第75話:ともに乗り越えましょう

 あれだけ騒がしかった浜辺も、日が落ちて月が高く上るころとあっては静かなものだ。穏やかに打ち寄せる波は心地よい音を立て、月明かりを柔らかく反射している。潮風は涼やかに吹き抜け、夏の匂いをどこまでも運んでいく。


 そんな自然が奏でるアンサンブルに、ふと小さく砂を踏みしめる音が混じり始める。きゅっ、きゅっと何かの鳴き声にも思える音を鳴らしながら、アンジェは一人、砂浜を歩いていた。


 夜の散歩を楽しむというには、彼女の表情は硬い。今のアンジェにとっては、穏やかな波の音は心を焦らせるようなざわめきに、潮風は粗雑に背中を押す手のひらのように感じられているのかもしれない。


『妾から言えることはただ一つ、お主に必要なのは"過去を乗り越える"ことじゃ』


 アンジェの脳裏には、昼間思いがけない形で出会った聖龍・ノクシアからの言葉が延々と渦巻いている。


 ――過去って、何だろう。私には、何が足りないんだろう。


 サンダルをはいた小さな足で砂を踏みしめながら、アンジェは考える。


 『聖女の力』が未だに封印されたままなのは、夜会での断罪劇がトラウマになっているからだとばかり思っていた。だがノクシアの言葉は、事態がそんなに単純なものではないことを示している。


 アンジェの記憶に残っている過去と言えば、両親を失い辺境の村で育てられた幼少期と、聖女として召し上げられてからの十年間の二つだ。だが、その中のどれが今の自分を縛ってしまっているのかがわからない。原因がわからなければ対処のしようもないだろう。


 そもそも『乗り越える』とは何を指しているのか。確かに思い起こせば暗い過去の一つや二つはあるだろうが、それだってその都度乗り越えてきたからこそ今の自分があるはずなのだ。だとすれば、過去を『乗り越えた』というのは何をもってそうとするのだろう。


「……わかんない」


 知らず知らずのうちにこぼれた言葉は、波の音に紛れて消えていく。止まっていた足を動かすと、また砂の鳴き声がきゅっきゅっと鳴り始めた。


 ふと、波打ち際に足を向けてみる。波が来ないぎりぎりの位置でしゃがみ込むと、月明かりしかない中にあっても砂の色が違うのがよくわかる。そして、そこには昼間あれだけはしゃいで遊んでいた時の足跡は全く残っていない。


 ――こんな風に、過去もばーっと消えて乗り越えられたらいいのにな。


 そんなどうしようもないことが頭をよぎり、アンジェは思わず自嘲気味に笑う。目の前に広がる海は、アンジェの悩みなどちっぽけであると言わんばかりにどこまでも雄大だ。


 しばし、アンジェがそのままぼんやりと海を眺めていると。


「……アンジェ様」


 聞きなれた声に首だけで振り向けば、そこには寝間着姿でいつもの縦巻きの髪を下したシャルロットが、穏やかな微笑みを湛えて立っていた。


「眠れないんですの?」


「……はい」


「そうですか。……お隣、失礼いたしますわね」


 彼女はそういうと、アンジェの隣に歩み寄って同じようにしゃがみ込んだ。その目線は、アンジェではなく正面の海に対して向けられている。


 アンジェもまた、目の前の海へと視線を戻す。月明かりが波間に揺れていくつもの筋を作り、足元まで迫った波が痕跡を残しては引いていく。


 二人の間に言葉はない。ただただ穏やかな波の音と、時折思い出したかのように吹き抜ける潮風の音だけが、その場を満たしていた。


 そんな時間がどれほど続いただろうか。


「……過去って」


 アンジェがぽつりとこぼす。


「過去って、何なんでしょう。乗り越えるって、何なんでしょう。私、何をすれば良いんでしょうか」


 ともすれば独り言にさえ思えそうな小さなつぶやき。その言葉も残響も潮風が流してしまってなお、しばらくの間無言が続く。


 アンジェはふと、シャルロットの横顔を盗み見た。その表情は穏やかで、何かを考えているようにも、迷っているようにも見えた。


 それからまた、しばらくの沈黙が流れて。


「……わたくしにも、わかりませんわ」


 シャルロットが静かに口を開く。


「アンジェ様の過去について、わたくしはどうこう言える立場にございません。アンジェ様が大切にされたいことは、そのまま大切になさるのが良いと思いますわ」


 シャルロットの顔がアンジェへとむけられる。真上に近くなった月が、彼女の柔らかな微笑みを優しく映し出す。


「ただ一つ、わたくしが言えるとすれば……わたくしも、お姉様もシルヴィも、メリッサもルシールも皆、アンジェ様のことを愛しているということですわ」


 アンジェの手がシャルロットに絡めとられる。触れた手の甲の冷たさにシャルロットははっとして、すぐに両手でその手を包み込んでくれた。海風にあたり続けて冷たくなっていた手のひらがじんわりと温かくなっていく。


「ともに乗り越えましょう。大丈夫、アンジェ様にはわたくしがついておりますわ」


「……はいっ」


 何かが進んだわけではない。何かが解決したわけでもない。それでも、シャルロットの真摯な言葉は、アンジェの心を心地よいぬくもりで満たすには十分だった。


「……シャル様、ぎゅってしてもいいですか?」


「ふふ、わざわざ確認など不要でしてよ?」


 抱きしめたシャルロットのぬくもりがアンジェの心に沁みていく。それはまるで、アンジェの心の中の暗闇を少しずつ溶かしていくかのようだった。


 ――どうすればいいのかは、まだわからないけど……どれだけ時間がかかってもいいから、ちゃんと向き合おう。考えよう。


 シャルロットの体温を全身で感じながら、アンジェはそう心に決めた。


 一つに重なった影を、広大な海と静かな月だけが見つめていた。


===


セリーヌ「……あれ? 私の水着描写ってないんですか?」


 というわけで第9章、これにて完結です。もし楽しんでいただけておりましたら、★やフォローで応援いただけると嬉しいです……!


 まずは改めまして、本章途中で更新が滞り申し訳ございませんでした。

 いろいろとあった件はもう大丈夫なのですが、もともと少々無理をして隔日更新を維持していた部分がありましたので、今後は4日に1話ペースで適度に息抜きしながら進めていこうと思っております。

 引き続きよろしくお願いいたします。


 さて、本章ではアンジェのお泊りという非日常の中で何とあの聖龍様と偶然にもめぐり合うという事象を通じ、アンジェの前に改めて彼女が抱えている問題が提起される章でした。

 味方はいっぱいいる、過去の日々が無駄でないことも明らかになった、それでもまだアンジェに力が戻らない要因とは何なのか? これから彼女は悩むことになります。ぜひとも温かく見守ってあげてください。


 無邪気に遊びまわるシルヴィにものすごい勢いで馴染んでるルシール、何気に意気投合(?)しているセリーヌとメリッサ、意外とむっつりなアンジェにジェラシースパークシャル様と我ながらに濃い章になりました。

 その結果がこの1章での話数15話。これまでの中で断トツ、そりゃ濃いわけですね。

 まぁこれでもカットしたエピソード多数なわけですが、そのあたりはまたどこかでお出しできれば。


 次章では帝国側の動きがいよいよアンジェの耳にも漏れ聞こえてきます。その時アンジェは何を想うのか。


 次章もお楽しみに!


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