▼28・春光国にフィリアあり
▼28・春光国にフィリアあり
今日も姉を思って、屋敷の近くの高地でひなたぼっこをしていたのはシャーロット。いうまでもなくフィリアの妹のほうである。歌姫が姿をくらましているということは何度も言及している通り。
もちろんフィリアの妹も、歌姫の一連の顛末は話に聞いている。
……姉は、歌姫のせいで、名前の同じ自分のことをも嫌いになってしまったのではないか。
その恐怖が彼女の頭をめぐっている。
考えればくだらない杞憂にすぎない。しかしいまの「シャーロット」は、その杞憂を自分から振り払うことができない。
彼女を愚かだと断じられるか?
おそらく並大抵の人間には、それはできない。
いかに荒唐無稽な考え事であろうと、それが冷徹な思考とも違う、一種の呪術的な発想からきたものだとしても、当人にとって多少なりとも正当性――合理性とも違う、きわめて主観的な「正当性」にすぎないが――を帯びていれば、そしてそれが重大な、己の生活さえ変えうる大きなものに対するおそれであれば、その考えを振り払うことは難しい。
それをたやすいというのなら、病の身内について医者以外のものにすがる人間は存在しえないし、標的の不安をあおって金をせしめようとする詐欺師はことごとく全滅し、勉学で最良を尽くした書生が試験の前にお守りを買うこともない。
これが容易であるならば、その世界は非常に暮らしやすく、世間が有する不安の大部分は解消され、そして人間味を失った異常の世だ。
そして、そういった世界の原理は、同じく世界の原理によって否定される。
簡単なことだ。世界には不確定性というものがあり、それはあらゆる想定される不安、そして想定さえしていない脆弱性を現実のものとする。
だから人間は、合理性以外の恐怖を感じようとするのだ。
それは、フィリアの妹シャーロットも例外ではない。
むしろフィリアやグスタフその他が規格外すぎるのだ。彼らは己の知性、換言すれば合理性を果てしもなく信じており、想定されない恐怖はないという前提で動いている。それはそれで、国の頭脳を司る人物には不可欠な資質ではあるが、妹姫シャーロットはそういう人間ではなかった。良い悪いというわけではなく、そういう星に生まれたというだけである。
そう。シャーロットはフィリアのような人間ではない。だからいつ来るともしれない優秀すぎる姉を、ただひたすら待っている。
やがて空が、橙の色を帯び始めた。
「シャーロットお嬢様、そろそろお部屋に……冷えてまいりましたので……」
彼女の気持ちを痛いほど理解しているのだろう、使用人も遠慮がちに声をかける。
しかしシャーロットは動かない。
「あの、お嬢様……」
「姉上が戻られます」
「えっ?」
「姉上の気配がします」
「い、いずこに」
「遠くに、それでいて近くに」
使用人が慌てて周囲を確認する。
「ああ、近くに、姉上……姉上」
「マーカス様!」
「おお、どうした」
使用人の年長者を呼ぶ声。
「い、いま、連絡が入りました、フィリア様がお戻りになると!」
同時に。
「姉上が、姉上が近くに、ああ私の姉上!」
シャーロットが駆け出す。
「タルボットとウルクはお嬢様を追え、私は一度屋敷に戻る!」
「承知!」
使用人のうち、体力と追跡技術に長けた二人が後を追った。
使用人たちは、ほどなくして令嬢の姿をとらえた。
彼女がその相貌をぐちゃぐちゃにし、涙と嗚咽をはしたなくも任せるがままにし、親愛の作法も忘れて衣服まで台無しにしていた、その相手は。
彼女だけでなく、肉親、使用人たちまでもが待ちわびてやまなかった、シャーロットではない、その「お嬢様」は。
「ただいま帰りました、シャーロット、皆様方」
フィリアは、ただ妹の身体を受け止めていた。
その数日後、春光国、早風国、荒海国などは共同で山麓国に宣戦布告した。
同時に、準備していた軍勢が今まさに動こうとしていた。
いたのだが……。
「申し上げます!」
春光国の設営にて、密使。
「どうした」
「早風国と荒海国、明乃国にまたがって、凶賊が連合して蜂起しました、三ヶ国は急きょ鎮圧へ転進しました!」
「なんと!」
同席していたフィリアは即座に問う。
「勇者アダムスの計略ですか?」
「吟味中ではありますが拭い去れません。いくつかの痕跡が、アダムスの介入の可能性を示しています」
「やはり……!」
フィリアは唇を噛んだ。
「間違いなく勇者の計略です」
「間違いなく、か?」
「他に考えられません。アダムスがどの程度主体的に扇動、暗躍したかは分かりませんが、奴の思惑に沿って進んだのかといえば、自信をもってそうだと言えます」
「そういうものか」
「然り。使いよ、他に変事の兆しはありましたか、例えば馬前国とか朝拝国とかは?」
「いまのところその気配はありません。ただ、山麓国も我々を倒すべく、すでに出陣していますので、計略の兆しもないでしょうが、グスタフ様方の凶賊討伐が終わるのを待っている余裕もありません」
「なるほど。アダムスは彼ら二国と我々春光国だけなら、撃破できると考えたのでしょうね。……骨の髄まで思い知らせてやる……」
馬前国と朝拝国の戦力を軽んじたことを?
違う。
――春光国にフィリアありとうたわれたことを。
――世界の正義はこちらの側にあることを。
――生半可な謀略で、一度流れ出した運命の道をふさぐことが、いかに愚かしく無様で、この地上に頭を、体を、心までも血と泥にまみれさせることになるかを!
「流れは依然として我らにあります」
早風国のグスタフが凶賊退治にあたっているなら、その退治を迅速に終えて、それほど時間をかけずに主戦場へ来てくれるはず。彼にはそれを可能とするだけの武略、謀略の才がある。
「要は早風らの軍勢と合流できるまで、持ちこたえるか敵の寄せ手をためらわせればいいのです。私たちならそれができますし、するしかありません!」
言うと、国王も続ける。
「全くもってその通りだ。進軍を続けよ。時間稼ぎなどというしけたことは言わん、願わくば合流は、勇者アダムスを討ち果たし、全てが終わった後であらんことを!」
現実的には時間稼ぎをするのが答えだが、それはそうとして。
国王の鼓舞は、天地を震わした。
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