第80話:いくらでも巻き込まれてあげます
「おかえりなさいませ、聖女様。本日もご公務ご苦労さまでございます」
聖女として召し上げられてから数年が経ったころ、忙しくはあれど激務とまでは言えない程度に役目を果たし続けていたある日のことだ。公務を終えて帰ってきたアンジェは、その帰りを一人の男に出迎えられた。
「あ、えっと、はい、ありがとうございます」
アンジェはこの男のことが前から苦手だった。人の良さそうな微笑みを湛えているのに、その瞳の奥には何か恐ろしいものを感じる。その二面性のようなものが怖くて、普段はあまり拘わらないようにしているのだが、こうして部屋で待ち構えられてはどうしようもない。
「……それで、どのようなご用でしょうか?」
アンジェが恐る恐る切り出すと、男はアンジェの後ろに控えているメリッサに視線を送った。その意図を感じ取ったらしいメリッサは、小さく黙礼すると部屋の外に出ていってしまう。頼れる相手がいなくなったアンジェは、心細さにローブの袖をぎゅっと握り締めた。
「……実は、折り入ってご相談がございまして」
男の目は笑っていたが、その奥に潜む冷たい光にアンジェの喉が震えた。
「聖女様、貴女はこの国の現状をどう思われておりますかな?」
「……どう、といいますと」
「民の信仰心が薄れ、熱心な信徒が減りつつあるというこの国の現状について、にございます」
男はその顔に嘆きの色を貼り付けて続ける。
「この国を興した初代皇帝陛下と並ぶ国の母への信仰心が薄れているというのは由々しき事態。そのためか貴女のような強大な力を持つ聖女様の顕現はしばらくございませんでしたし、神託も下りる頻度が減っておりました。そんな折、貴女のような、まるで初代聖女様がその身に宿っているかのようなお力の持ち主が現れた。今こそ、この現状を打破する最大の好機なのです」
男の目が怪しく光った。
「そのお力をもって、民に聖女様の存在を、そのお力がどれほどまでに強大なのかを今一度知らしめましょう。誰もが二度と信仰心を忘れられないであろう、最大級の衝撃を伴う事象とともに」
「……具体的には、何を?」
「『聖女の力』の、軍事転用でございます」
にやりと笑った男の一言に、アンジェは思わず息を呑む。
「な、なにを……あなた、それがどういう意味なのかわかってますか……!?」
喉から漏れた言葉は、ひどく震えていた。
「えぇ、もちろん」
男は泰然と答える。
「聖女様がその力を戦場に持ち込めば敵軍にとって相当の脅威となります。聖女様はそれだけのお力をお持ちです。この国を脅かす者どもを容易く蹴散らして見せれば、聖女様を煩わせている『平民出身の聖女』という烙印を打ち消すのも簡単なことでしょう』
「……っ」
その言葉は、アンジェの心に甘く響いた。
『平民出身』。アンジェがどれほど頑張っても決して覆すことのできない、出自による格さ。アンジェは聖女として召し上げられて初めてその存在を知り、そしてその壁が途方もなく高いことを思い知らされた。
誰もが口では感謝してくれる。謝礼もくれる。だがその瞳の奥に潜む蔑みの感情は隠し切れない。そんな感情が無意識の言動に、態度に現れては、アンジェの胸の中に小さなシミを作っていく。そんな苦々しい思いをせずに済むとなれば、どれほど気持ちよく人々を助けられるだろうか。
アンジェの心のうちの迷いを察知したかのように、男は畳みかける。
「力が全てを証明するのです。民は誰も貴女を侮らない。全員が貴女を必要とし、愛する。――それは素晴らしい未来だとは思いませんか?」
「必要とする……愛する……」
やっと誰かのためになれる。愛されるだけの自分になれる。『聖女の力』を授かったときに感じた歓喜は、しかし貴族たちの差別意識に少しずつすり減っている。
だが、もし本当に、彼らも心から自分を必要としてくれたなら? 愛してくれたなら? それはきっと、この世界でアンジェしか感じ得ない究極の幸福だ。
「私とならば、その未来を創ることができます。……如何です、ご協力いただけますかな?」
「……」
差し出された右手を、アンジェは震えながら見つめる。
この手を取れば、この国の全ての人々が自分を必要としてくれる。愛してくれる。それは今のままでは到底手が届かないだろう、輝かしい未来だ。
心が揺れる。その甘い誘いに流されそうになる――その時。
『ようやく、この力を預けられる者と巡り合うことができました。次代の聖女として、この力で貴女が愛する全ての者を救ってあげてください』
自分に力を授けてくれた優しい声が脳裏によみがえり、アンジェはハッとした。
そうだ、何を考えているんだ。自分は自分が愛する者を救うためにこの力を授かったのではないか。この力を誇示して、誰かを従えるなんてとんでもない。そんなの、愛じゃない。
「……ごめんなさい」
アンジェは、男の手をそっと押し返す。
「私にとって力とは、誰かを助けるためのものです。戦争のために使うなんて絶対に間違っています。私はそんな未来のためにここにいるんじゃありません」
アンジェは胸元で手を握り、静かに言い放った。
「私の力はそんなことに使うためのものじゃありません。みんなを幸せにするためのものです。……すみません、お帰りください」
静まり返った部屋で、アンジェは男とにらみ合う。ほんの数秒ほどのことだが、アンジェにはそれがまるで途方もない時間に感じられた。
そんな息苦しい沈黙を破ったのは男の報だった。
「……なるほど、聖女様は実にお優しい。その優しさが、この国の未来にどのような影響をもたらすのか――楽しみですな」
男は深いため息をつくと、最初の挨拶同様貼り付けたような笑みを浮かべた。
「大変失礼をいたしました。この話はどうかお忘れくださいませ。……それでは」
男は短く告げると、アンジェの横をすり抜けて部屋から出ていった。
バタン、と扉が閉まる音を聞くのと同時に、アンジェは膝から崩れ落ちた。握り締めた手のひらは汗でぐっしょりと濡れ、小刻みに肩が震えている。
――これでいい。これでいいの。もっと頑張って、頑張って……それでいつかは、みんなに認められる私になるんだから。
一人きりの部屋で、アンジェは心に固く誓った。
これが、のちに神殿長となる男とアンジェがかわした、最後の会話である。
◆
「……なるほど、そんなことがあったんですね」
話し終えたアンジェの頭を、セリーヌが優しく撫でる。
「アンジェちゃんは強いんですね。『聖女の力』に選ばれたのも納得です」
「そんな、私なんて全然……」
「何を言ってるんですか」
ピン、とセリーヌが指先でアンジェの額を小突く。アンジェが驚きに目を見開いていると、セリーヌはふわりと微笑んだ。
「誰かのために頑張るって、そんな簡単なことじゃないですよ。それは紛れもなく、アンジェちゃんの強さです」
セリーヌの一言に、アンジェはスッと肩の力が抜けていくのを感じた。
「……さて。これで、何故教会側が神託を捻じ曲げてまで偽聖女に協力したのかが見えてきました」
セリーヌが表情を引き締めて話を戻す。
「アンジェちゃんから立場を奪うことで、軍事転用への研究に強制的に加担させようとしたのでしょうね。罪人なら人権なんてないようなもの、誰からも文句は言われませんから」
だが、実際にはシャルロットの介入によってアンジェが連れ攫われたために計画は破綻。その穴埋めのためにアンジェを探している、というわけだ。
「……ごめんなさい、面倒なことに巻き込んでしまって」
しおれた声で謝るアンジェは、次の瞬間セリーヌに抱きしめられていた。それはいつものアンジェ分補給をする時よりもずっとずっと甘く、優しい抱擁だった。
「何言ってるの、アンジェちゃん」
セリーヌがポンポンとアンジェの背中をたたく。
「可愛い妹のためならいくらでも巻き込まれてあげますよ。大丈夫、クレマン王国は何があってもアンジェちゃんを全力で守ります。……だから安心してくださいね、アンジェちゃん」
「……はいっ」
鼻の奥がツンとするのを感じながら、アンジェはセリーヌをぎゅっと抱きしめ返すのだった。
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