第13/15話 招かれざる客

(しかし、なぜ酒瓶の破片が床に散乱しているんだ?)

 紺斗は北東にある陳列棚の東端──酒類コーナーに視線を遣った。各段の棚板には、売り物の落下を防ぐために左辺・下辺・右辺にわたって柵が設けられている。といっても、とても簡素な構成で、極太の針金が一本、棚板の表面の数センチ上を水平に伸びているだけだ。

 その最上段に置かれている商品が荒らされ、ごちゃごちゃになっていた。ガラス瓶が横転したり紙パックがひっくり返ったりしている。棚板は一部の固定具が外れたらしく、右下に向かって傾いていた。針金もあちこちが歪んだりちぎれたりしていた。

 その棚板の中央付近には防犯カメラが乗っかっていた。天井から伸びている支柱は途中で折れていた。

(砂虎は熊に襲われた拍子に発砲した。その弾が支柱を破壊したことによりカメラが落ち、酒類コーナーの最上段に突っ込んだ。そのせいで並べられていた瓶が押し退けられ、柵を越えたわけか)

 棚の二段目の手前には小さなディスプレイが設置されていた。ビールのCMが延々と流されている。それなりに音量が大きく、わずかに顔を険しくした。

(よし、後は妃乃を目覚めさせるだけだ……! 工具コーナーにはハンマーがあった、あれで助手席のウインドウを割ってドアの内側からロックを解除しよう)

 唐突に肩から先に込めていた力が抜けた。腕を下ろす、というより落として伸ばす。ライターやスプレー缶が手から離れた。

(うう……熊を追い払えて……安心したせいか……? 力が……入らない……)

 しばしの間、「妃乃を起こして消防に通報してもらう」という目標も忘れて放心した。我を取り戻したのは、ぶろろろろ、という音が外から聞こえてきていることに気づいたためだ。それはどんどん大きくなっていた。

(車だ……!)顔を輝かせた。(あの車のドライバーに救急車を呼んでもらおう!

 そうと決まれば、早く駐車場に出て助けを求めないと。あのドライバーは店に軽SUVが突っ込んでいるのを目撃するだろうが、だからと言って警察なり何なりに通報してくれるとは限らない……むしろ関わり合いになりたくないとか面倒くさいとかいった理由でスルーする可能性のほうが高い)

 紺斗は立ち上がろうとした。しかし、完全に脱力した状態から復帰するのは短くない時間を要した。

 なんとか手足に力を込め、指や手首足首を操れるまでに回復した。防犯ミラーに目を向け、外の光景を確認する。ちょうど道路の西から車が姿を現したところだった。赤いセダンで、非常に低い速度で走ってきていた。

(通り過ぎる前に駐車場に出ないと……!)

 数秒後、ようやく腕や脚を動かせるようになってきた。まだやや痺れている感じがするが、贅沢は言っていられない。立ち上がろうとして、北の壁に設置されているショーケースの扉に右手をついた。

 防犯ミラーに視線を遣る。セダンが相変わらずの低速で駐車場に進入してきたところだった。

 口笛でも吹きたくなった。(これはもう確実に、少なくとも警察には通報してくれるだろう……! ここまでして何もせずに帰る、なんてありえない)

 セダンは西端に位置する駐車スペースに停まった。ドライバーが降車し、早足で玄関に向かってきた。

(おおっ、店に来てくれるぞ! これなら救急車も呼ぶように頼める)

 ドライバーがコンビニに入ってきた。「なんだこりゃ?」と呟く。男の声だ。「いったい何が起きたんだ?」

 紺斗は助けを求めようとして口を動かした。しかし言葉を発するのは寸前で思いとどまった。ドライバーの顔に見覚えがあったからだ。

 口を閉じ、防犯ミラーに映り込んでいるドライバーの容姿を観察した。見たところ二十代後半で、利己的そうな目つきをしている。ウルフカットに整えられた明るい茶髪からは、お洒落というより軽薄な印象を受けた。身に着けている灰色系統の長袖シャツや長ズボンのデザインも趣味が悪く、町中で見かけたなら距離をとっているだろう。

(……間違いない)息を呑んだ。(砂虎のスマホのロック画面に設定されていた写真に、砂虎や埴典と一緒に写っていた男だ……! たしか、名前は辰晴だったか?)

「砂虎……? す、砂虎か……!?」辰晴は目を白黒させた。砂虎の死体に近寄る。「……駄目だ、どう見たって生きちゃいねえ。

 だがいったい何があったらこんな惨い死に方をするんだ? そりゃ、コンビニ強盗なんて決して安全な行為じゃねえが。おれのほうも大変だったしな。なんとか金庫の金を盗むことには成功したが……店員が抵抗したから、かっとなって撃ち殺しちまったよ」

(やはりこいつ、砂虎や埴典の犯罪仲間か)閉じていた口をさらにつぐんだ。(なら助けを求めるわけにはいかない。トドメを刺されてしまう。出て行くまでここに潜み続けよう)

「よく見たら床に動物のでかい足跡が血で付いているな。さては熊にでも襲われたか?」

 辰晴は砂虎の死体のそばにしゃがみ込んだ。衣服を調べ始める。

 紺斗は可能な限り息を殺して隠れ続けた。それでも、なにしろ腹に銃創を負っている、小さくとも呼吸音が漏れていたが、気づかれる様子はなかった。近くで流れているビールのCMの音声と混じっているおかげだろう。

(だが、もし何かの拍子にこの通路を覗き込んできたら、即座におれの存在を知ってしまう。そうならないように祈るしかないか? 何か手を打つにしても──)

 視界の左の隅で何かが動いた。(……!?)そちらに視線を遣った。

 北東にある陳列棚の東端の最上段は棚板が右下に向かって傾いている。その真ん中には「裏銀座うらぎんざ」という日本酒の紙パックがあり、右上隅には「ドゥムキー」というウイスキーのガラス瓶があった。ドゥムキーは右斜めに傾き、棚板の右辺の針金にもたれかかっていた。

 次の瞬間、裏銀座が棚板の右下隅に向かって、ずず、と二センチばかり滑った。金属柵の、このまま裏銀座が滑っていけば到達するであろう部分はちぎれて消失していた。

(不味いぞ……紙パックが床に落ちればとうぜん大きな音が鳴る。ビールのCMの音声でも誤魔化せないだろう。辰晴が不審に思い、この通路を覗き込んでくる可能性が高い)

 裏銀座は再び、ずずずず、と滑りだした。棚板の端との距離は五センチを切り、四センチを切り、三センチを切った。

(止まれ止まれ止まってくれ止まってくれ止まってください止まってください……!)

 裏銀座は棚板の端との距離が一センチを切ったところで止まった。

(ふう……)紺斗は静かに安堵の息を吐いた。

 裏銀座は再び、ずず、と滑りだした。そのまま棚板の端を過ぎ、落ち始めた。

(ちょっ──!)

 左手を素早く伸ばした。裏銀座が空中にある間に掴む。紙パックの底面と床とは一センチ弱しか離れていなかった。

(はあ、助かった……)

 紺斗は裏銀座を近くに置いた。辰晴の様子を確認するため、天井の防犯ミラーを見ようとして顔を上げた。

 ドゥムキーが棚板の右端を越え、落ち始めるところだった。

(──)

 思考している余裕などなかった。急いで左手を伸ばす。なんとか触れることに成功した。

 しかしただ指先が触れただけだった。ガラス瓶は引き続き落下していくと、床に衝突して割れた。がちゃあんっ、という音が辺りに響き渡った。

 辰晴の「何の音だ?」という独り言が聞こえてくる。

(不味い、この通路を覗き込まれてしまう……その前にあれをセッティングしないと!)

 急いで両手を動かし、付近に転がっている紺の折り畳み傘を拾った。ビールのCMの音声で誤魔化せるよう、なるべく大きな音を立てないように気をつけつつ、包装を取り去ってカバーを外す。ハンドルを引き出すと、開いた傘を体の前に置き、腰から上を後ろに隠した。

 防犯ミラーに視線を遣る。ちょうど辰晴がトイレの扉の前に立って通路を覗き込んできたところだった。

「何だ、ありゃ」辰晴の独り言が聞こえてくる。「店員か? 姿が見えねえから砂虎が殺したんだろうとは思っていたが。床に血で線が引かれている……傷を負いながらも逃げて、あそこで息絶えたってことか?」

(床の血は、おれのじゃなくて熊のだが……知る由もないわな)

 紺斗は防犯ミラーを睨みつけ続けた。頼むからそのまま納得してくれ、おれの生死を確かめようとしないでくれ、とひたすら祈った。

「まあ、死んでくれているならよかったよ。もしかしたら逃げたんじゃねえか、警察に通報したんじゃねえか、って不安だったからな」

 辰晴はトイレの扉の前から離れた。紺斗は安堵のあまり涙を零しそうになった。

(助かった……ドゥムキーが落ちた時はどうなることかと思ったが。まさか柵を越えるなんて。きっと、ドゥムキーのもたれかかっていた部分が歪んで、傾斜角度が増大し、そのままひっくり返ってしまったんだろう)

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