第2話

「あら、困ったわ」


 ベケット伯爵邸の離れ──とは名ばかりの、もう使われていない庭師の作業小屋──で、この家の一人娘であるメアリ・ベケットは、とても困っているとは思えない感情の読めない顔でそう言った。

 もっとも、複数のレンズが重なったゴーグルのような道具が彼女の顔の半分を覆っていたので、読めなかったのは当然かもしれないが。


「そんな風にはまるで見えないけれど?」


 小屋の汚さに顔をしかめていた青年が、足元を移動する黒光りする虫に悲鳴を上げる。

 レンズで拡大されたメアリの大きな目がギョロリと動いて、青年を捉えた。


「うるさいわよ、デンバー」


「だだだだ……むっむっむっ……!」


「虫くらいで大声をあげないで。男の子でしょう?」


 そう言ってシッシッと黒光りする虫を外へ追い出したメアリに、デンバーと呼ばれた青年は口を押さえて気持ち悪そうに彼女を見た。

 貴族令嬢といえば虫を見ただけで失神してしまうようなか弱さが理想だというのに、目の前の女性ときたら気絶どころかデンバーよりも肝が据わっている。

 生まれてくる性別を間違えたのではないか、とデンバーはため息を吐いた。


 デンバーことデンバー・マクミランは、メアリの幼馴染おさななじみである。

 ベケット家とマクミラン家の領地は隣同士。その関係で、二人は幼い頃から付き合いがあった。


 デンバーは、金の髪に青い目、整った顔はやや高慢そうな印象を受けるものの、笑うとエクボができてそれがかわいい──らしい。

 メアリは常々同意しかねると思っているが、顔が良いのは認めてやらなくもない、と思っていた。


 デンバーの下等生物でも見るような視線には慣れているのか、メアリはこたえることなくマイペースにやれやれと肩をすくめる。

 つい先日社交界デビューしたばかりのこの青年は、デビューしたら即大人の男になるとでも思っているのか、最近は特に扱いが難しい。


「そうでもないわ。とても、困ったことになっているもの」


 言いながら、メアリは試作中の全自動珈琲抽出機コーヒーメーカーの動力源を切る。すると、ヒュルヒュルプシュウと音を立てて、不可思議な道具が動きを止めた。


「それ、なんだい? 僕にはイカれた科学者の実験にしか見えないのだけれど」


 ロート、フィルター、フラスコ。そのほかにも、デンバーが名前も知らないような実験道具やビョンビョンしている謎の物体が、テーブルの上に並べられ、重ねられ、くっつけられている。

 匂いからしてコーヒーが関わっているのは分かったが、デンバーの目には、出来損ないの蒸気機関車の模型か、呪われた蒸気自動車の模型のように見えた。


 女性受けしやすい整った顔をしかめながら、デンバーは嫌そうに答える。

 彼の所作は、舞台俳優のように大袈裟だ。それがかっこよく見えると言うのだから、貴族令嬢たちのお眼鏡も高が知れている。


 そんなことを思いつつ、メアリは「心外ね」と唇をへの字にしながら、ゴーグルを額へ押し上げ、裸眼で彼をにらんだ。


 メアリの目は、当たり障りのない明るい茶ヘーゼル色をしている。髪もこれまた当たり障りのない茶色ブルネットで、髪をまとめる髪飾りがねじ回しドライバーでなければ、どこにでもいそうな令嬢だっただろう。

 しかし残念ながら彼女の髪をまとめているのはねじ回しであり、それが彼女を彼女たらしめている。


 花よりも機械、恋の話よりも機械の仕組み、お茶会よりも最新機器のお披露目会とわき目もふらず趣味の機械いじりに夢中な彼女は、社交界で「奇婦人」と呼ばれている。

 奇妙な令嬢、略して奇婦人だ。


 舞踏会ではダンスそっちのけで紳士たちの語らいの中に出てくる機械の話に耳を済ませ、遠くに聞こえる馬のいななきに「蒸気自動車が馬車に取って代わるのはいつかしら」なんてつぶやいているのだから、不名誉なあだ名がつけられたのも当然だと言えるだろう。


 とはいえ、本人は気にしていない。「奇婦人」も「貴婦人」も発音は同じなので気づいていないだけかもしれないが。


「全自動珈琲抽出機。簡単に言うと、スイッチを押すだけでコーヒー豆を挽くところからドリップするところまでこなしてくれる道具ね。便利かなって思って作っているのだけれど、なかなか好みの味にならないのよねぇ」


 メアリの細い指が、机上に並べられたカップのふちを弾く。

 コーヒーよりも紅茶派であるデンバーは、香ばしいというより苦く感じる匂いから遠ざかるように、小屋の端へ身を寄せた。


「はぁ……。で? メアリの困りごとはそのコーヒーの機械か? それとも、手紙の方?」


「どちらも、と言いたいところだけれど。手紙の方がより深刻ね」


 メアリの手には、一通の手紙があった。

 送り主は、彼女の婚約者であるコンラート・ヴェルマー。


 コンラートはおじさんだけれど、お金持ち。

 才能ある者たちに支援することが趣味で、没落気味のベケット家への援助と引き換えにメアリと婚約した。対外的には。


 メアリは心置きなく趣味に没頭できる。

 コンラートは貴族の一員になれる。

 双方にメリットがある関係……のはずだった。


「手紙には、なんて?」


「婚約はナシにしましょうって」


「うそだろ」


「あ。慰謝料の小切手も同封されているわ」


 ヒラリ、とメアリの指が無造作に小切手をつかむ。

 まるでおもちゃの紙幣を持っているようなしぐさだが、その額は婚約破棄の慰謝料としては破格である。


「すごいな」


「すごいけれど……。これじゃあ我が家は持ち直さないでしょうね。ああ、困ったわ。このままじゃ、わが家は没落。そして私は趣味すら謳歌おうかできなくなってしまうのだわ」


 芝居がかったセリフだが、ちっとも感情がこもっていない。

 ただ淡々と事実を語っている。そんな感じだ。


 実際、それほど困ってはいないのだろう。

 ベケット家はそれなりに続く名家。没落気味とはいえ、お近づきになりたい者はたくさんいる。

 事実、男爵家の三男であるデンバーも、そのうちの一人なのだ。


「ところで、デンバー。あなたはどうしてここへ? 何か約束をしていたかしら?」


「いや、蓄音機グラモフォンを借りたいと思ってね」


 蓄音機は、音を録音し再生する機械だ。

 コンラートのツテで仕組みを学ばせてもらったメアリは、器用な手先を駆使して誰にも作れない──ぱっと見は自動楽器オルゴールにしか見えないがちゃんと録音も再生もできる──小型蓄音機を制作したばかりである。


「蓄音機を? なんのために?」


 デンバーは普段から、機械のこともメアリのことも馬鹿にしている。


(これからどんどん機械化が進んでいくのに。ナンセンスだわ)


 だから彼からそんな言葉が飛び出すとは思ってもいなくて、メアリは眉を寄せて険しい表情を浮かべ、いぶかしげに見遣った。


「知り合いの母親が医師から余命宣告を受けてね。生きているうちにできる限りの思い出を残しておきたいというから、協力することにしたんだ。人は、声の記憶から失っていくという研究データもある。最初に失ってしまうものだからこそ、残しておくべきものではないか、と思ったんだ」


「まぁ……」


 病気で母親を亡くしているメアリにとって、ひとごととは思えない状況である。

 さらに自分の機械が人の役に立つとあっては、居ても立ってもいられない。

 すぐさま小さな蓄音機を携えたメアリは、愛用の帽子と日傘を手にし、扉を開け放った。


 外から光が差し込んで、薄暗い小屋の中を照らす。

 メアリの背後には、抜けるような青空が見えた。


 良い天気だ。バスケットを持って、ピクニックへ行きたくなるような。

 しかし、ピクニックへ行くメアリなんて想像もできない、とデンバーは思った。


「なにをしているの、デンバー」


「なにって」


「行きますわよ?」


「い、今か⁉︎」


「ええ、今です」


 デンバーは「うそだろう」とつぶやいた。

 少し気になる令嬢がいるから、口説く材料を借りられないかと軽い気持ちで来ただけだったのだ。

 当然、行く準備なんて整っていない。


 デンバーはメアリの思わぬ行動力に目を剥いたが、同時にどうにもならないと諦めてもいた。

 メアリは、言い出したら聞かない。

 決して短いとはいえない付き合いの中で嫌というほど学んでいたデンバーは、「せめて着替えさせてくれ」と頼んだのだった。

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