第11/15話 犠牲

(とにかく妃乃を起こして消防に通報してもらわないと……!)

 準北西にある陳列棚の西端の棚板を掴み、支えにして立ち上がった。

(運転席のドアの窓から妃乃に呼びかけようか? ……いや、運転席は右側に位置している。車体の後部が外にはみ出ているから、ドアの前に移動するには大きく回り込まなければならない。助手席のドアの窓から呼びかけよう)

 紺斗は助手席のドアの前に行き、ウインドウのガラスを叩いた。「妃乃」と可能な限り大きな声を出す。「起きろ、頼む、起きてくれ」

 しかし妃乃は目を覚まさなかった。

(無理か……。中に入ることさえできれば、カーオーディオに登録されているメイロン行進曲を再生して妃乃を起こせるんだが。

 仕方ない、ウインドウを壊して手を入れてドアの内側からロックを解除しよう。車上荒らしのような行為だが、他でもない命が懸かっているんだ、躊躇している場合じゃない。

 そうと決まればガラスを割るための道具が要るな。ええと、工具コーナーは北西にある陳列棚の北側、西端の手前あたりだったな……)

 紺斗は移動を開始した。その途中、トイレの扉の前に差しかかったところで、南のほうから、うううう、という唸り声のような音が聞こえてきた。そちらに視線を遣る。

 悲鳴を上げそうになった。駐車場に熊が一頭いたためだ。ゆっくりと玄関に近づいてきていた。

(午後八時頃に出没したっていう熊か……!? 肉まんの匂いに引き寄せられてきたんだな。不味いぞ、襲われたらひとたまりもない。早くやつの視界から外れないと!)

 急いで北の壁と北西にある陳列棚に挟まれた通路に入った。その時、床に転がっていたライター──成小路の持ち物──をいずこへと蹴り飛ばしてしまったが、気に留めている余裕などなかった。

 工具コーナーにはロープやマグネットフック、そしてハンマーなどが並べられていた。喜んでいる場合でもなく、陳列棚の陰から顔を出し、熊の様子を観察した。

 玄関のセンサーが反応した。紺斗から見て左の扉は軽SUVがつっかえるせいで開かなかったが、右の扉は全開になった。熊はそこを通って入店すると、床に散らばっている肉まんを拾い食いし始めた。

(妃乃は車内にいる、襲われる可能性は低いだろう)少しだけ肩の力を抜いた。(満足したらさっさと出て行ってくれよな)

「うう……」

 そんな唸り声が熊のいるほうから聞こえてきた。ぎょっとして、そちらに視線を遣った。

「うううう……」

 その時、床に仰向けに倒れている砂虎が、口をもぐもぐと動かしたり、眉をくいくいと上げ下げしたり、手をぴくぴくと震えさせたりしていることに気づいた。

(あいつ、目を覚まそうとしているのか……?)

 砂虎はゆっくりと両手を動かすと、後頭部と床の間に挿し込んだ。「ううーん……」という弱々しい唸り声を漏らす。まぶたが四分の一ほど開いた。

 一秒後には両目を、ばちっ、と全開にした。即座に上半身を起こす。腹の上に乗っかっていた肉まんが後ろへ吹っ飛んでいった。

「ぐおお……!」

 顔を歪め、両手で後頭部を押さえた。床に打ちつけた時に出来た傷が痛んだに違いなかった。

 熊は砂虎の背後に移動し、肉まんを口に入れた。くちゃ、くちゃ、という咀嚼音が鳴り始めた。

「何の音だ?」

 砂虎は後ろを振り返った。「うわっ……!?」という大声を出す。熊が、かふっかふっ、と返事をした。

 砂虎は周囲を見回した。近くに拳銃が転がっているのを見つけると、熊に背を向けないよう注意しながらそこへ行き、拾った。両手でグリップを握り締め、銃口を熊に向けた。

「来るな……来るんじゃねえ……」

 そんなことを言ったが、とうぜん通じなかった。熊はのそのそと砂虎に迫りだした。床に散らばっていた肉まんは、すでにすべて食べられていた。

「来るなっつってんだろ……!」

 砂虎は二歩、後退した。熊も二歩、前進した。

(砂虎が気絶していた時、腹の上には肉まんが乗っかっていた。きっと熊は服に染みついた肉まんの匂いに引き寄せられているんだろう)

 熊が、ぐるるるる、という大きな唸り声を上げた。殺意とまでは言わないまでも、敵意がじゅうぶんに感じられた。

 どおん、という音が店じゅうに響き渡った。砂虎が発砲したのだ。

 弾は熊の左の前脚に当たった。銃創が生じ、血が流れ出始めた。

 砂虎は間の抜けた顔になった。「あ、しまっ」という台詞も漏らした。唸り声に驚いた拍子に誤ってトリガーを引いたに違いなかった。

 熊は、がああああ、と咆哮した。強烈な殺意のみなぎった声だった。

 砂虎は一瞬だけ怯えた表情を浮かべた後、即座に顔を引き締めた。「こうなりゃ……!」トリガーを引きまくった。一発目は床に穴を開け、二発目は熊の左耳の縁を欠けさせた。三発目は準南西にある陳列棚の西端のショーケース内に飛び込み、最上段に並べられていた缶アルコール飲料のうちいくつかを吹っ飛ばした。流れ出た酒が熊の顔や背にかかった。

 四発目が撃たれる前に決着がついた。熊が右の前脚を大きく振り、砂虎の胸や腹を引き裂いたのだ。血液や脂肪が飛び散り、肋骨や臓器の破片が零れ落ちた。

「──」

 どおん、という音が轟いた。砂虎が発砲したのだ。

 しかし、熊に攻撃されながらも一矢を報いた、という形容よりは、熊に攻撃された拍子にトリガーを引いた、という形容のほうが適切だった。その証拠に、銃口は熊ではなく明後日の方向──売り場の東のほうを向いていた。

 紺斗の背後で、ばきっ、という何かが折れる音や、がちゃんっ、というガラスがぶつかり合う音、ぱりっ、ばりん、というガラスが割れる音などが鳴った。弾が設備あるいは商品に当たり、破壊したに違いなかった。

 砂虎は崩れ落ち、俯せになった。それ以降はぴくりとも動かなくなった。胴から溢れ出た血が四方八方に広がっていた。

(死んだな……痛がったり呻いたりもしていないし)

 拳銃は発砲の反動により砂虎の手からすっぽ抜けていた。宙を吹っ飛んでいくと、紺斗の近くに落ちた。

(おおっ、拳銃だ! これで熊を攻撃できる……砂虎は拳銃を持っていたにもかかわらずやられてしまったわけだが)

 紺斗は拳銃に近寄った。カウンターの前、砂虎の死体があるあたりからはさまざまな音が聞こえてきていた。ぱきぱき、という骨折音や、ぶちぶち、という裂肉音、ぐちゃぐちゃ、という咀嚼音などだ。熊が死体を食らっているに違いなかった。

 拳銃のそばには弾倉が転がっていた。床に衝突した拍子に外れてしまったのだろう。

(どうやってセットすればいいんだ?)弾倉を拾い、まじまじと眺めた。(えっ、空っぽだぞ……!?)思わず口を半開きにした。

 数秒後に我に返ると、拳銃を取り上げ、危険を承知で銃口を覗き込んだ。

(なんてことだ、こっちにも弾は残っていない。これじゃあ撃てるわけもない。こうなりゃ捨ててや──いや)頭を左右に振った。(落ち着け……たしかに発砲することはできないが、脅しに使うことはできる。もし熊が近づいてきたら、駄目で元々だ、こいつで威嚇してやろう)

 いつの間にか各種の不快音はやんでいた。熊が食事を終えたのだ。

 熊が、ぐるるる、と唸るのが聞こえた。どこか不満そうな印象を受ける。少なくとも、空腹を解消できて満足している、とは思えなかった。

(まさか、まだ腹が減っているのか?)唾を飲み込んだ。(不味いぞ……おれの存在を知ったら襲いかかってくるかもしれない)

 もはや陳列棚の陰から覗き見ることも怖く、天井の防犯ミラーに視線を遣った。熊はカウンター前の通路にいて、ゆっくりと北に向かっていた。

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