第77話:帰り道の葛藤

 思い出話は尽きずとも、話している側の体力はいずれ尽きる。馬車の旅路が続くにつれ、休暇と言いつつ全力で遊びまくったものから順に微睡の中に落ちていき、いつの間にやら馬車の中は静かな寝息で満ちていた。


 自分を膝の上に抱えているシャルロットの寝息をうなじのあたりに感じ、微かに頬を緩めながら、アンジェはそっと窓の外へと目を向ける。移動を始めたのは昼前だったが、その時に上空遥か高くに位置していた太陽は地平線の向こうに半分以上その身を隠している。


 ――お休み、終わっちゃうんだなぁ。


 忍び寄る夜の気配に哀愁めいたものを感じ、アンジェは小さくため息をつく。


 この三日間は本当に楽しかった。初めてまともに遊んだ海は見ているだけではわからない発見に満ち溢れていたし、皆で見上げた星空はどこまでも続いていくようだった。夕飯はちょっと多かったけれど美味しかったし、肝試しだって怖かったけれどシャルロットと一緒ならまたやってもいいかもしれないなんて思っている。


 ……だというのに。


 ――なんでこんなに、苦しいんだろう……?


 胸の中に居座り続ける、大した役にも立てていないのに、という罪悪感。皆に、シャルロットに守られてばかりで、何も返せていないという思いがどうあっても消えてくれない。


 ――あの頃も、そうだったっけ。


 馬車の窓の向こうに広がる暮れ行く空を見て、アンジェはぼんやりと思う。


 両親を亡くし、誰かの助けを得なければ生きていけなかった自分。決して裕福とは言えない小さな村で誰もが忙しそうに動き回っている中、おとなしくいい子にしているしかなかったアンジェはよく、こうして自室の窓から夜の月を眺めていた。そんなかつての自分が感じていた不安感と、今の心境がどこか重なるようで。


 ――変わってないなぁ、私。


 『聖女の力』を得て、ようやく役に立つことができると思った。実際に感謝の言葉を受ければ、自分なんかでも誰かの役に立てるんだってどうしようもなくうれしくて、どれだけ体力的につらくても頑張ることができた。なのに今はその力を使うこともできず、結局また守られるだけの存在になっている。


このままでいいなんてことはない。だが、ノクシアから助言された『過去を乗り越える』ことも『誰を愛すべきか考える』ことも、アンジェにとっては何のことかさっぱりわからない。


 ――結局私って、何なのかな。役に立てないのに愛されている自分って……何なんだろう。


 心の中でそう呟いた、その時。


「……アンジェ様」


 耳元で小さくささやかれ、アンジェは思わずびくりと体を震わせた。声の主など、自分を今も抱きかかえる婚約者以外にあり得ない。


「しゃ、シャル様? お休みになってたんじゃ」


 目覚めの気配など全く感じなかった。にも拘わらず、シャルロットは確かな意志をもってアンジェを抱きかかえる腕に力を込めている。


「えぇ。……ですが、何やらアンジェ様が、苦しそうでしたので」


 シャルロットは時折、アンジェに関して驚くほど鋭いことがある。本人の意識がない状態で何かを感じ取るなど俄かには信じがたいことだが、どこか確信めいたものを持っているらしいシャルロットは自らの体温を移すかのように強くアンジェを抱きしめていた。


「アンジェ様はそのままで良いのですわ。いてくださるだけで良いのです。今はまだ難しいかもしれませんが、いつか受け入れられる日が必ず参りますわ」


 シャルロットの言葉はどこまでも優しく、甘い。込められた想いに嘘偽りがないことなんて明らかだ。そんなことはアンジェとて十分に理解しているし、素直に頷くことができたらどれだけよかっただろう。……なのに。


 ――本当に、そうなのかな。そんな日が、本当にくるのかな。


 こんなにもシャルロットの気持ちを受け取っているのに、そんな風につい疑ってしまう自分が、嫌になる。


「……はい」


 如何にシャルロット相手とはいえ、……否、シャルロット相手だからこそ明かすことのできない内心を押し殺して、アンジェは自分に回された彼女の手に自分の手を重ねる。重なった手はやっぱりあたたかくて、何だかちょっぴり泣きたくなった。


 そんなアンジェの耳に思いもよらない噂が聞こえてきたのは、アンジェ達一同が王都に戻った数日後のことだった。







「なぁ、聞いたか? ドゥラッドル帝国、今何かと大変らしいぜ」


 アンジェが初めてその噂を耳にしたのは、王城の各所を警備する衛兵同士が交わしていた世間話からだった。


 通り過ぎようとしていた廊下の角の向こうから聞こえてきた帝国の名前に、アンジェは思わず足を止める。そっと声のする方を覗き見れば、アンジェとも面識のある二人の衛兵が言葉を交わしていた。


「あぁ聞いた聞いた。聖女様が倒れたんだろ? 偽聖女の呪いだかなんだかで」


 偽聖女、という単語に、アンジェは思わず顔をしかめる。


 アンジェがその偽聖女として追放された本人であることは、今もまだクレマン王国の最高気密となっており、一般の衛兵は知る由もないことだ。ゆえにこのような発言が聞こえてくることはやむを得ないのだが、それでも心が痛まないなどということはない。


 思わずその場を離れようとしたアンジェだが、ふとその言葉の前に不穏なものが紛れ込んでいたことに気づく。


 ――聖女様が、倒れた……?


 アンジェがクレマン王国を訪れてからというもの、帝国側の動向や新しい聖女に関する話はアンジェに対して意図的に隠されている節があった。それは女王やシャルロットらがアンジェの負担を軽くするためにそうしているのだとアンジェ自身も察しており、あえて自分から踏み込むようなこともしていない。だから、セリーヌやシルヴィが帝国を尋ねた聖女就任式典の一軒も、アンジェは何も知らなかったのだ。


 しかし、こうして耳にしてしまった以上、全くの無関心ではいられない。どうするべきか迷い、立ち去ろうとする足を止めたアンジェの耳に、更に驚きの話が飛び込んでくる。


「それもだが……話によると、皇帝陛下まで病に伏したらしいぜ。今はロランス皇子が政務を代行してるって話だ」


 アンジェは思わず目を見開いた。


 ドゥラッドル帝国皇帝とは、聖女としての活動の中で幾度となく顔を合わせたことがある。強面で体格もがっしりとしていたことからアンジェは少々苦手としていたが、息子のロランスとは異なり平民であるアンジェのことを必要以上に卑下したりせず、働き相応に褒めてくれていた相手だ。


 それなりの年齢ではあったものの、病の気配などアンジェが最期に顔を見た数か月前まで全く感じさせなかった皇帝が今、政務をまだ若いロランスに代行させなければならない状況にある。そのことがアンジェに与えた衝撃は大きく。


「そ、それって本当ですか!?」


 気が付くと、アンジェは廊下の影から飛び出して衛兵たちに詰め寄っていた。


「おわっ!? あ、アンジェ様!? あ、いや、その、それはですね……」


 詰め寄られた衛兵は大きく動揺してもう一人の衛兵と目配せしている。どうやらアンジェの耳に入れて良い類の話ではなかったらしい。


「その、私も詳しくは聞いておらず、あくまでもそういう噂があるってだけなので……」


「す、すみませんアンジェ様、我々も職務がございますのでこれで」


 二人は早口にそう告げると、申し訳なさそうにその場を後にした。


「……どういうこと……? 帝国で、何が……?」


 一人残されたアンジェは、呆然と呟くしかなかった。


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