第2話:働き者の聖女様
「……メリッサ、この後の予定ってどうなってましたっけ?」
あわただしく走り出した馬車が、村民たちの視界から消えたころ。その馬車に揺られながらぼんやりと外の景色を眺めていたアンジェが、傍らに控える侍女のほうに目を向けて問いかけた。
クラシカルなメイド服に身を包んだ、黒髪の侍女――メリッサは、髪色と同じ瞳で馬車の進行方向を見据えたまま、淡々と答える。
「南西部の耕作地の視察および豊穣の加護の付与、続いて近隣の河川の浄化。これらが終わり次第帝都に戻り、墓地の浄化と守護結界の点検、それから夜会の予定もございます」
「あはは……今日もお仕事いっぱいですね」
アンジェは苦笑しつつ、座席の背もたれにぐっと体を預けた。
メリッサが告げた予定を全てこなすには、先の農村の一軒と同様に迅速に用件を済ませたうえで、一日中馬車に揺られていなければならない。日々このような仕事をこなし慣れっこになっているアンジェとはいえ、いざ改めて確認すると気が滅入る、というのも無理もない。
とはいえ、姿勢を崩し、いささかだらしなくも見えるアンジェの姿は、教育係も兼ねている使用人には目に余るのだろう。ちらりと隣に視線を向けたメリッサがわずかに眉根を寄せた。
が、間近で見る彼女の顔――化粧では隠し切れない目の下のクマを見て、口をつぐむ。そうしてしばし、逡巡するような間を置いてから。
「これも、『聖女』として必要な職務です。どうかご理解を」
彼女はこれまでに幾度となく繰り返してきた殺し文句で、主人をやんわりとたしなめるに止めた。
『聖女』。
それは、この国――ドゥラットル帝国において、皇帝の次に尊い命とされる存在だ。
かつて未開の地であった大陸南部。豊富な海洋資源と肥沃な大地がありながら、魔物が跋扈するために人が寄り付かなかったそこに、初代皇帝はその勇猛さでもって果敢に挑んだ。
熾烈な戦いの末に初代皇帝は勝利をおさめ、この地にドゥラットル帝国を建国する。そして、激しい戦火に疲弊した大地を初代聖女が祝福し、帝国は今日までの繁栄の基盤を手に入れた。皇帝と聖女は婚姻を結び、永く平和な世を築いたという。
すなわち、皇帝がこの国の父であるとするならば、聖女はこの国の母であるのだ。ゆえに、聖女もまた、皇帝とともに信奉の対象となっているのである。
そして、皇帝が大きな権力と引き換えに国を守り民を導く重大な義務を負っているのと同様に、聖女にもまた重要な義務がある。
「大丈夫、わかってますよ。この国を豊かにすることこそが、私の義務ですから」
聖女の力は、建国の力そのもの。その力を私利私欲のために使うことは許されない。
そのため、聖女は高位の身分と生活の保障、更には次期皇后という肩書までもをを得られる代わりに、その力を以て国内の様々な事象に対処することを求められるのだ。
結果として、アンジェは神託を受け聖女となった五歳のころから今日までの十年間、領土内を毎日のように飛び回っては聖女の力を行使する日々を送っているのだった。
「……お疲れであれば、もう少し公務を減らすことも可能かと」
「……珍しいですね、メリッサがそんなこと言うなんて」
鉄仮面な侍女の思わぬ提案に、アンジェはまじまじと彼女を見る。相変わらず顔は進行方向を向いていて、感情を読み取ることはできない。
「むしろ、メリッサが滅茶苦茶お仕事詰め込んでるんだと思ってましたよ」
「人聞きの悪いことをおっしゃらないでください」
メリッサの声にほんの少しだけ不機嫌さが滲んだ。
「アンジェ様が私に公務遂行の段取りをお任せくださっているので、その範囲内で極力ご負担の少ないように予定を組んでおります。しかしながら、ここ数年はそのような小細工が効かないほどに公務の依頼の絶対数が多いのです」
「そうですね。以前は忙しくても学校に顔を出すことはできてましたけど、ここしばらくは帝都に帰るのが精一杯ですもん」
はぁ、とため息交じりにアンジェがぼやき、目を閉じる。瞼の裏に、数少ない何人かの友人の顔が浮かんでは消えていく。
この国では、魔法の素質を持つ者は貴族・平民の別なく国立の魔法学校に通うことになっている。それは聖女であるアンジェであっても例外ではなく、むしろ将来の人脈のために元現皇帝からも推奨されているほどが。
「陛下に陳情なさってはいかがでしょうか。私のような一介の侍女ではお目にかかることすらかないませんが、アンジェ様が直々にとなれば話は別かと」
「そうですね……考えておきます」
「……アンジェ様」
気のない返事というものは、思いのほか相手に伝わるものだ。ピクリと眉尻を上げたメリッサに、慌てたようにアンジェが弁明する。
「ち、違いますよ! メリッサが心配してくれてるのはわかってますし、一度もろもろを見直す機会は必要だと思ってます」
「……」
メリッサは、まるで本心を見透かそうとしているかのようにじっとアンジェを見つめている。間違いなく美人の部類に入る整った容貌に無表情の組み合わせはなかなかに圧が強いが、アンジェは微塵も臆することなくその瞳を見つめ返して。
「でも、私を頼ってくれる……必要としてくれる方がいらっしゃるのなら、私は私の出来る全力でそれに応えたいんです。聖女である前に、一人の人間として」
混じりっ気のない純粋な微笑みに、日ごろから彼女に付き従っているメリッサでさえ、思わず息を呑んだ。
「……御身に何かあってからでは遅いのです。くれぐれも、ご無理だけはなさらぬよう」
「はい。ありがとう、メリッサ」
最小限の忠告に留めてくれた侍女に、アンジェは感謝を伝えて再び馬車の窓の向こうへと目を向けた。
まだ山間部ということもあり地平線が遠く、朝の陽光に照らされた大地が鮮やかな緑色に輝くさまが良く見える。ここからは望めないが、その先には豊かな海が広がり、それぞれの場所に尊い人々の営みがあるのだ。その営みを守り、豊かにする力が、アンジェにはある。
――大丈夫。私はこの力で、みんなを幸せにするんだ。それが、この力に選ばれた、私の使命だから。
アンジェは改めてそう心に誓い、しかしながら溜まった疲労と心地よい馬車の振動には抗えず、いつの間にやら眠りに落ちていくのだった。
彼女は、まだ知らない。
この日、その高貴な思いが、誓いが、あまりにもあっけなく打ち砕かれることを。
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