから、免疫が……)


 セドリックはお客様だ。

 お客様に対して、ときめくなんて。そんなことは、メアリが許さない。


 つらつらとそんなことを考えていたら、あっという間にセドリックが目の前に来ていた。

 彼の足は長い。メアリは羨ましいと思った。


(これだけ大きかったら、背の高い棚もたくさん使えますもの)


 メアリは平均よりちょっと小さいので、備え付けの棚を上から下まで全部使うとなるとハシゴを使わなくてはいけない。


 考え事をしながらハシゴに登って落ちそうになることはよくあり、そういう時はバッスル・スタイルのドレスを着ておけば良かったといつも思うのだ。

 クッション代わりになってちょうど良い――と、ドレス職人が聞いたら卒倒しそうな理由で。


 とはいえ、考え事に戻るとあっという間にそのことも忘れてしまうので、この店でメアリがバッスル・スタイルのドレスを着用することはおそらくないだろう。


「それは……?」


「え?」


 セドリックの視線が、手元のメモに落ちている。

 気がついたメアリは、すぐさまかき集めてポケットへ押し込んだ。


 初めて全自動珈琲抽出機コーヒーメーカーを見た時のような、キラキラした目がメアリを見つめる。

 メアリは笑みを深めてシラを切った。


(絶対に! 見せませんよ!)


 メモの字は、思いつくままに書き散らしたので癖が出ている。

 手紙用の流麗な文字ではない丸っこい字は、子どもっぽいと揶揄われそうで見せたくなかった。


 ポケットへ注がれる視線を遮るように手を組む。

 名残惜しそうに視線が外れ、メアリはほっと息を吐いた。


「本日は……」


 どのようなご用件でしょうかと続けようとして、メアリは言葉を止めた。

 セドリックが何を持っているのか、気がついたからだ。


 彼は、本一冊分くらいの厚みがある箱を持っていた。

 高さはちょうど、葉巻くらい。長さはねじ回しドライバーくらいだろうか。

 陽気な異国の男性が描かれたパッケージには、見覚えがある。


 ロディム街にある焼き菓子店で売られている、ビスコッティ。

 カリカリとした歯応えが歌うように聞こえることから、鳥のさえずりカントゥッチという別名がついているお菓子だ。


 店では、甘口ワインやコーヒー、紅茶と一緒に食べることを推奨している。

 これはどう考えたって──、


「全自動珈琲抽出機をご利用ですね?」


 わかりやすいお土産に、つい笑みがこぼれる。

 くつくつと笑うメアリに、セドリックは決まり悪そうに首の後ろを擦った。


「好きな時に来て良いと言っていただろう? 午前のお茶の時間であることだし、一緒にどうかと思って……。迷惑だっただろうか?」


 顎を引いてわずかに上目遣いになったセドリックの、淡い金の前髪がサラリと揺れる。

 あざとい……が、顔の良いおじ様がやるとどうにも憎めない。

 短く切り揃えられた髪は清潔感が漂い、せっけんの香りがするようだった。


 セドリックの言葉が言い訳がましく聞こえるのは、メアリの願望だろうか。


(社交辞令だったらどうしようって、アールグレーン様も思ってくれていたのかしら?)


 キュゥンと子犬の鳴き声が彼の背後から聞こえそうな情けない声だが、メアリの耳にはやはり心地よい。

 メアリはカウンターから出ながら、「そんなことはありませんよ」と答えた。


「今日はお客様がいらっしゃらなくて、一人で暇を持て余していたのです。来ていただけて、助かりました。今、看板を休憩中にしてきますので、ソファでお待ちいただけますか?」


「わかった。わざわざすまない」


「いえいえ。ちょうど休憩しようかと思っていましたので、お気になさらないでください」


 セドリックを応接室のソファへ案内したあと、メアリは外へ出た。

 ゆっくりと扉をしめてから、看板を支えにその場へしゃがみ込む。


「ひゃああ……。まさか、本当に来るとは」


 メアリの心臓が、やかましく騒ぎ立てている。

 やったー!なのか、それともやだー!なのか分からないが、元気の良いことだ。


「どうしましょう……?」


 心臓が落ち着く様子はない。

 とはいえ、いつまでもここでしゃがみ込んでいるわけにもいかないだろう。


 店主がお客様を待たせるなんて、あってはならないことだ。

 特にセドリックは、思い出あずかり屋ではなくメアリの機械を目当てに来てくれた、初めてのお客様である。

 もてなさないわけにはいかないだろう。否、もてなしたい。


「ああ、そうだ。アールグレーン様の来店なのでした」


 そこでようやく、メアリははたと気がついた。

 来店したのはかの有名な、街中の女の子たちを夢中にさせている幽霊公爵様なのである。

 どこで誰が見ているか、わかったものではない。


 メアリはさっとファイティングポーズを取ると、まるで秘密諜報部員が国家機密を奪取しようとしているような顔で、周囲を警戒し始めた。


 道ゆく人が彼女を遠目に見て、「あ、奇婦人がまたなにかやってら」と通り過ぎていくのをじっと観察し、問題がないとわかると周囲を見回す。


(右、よし。左、よし。上は……閉まっているわね)


 問題ないことを確認して、安心して看板をくるりとひっくり返す。

 看板の裏側には『ただいま接客中。ご用のある方は改めてお越しください』と書かれていた。


 店へ戻ると、セドリックがソワソワと全自動珈琲抽出機を見て回っていた。

 お客様として少々行儀が悪い気もするが、それほどまでに気に入ってくれているのだと思うと、悪い気はしない。


(座って待っていられないくらい気に入ってくださっているということよね? 制作者として、これほど嬉しいことはないわ)


 蒸気機関車の愛好家は、駅に機関車が入ってくるのを待ち、熱心にその姿を眺めるのだそうだ。

 年齢や立場を問わず集まり、機関車を愛でながら熱く語り合う集団は、一種の宗教のようにも見える。


 以前見かけた異様な光景に、セドリックの姿が被ると言ったら失礼だろうか。

 高い背を屈めて熱心に見る姿はまさしく愛好家といった風で、メアリとしては仲間が見つかったような、そして今すぐ語り倒したくてたまらない気持ちになった。


 メアリの笑い声に、セドリックがピタッと止まる。

 彼は、今ようやく、メアリが戻っていることに気がついたようだった。

 それくらい、夢中になって見ていたのだろう。


 メアリは小躍りしたいくらい嬉しくなった。

 慌ててソファへ戻ろうとしたセドリックを、「どうぞ、そのままで」と押し留める。


「準備がありますから、ゆっくり見てあげてください。今までそんなにたくさん見てくれた人なんていなかったから、きっとこの子も嬉しいはずです」


 メアリは優しい手つきで全自動珈琲抽出機をそっと撫で、部屋の隅にあるカップボードへ向かった。

 準備をしながらちらりと背後を盗み見ると、給湯チューブを人差し指で突いているセドリックがいる。


(こういうの、いいな……)


 この店へ訪れる人はみな、メアリがつくった機械に興味なんてない。

 ただ、機械があるなと流し見るだけで、セドリックのようにしげしげと見てくれることなんてないのだ。


 興味を持ってもらえることが、これほどまでに嬉しいことなのだと、メアリは知らなかった。

 知ってしまったら、次を望んでしまいそうで──、


(来てもらったばかりなのに……気が早くないですか?)


 思わず苦笑いが浮かぶ。

 三度目の来店を促すには、どうすれば良いのだろう。

 メアリは悩みながら、ひとまず目の前にあるカップを選ぶことを集中することにした。

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