第12/15話 獲物

(こっちに来ているだと……!?)下唇を噛んだ。(……いや、冷静になれ。成小路の死体に引き寄せられているだけだろう。おれを認識している可能性は低い)

 その時、未だに空の弾倉を持っていることに気づいた。捨てるのも惜しいように思い、スラックスのポケットにしまう。拳銃はいつでも構えられるように右手に握っておくことにした。

(だが安心はできない。もしかしたら、熊は成小路の死体の前に着いた後、気まぐれにこの通路を覗き込んで、おれの存在を知るかもしれない。ここから離れないと)

 紺斗は移動を開始した。防犯ミラーで熊の様子を確認しながら、音を立てないように注意して東に向かう。今、熊はカウンター前の通路、北西・準北西にある陳列棚の間あたりにいた。

(よし、北東の陳列棚の手前を右折して──)

 突然、びりりり、という電子音が鳴り響き始めた。

(なっ、何だ……!?)

 足を止め、音源に視線を向けた。左手首の腕時計だ。そのアラームが動作しているのだ。

(深夜アニメを見るためにセットしていたやつか……!)

 紺斗は右手で──拳銃を左手に持ち替えることも思いつかないほど慌てながら──腕時計を触った。音を止めようとする。手が焦燥のせいか滑ったり緊張のせいか震えたりして、なかなか上手く操作できなかった。

 十数秒後、ようやく静かになった。おそるおそる顔を上げ、前方に目を遣った。

 心臓が物理的に跳ね上がったように思われた。熊がトイレの扉の前にいて、紺斗のいるほうに顔を向けてきていたのだ。明らかに紺斗の存在を認識していた。

(気づかれた……! 頼むからどこかに──)

 行ってくれと願うのはやめた。熊が通路に入ってきたためだ。

 紺斗は拳銃のグリップを両手で握り締めた。銃口を熊に向ける。

(弾は装填されていない、襲いかかってこられたら一巻の終わりだ)

 しかしその心配は杞憂だった。熊は紺斗のいるほうにやってきてはいたが、非常に遅かったのだ。

(脅しは上手くいっているな。「この人間もさきほどの人間と同じように攻撃してくるのでは」と警戒してくれているんだろう)

 通路を東に向かって進んでいった。熊に背を見せないよう、後ろ歩きをする。

(このまま売り場の南東まで行って、バックヤードに入ろう。出入口を閉めれば熊の接近を防げるかもしれないし、そうでなくても売り場よりは身を隠せる場所が多い)紺斗は北西・北東の陳列棚の間、丁字路のようになっている地点に差しかかった。

 次の瞬間、右足が何かを踏んづけ、後ろに滑った。

(うわっ──!?)

 どうすることもできなかった。体勢を崩し、床に尻餅をつく。腹の銃創が痛んだが、さいわいただちに安静にするほどではなかった。

 思わず後ろを振り返り、睨んだ。成小路のライターが東に向かって滑っていくところだった。さきほど踏んづけた物に違いなかった。

(いや、いや、腹を立てている場合じゃない……!)

 顔を前に向けた。熊との距離はまだあまり詰まっていなかった。

 右手の拳銃を熊に突きつけ、左手を床につき、脚を曲げる。それ以降は、尻を滑らせるようにして、北の壁と北東にある陳列棚に挟まれた通路を東に向かって進み始めた。熊の通った後の床には、左の前脚の銃創から流れ出た血で赤い線が引かれていた。

(できれば歩きたいが、腹の怪我のせいで立ち上がるにはどうしても時間がかかる。この体勢のまま移動したほうがいいだろう)

 その時、辺りになにやら芳醇な香りが漂っているのを感じた。

(何だ?)

 後ろを振り返り、まぶたを全開にした。床の上──北東にある陳列棚の東端の前──にガラス片が散乱しているのが視界に入ったためだ。

 よく見るとガラス片はいずれも瓶の一部だった。中には原形を留めている円筒形の物もあり、その側面にはワインのラベルが貼られていた。床には酒が水溜まりのように広がっていた。

 紺斗は北東にある陳列棚の東端に視線を遣った。そこは酒類コーナーとなっていて、各段には日本酒だのウイスキーだのが並べられていた。

(酒瓶が棚から落ちて割れたのか。いったいどうして──いや気にはなるが今は気にしている場合じゃない!)

 慌てて移動を再開した。熊との距離はまだあまり詰まっていなかった。

(あんなガラス片が散乱している所なんて、尻餅をついたままじゃ通れない。かといって立ち上がるのは時間がかかる、その最中に襲われてしまうだろう。何かないか、この状況を打開するのに役立つ物は──)

 辺りに視線を巡らせた。北の壁のショーケースにはブラックコーヒーだのグリーンスムージーだのが、北東にある陳列棚の北側には殺虫スプレー缶だの防虫剤だのが並んでいた。

(あれだ……!)

 紺斗は殺虫スプレー缶を取った。さらにその後、移動を続けながら成小路のライターを拾った。

 しばらくして、ついに売り場の北東、行き止まりに到達した。紺斗は東の壁のショーケースに背をもたれさせた。脚を曲げ、拳銃を床に置く。前からは熊がゆっくりと迫ってきていた。

(早く準備しないと……!)

 まず、殺虫スプレー缶を使用可能な状態にした。右手で缶を持ち、腕を前に伸ばす。ボタンに人差し指を当て、ノズルを前に向けた。

 次に、左手に持ったライターをノズルの前に配置した。今までライターを使った経験はなかったが、そう難しい仕組みでもなく、大して時間をかけずに点火に成功した。

 その時、熊は紺斗のすぐ前にいた。火に対して好奇心でも抱いたのか、顔をライターに近づけてきた。

(食らいやがれ!)

 紺斗はスプレー缶のボタンを潰さんばかりに押し込んだ。中身を噴射しだす。

 即座にライターの火が燃え移った。いわゆる火炎放射だ。火炎は熊の鼻や口を覆い、みるみるうちに顔じゅうに広がっていった。

 熊が、ぐおおおお、と大きく吠えた。それでも怯まずに攻撃を続けた。手に、火傷を危惧するほどの高熱を感じていたが、攻撃を途切れさせはしなかった。

 熊は後ろを向くと、西へと突進し始めた。顔や背の一部に火が燃え移っていた。

(熊は砂虎の撃った弾によって流出したアルコール飲料を被っていた……それに引火したんだろう)

 紺斗は火炎放射をやめた。熊は北西にある陳列棚の角を左折すると、カウンター前の通路を南へと駆けた。玄関に到達すると、開いている最中の扉にぶつかりながらくぐり、外に飛び出した。

(追い払えた……のか?)

 天井の防犯ミラーに視線を遣った。熊は雪の積もった地面を転げ回ったが、火はなかなか消えなかった。やがて駐車場を出て道路の南側のガードレールに衝突すると、乗り越え、崖の下へと落ちていった。

(やったぞ! ……しかしあの熊、おれの存在に気づいたとはいえ、真っ先におれを食べようとするとはな。てっきり成小路の死体のほうを優先するかと思ったんだが。

 ……そうか、害獣忌避剤のせいか? 昨日、成小路の死体があるあたりの床に撒かれたやつ。もちろん掃除はしたが……残っていたわずかな臭いを感じ取ったのか?)

 紺斗の前では、床にビニールの長傘や紺の折り畳み傘、薄緑色のポンチョなどが散乱していた。北東にある陳列棚の北側、東端の手前にある雨具コーナーから落ちた商品だ。熊が火炎放射から逃げようとして後ろを向いた時、棚にぶつかったためだ。

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