第4部:愛するということ

第12章:夢か現か

第93話:私のせいで

『――、……――』


 ――なんだろう。何か、呼ばれてるような……?


 アンジェが重たい瞼を開くと、どこか懐かしさを感じさせる天井が目に飛び込んできた。


 クレマン王国王城のような立派な石造りのものでもなければ、かつて聖女だったころに寝に帰るだけだった神殿内の資質のものでもない。古びた木製の柱が支える天井は、不思議と素材そのもののあたたかさをまとっているようだ。


 アンジェはゆっくりと体を起こして辺りを見回す。壁際に置かれた小さなランプが照らし出す殺風景な部屋には、小さなテーブルと椅子、そしてアンジェが寝ていた小さなベッドしかない。どれも十歳相当の体格であるアンジェをもってして、少々窮屈に思えるようなサイズのものばかりだ。


「……ここは……」


 アンジェには、この部屋の光景に見覚えがあった。彼女が聖女として召し上げられる前、辺境の村に住んでいたころの自分の部屋だ。


「懐かしい……こんなに小さかったんだ……」


 幼い自分に合わせて用意されたベッドをなでて、アンジェは昔を回顧する。そうだ、あの頃は夜になるとよく、窓から月を眺めていたっけ。


 ベッドの上に膝立ちになると、あの頃よりも簡単に顔が窓枠を超えた。それでも見上げた月ははるか上空にあって、手を伸ばしても届きそうもない。


 まるで童心に帰ったかのように、虚空に漂う月に向かって手を握ったり開いたりしていたアンジェは――ふと、気づく。


 ――あれ? 私、映ってない……?


 ランプの光を反射する窓ガラスに、アンジェ自身の姿が映っていないのだ。椅子やテーブルは映っているのに、アンジェの姿だけがそこから切り取られてしまったかのように消えている。


 光の具合のせいだろうかとさして広くない部屋をあちこちと動き回ってみても、アンジェの姿が窓に映ることはない。試しにランプを持ち上げてみても、ガラス越しに見ればランプを持ち上げるアンジェの姿がなく、さながらランプがひとりでに浮かび上がっているように見えるだけだった。


 ――なに、これ……どういうこと……?


 得も言われぬ不気味さにアンジェが慄いていると、不意に背後の扉が開いた。アンジェは思わず身をすくませて音のほうへと振り向く。


 開いた扉の向こうには、ただ暗闇が広がっているだけだった。ランプの明かりでさえ途中で遮られたかのように入口の手前で途切れており、その先は全く見通せない。


 だというのに――アンジェはその暗闇の中に、自分を見つめる視線を感じていた。それは思わず背筋が震えるような冷たさを持っており、アンジェの腕に鳥肌が立つ。


「……だ、だれか、いるんですか……?」


 震える声で問いかけるが、答えは何も返ってこない。『それ』はただただ、一心不乱にアンジェを見つめ続けるだけだった。


 どれほど経っただろうか。何の前触れもなくアンジェが手にしていたランプの明かりが消え、辺りが暗くなる。すると、まるでそれを待っていたかのように、『何か』が動いた。


 断ち切られて届かなかった月明かりが、部屋の中に踏み込んできた『何か』の姿を照らし出す。かくして、そこに立っていたのは――肩まで届く銀髪に、海よりも深い青色の瞳を持った少女。それでいて、アンジェよりも頭一つ分は小さな体の幼子。


「……わた、し……?」


 幼いころのアンジェ自身としか思えない少女が、アンジェを一身に見つめていた。


 彼女は何かを堪えるかのように唇をかみしめ、小さな肩を小刻みにふるわせている。あどけない瞳には涙の幕が張っていて、今にも零れ落ちてしまいそうだ。


 それでも時折噛みしめる唇から力が抜け僅かばかり口を開くのだが、しばらく経つとまた何かを飲み込むように元に戻ってしまう。


 そんな彼女から目が離せず、しかしどうして良いかもわからずにアンジェが呆然と少女を見つめていると、その少女は酷くつらそうに瞼を閉じて踵を返し再び月明かりも届かない暗闇へと踏み出した。


「――ま、待って! あなたは一体……!?」


 ようやく声を出せるようになったアンジェがとっさに呼び止めると、少女はぴたりと足を止めた。そして、首だけでアンジェに振り向くと。


「……私のせいで、ごめんなさい」


 しんと静まり返った部屋の中でさえ聞き取りづらいほどの小さなつぶやきを残して、闇の中に消えていった。


 それを合図にしたかのように、彼女が消えていった向こうからにじみ出るように暗闇が月明かりを飲み込んでいく。椅子が、テーブルが、ベッドが闇に呑まれ、沈んでいく。この狭い部屋に、逃げ場など、ない。


「――――!?!?!?」


 アンジェが動き出すより早く、その足元に暗闇が到達する。床がぐにゃりと溶けたような感触を最後に、アンジェは声のない悲鳴とともに闇に呑まれていった。


「――っ!? はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」


 次の瞬間、アンジェは王城の自室のベッドで荒い息をついていた。心臓が耳元でなっているのかというほどにうるさく、寝間着がひどく汗でぬれているのを感じる。


「……ゆ、夢……?」


 体を起こして辺りを見回すが、そこはすっかりなじんだ自分の部屋。身に余るほど大きなベッドが用意された、自分の寝室だ。


 そのことに安堵したアンジェは、跳ね起きた上半身を今一度ベッドに沈み込ませて長い息をつく。


「……何なの、もう……」


 窓から見える月はまだまだ高い位置にあり、どうやら床に就いてからまだそれほど時間は経っていないらしい。アンジェは恨みがましくつぶやくと、再び瞼を閉じた。


 ……だが。


 ――あの子、何だったんだろう。もしかして昔の私も、あんな顔してたのかな……?


 悲し気な瞳が、声が、脳裏に焼き付いて離れない。たかが夢だと笑い飛ばせないのは、あの少女が幼い自分の姿をしていたからだろうか。


 ――ばか、ちっとも隠せてないじゃん。そんなんだから――。


 愛されないんだよ。そう続けようとして、しかしアンジェの心はそれを拒否した。自分でもわからない。だが何故だか不思議と、ひどく胸が痛んだのだ。


 結局、アンジェはこの後ほとんど眠ることができないままに夜明けを迎えるのだった。


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