第10/15話 エンディング1
東本町伽織は新聞記事を眺めていた。発行された日──二十年前の明日──に本紙から切り抜き、ファイルに収めておいた物だ。「昨日の深夜、コンフォートストア金内店で強盗事件が発生した」「アルバイト店員の新北野紺斗さん、成小路
(けっきょく、見つからないままだったわね……)
ファイルをデスクに置き、溜め息を吐いた。椅子の後ろ、壁に設けられている窓の外からは、雨音が絶え間なく聞こえてきていた。さきほどは雷の音まで轟き、反射的に振り返ったが、外は真っ暗で何も見えなかった。
伽織はアメリカ合衆国のカルフォルニア州にある研究所の主任室にいた。部屋の隅に設けられているテレビではニュース番組が流されている。アナウンサーが「北極海海戦にて勝利」だの「ウィーンにて化学兵器によるテロが発生」だの、さまざまなことを喋っていた。
(……へえ、共和国軍に占領されていた九州地方、奪還することに成功したんだ。それはよかっ──)
扉をノックする音が鳴った。伽織はテレビの電源を切り、椅子から立ち上がった。
伽織の出で立ちは以前と変わらなかった。ただし目には濃い隈が出来、髪には白い毛が多く交じり、服はひどくくたびれていた。調子を尋ねるまでもなく疲れ果てていることがわかる。
無意識的に懐に触れて拳銃の存在を確かめつつ──施設のセキュリティを誤魔化して持ち込んだ物──、扉を開けた。その向こう側には小島がいた。
「どうも、東本町さん」
小島の出で立ちも以前と変わらなかった。ただし髪も衣服の生地もとても薄くなっていて、失われる寸前だった。
伽織は眉間を少しだけ弛緩させた。「入って」
二人は部屋の応接スペースに移動した。脚の低いテーブルを挟むようにして置かれている二台のソファーに、向き合うようにして腰かけた。
小島は「さっそくですが例の件の打ち合わせを始めましょう」と言い、ズボンのポケットから小さく折り畳まれた紙を二つ取り出した。伽織はそのうちの片方を受け取り、展開した。そこには、約三時間後に「トラウトマシン」を起動する件の情報が細かい字でびっしりと書かれていた。
伽織は手に持った紙を見ながら喋り始めた。「じゃあ、電源を入れる前のチェック項目についてだけれど──」
打ち合わせは一時間ほど続いた。
伽織は赤い下線が引かれている文章を読みながら「──というわけで、もしエラーコード129が表示された場合はスイッチE6をオフにしましょう」と言った。
「わかりました」
「ええと、話しておくことはこれで全部ね。小島くん、他に何か確認事項はないかしら?」
「いえ、ありません」小島は紙を元どおりに折り畳むとズボンのポケットにしまった。「……それにしても、本当にこんなSF小説のようなことが実現できるなんて。数年前までは半信半疑でしたよ」
「わたしも同じ気持ちよ。まさか、ナハトムジーク予想の第一予想から第四予想まですべて、わたしが生きている間どころか現役の研究者として活動している間に、他でもないわたしの手によって解決されるとはね」
伽織も紙を同じようにしてスカートのポケットにしまった。テーブルの上の器に手を伸ばす。一昨日に自宅近くの商店で購入した、なんとかいうチョコレートスナック菓子──プチろまんチョコを粗悪に模倣した品──が二個入れられていた。
「よく、戦争は科学を発展させる、とは言われるけれど……それにしたって、ここまでの成果を挙げられるなんて、渡米した時は思っていなかったわ。さすがはアメリカ、資金も資源も潤沢よね」
器からチョコレートスナック菓子を一つ取り、食べた。
「おかげでトラウトマシンの製作も順調に行えたわ。研究所の上層部の目を盗んだり軍の目を誤魔化したりするのが、とても大変だったけれど」
「たしかに、サポートは日本にいた時とは比べ物になりませんね」小島が喋る。「わたしとしては、世界大戦が始まった頃は妻も娘も健在でしたので、海外への脱出なんて考えもしませんでしたが……」小さく溜め息を吐いた。「二人とも例の凶悪兵器の犠牲になりましたからね」
「ああ、あれね……」切ない気分が押し寄せてきた。「夫も巻き込まれたわ。本当に散々だったわね。北通研究所も隣の公園も、跡形もなく消し飛ばされてしまったし」
「しかし希望が完全に失われているわけではありません」小島は力強い調子の声で言った。「トラウトマシンの製作に成功しましたからね。なにせあれは時間を巻き戻せるのですから」
「任意の人間の意識や記憶を巻き戻しの対象から外せたらよかったんだけどね。それが可能なら、わたしや小島くんが今の意識や記憶を保持したまま過去に行くことで、世界大戦の勃発を阻止──とまでは言わないまでも、戦禍を被らないように上手く立ち回れるかもしれないのに。
でも、けっきょくトラウトマシンにはそんな機能はどうしても実装できなかった。機械を起動すると、意識も記憶も、時間も空間も、生も死も、一切合切が巻き戻ってしまう」
「しかし無意味ではありません。時間を巻き戻す前に発生した出来事は、再びその時を迎えたらまったく同じ内容で発生する、とは限りませんからね。
ほら、前に東本町さんが説明してくれたじゃないですか。例えば、二〇一〇年一月一日の午後八時、わたしはラスベガスのカジノにいて、サイコロを振って四の目を出したとします。そして、二〇二〇年一月一日にトラウトマシンが起動して、時間が二〇〇〇年一月一日に巻き戻った。その十年後、とうぜんわたしは二〇一〇年一月一日を迎えるわけですが、前回と同じ行動をとっているとは限らない。ラスベガスのカジノではなくカリフォルニアのカジノにいるかもしれないし、あるいはカジノではなくレストランにいるかもしれないし、極端な話アメリカではなく日本にいるかもしれない。仮に、同じカジノにいて同じサイコロを振る場合でも、四の目ではなく五の目や六の目が出るかもしれない……」
「そうね、そのとおりよ」
その後しばらく雑談を交わしてから打ち合わせは終了した。小島は退室し、伽織はデスクに戻った。
(トラウトマシンを起動すれば、時間はちょうど二十年分巻き戻る……つまり、コンビニ強盗事件があった日の夜になる。もしかしたらその時点ですでに強盗が店に来ているかもしれないわ。今度は妃乃が事件に巻き込まれなければいいんだけれど)
新北野紺斗は内心で(これが車を呼び止める最後のチャンスだったっていうのに……!)と呟きながら顔を上げ、天井の防犯ミラーに目を遣った。
紺斗はコンフォートストアの金内店にいた。準南西にある陳列棚の南側、西端の手前だ。西を向いて床に座り、脚を前に伸ばしていた。腹には大きな銃創が出来ていて、ずっきんずっきんと痛んでいた。
防犯ミラーには車が駐車場に入ってくる場面が映っていた。その車には見覚えがあった。妃乃の家のガレージで目にした物と同色同種だ。ハンドルを握っているのも妃乃だ。
(やった、妃乃が来てくれた!)絶え間ない苦痛に襲われているにもかかわらず顔が明るくなった。(そうか、元今里宅から帰る途中に寄ってくれたんだな。よし、妃乃に助けを呼んでもらおう)
そこで、はっ、と気づいたことがあった。
(カウンター前の床には血が広がり、突き当たりには成小路のグロテスクな死体がある。こんな光景を妃乃が見たら、気を失ってしまう可能性が高い……どうにかしないと!)
紺斗は体を動かし始めた。右手で準南西にある陳列棚の南側の棚板を掴んで支えにし、ゆっくりと腰を上げていく。なんとか、よろめきながらも立ち上がることに成功した。
自分の腹の様子を確認する。(少し血が滲んでいるが……この程度なら、妃乃は目にしても失神しないだろう。早く駐車場に出て、中に入らないよう言わないと)
紺斗は西に向かって一歩を踏み出した。その時、軽い眩暈に襲われ、体が左に傾いた。慌てて左に移動し、南西にある陳列棚の北側、西端の手前に位置する棚板に左手で掴まる。転倒することは避けられた。
(早く外に行かないといけないのに……!)
防犯ミラーに視線を遣った。軽SUVは駐車場を東から西に走ってきて右に曲がった。紺斗から見て玄関の左横にある駐車スペースに頭から入ろうとする。
次の瞬間、軽SUVは一気に加速した。左右の前輪が車止めブロックを乗り越えた。
(──!?)
思考するより先に行動した。車と反対の方向、北西に向かって駆けだす。
強烈な眩暈に襲われた。ほとんど倒れ込むようにして膝をつく。その途中、右手が、準南西にある陳列棚の西端に設けられているショーケースの内部に入り、並べられている缶アルコール飲料のうち一本を叩き落とした。
上半身を折って床に手をつき、四つん這いの姿勢をとった。脛や膝、掌が血に浸かったが、嫌がっている余裕もなかった。
がっしゃあん、ばっきゃあん、などという音が鼓膜をつんざき、店が大きく揺れた。車が、ガラス張りである南の壁やそれに沿うようにして置かれている設備などをはね飛ばして突っ込んできたことは、目撃できずとも理解できた。
(…………うう……)
数十秒が経過したところで、ようやく眩暈が和らいだ。四つん這いのまま後ろを振り返る。
軽SUVは南西にある陳列棚の南側、西端の手前に衝突し、少し突き動かしたところで停止していた。そのせいで南西の陳列棚は上から見ると斜めになっていて、その北西の角と準南西にある陳列棚の南側は、今や数センチしか離れていなかった。あのままあそこにいては挟まれていただろう。
(妃乃は車を停める直前に店内の光景を目にしてしまったんだな。それで気を失い、アクセルペダルを踏み込んでしまったわけだ。もう今後は車の運転はやめるように言っておこう)
辺りには肉まんの匂いが漂っていた。軽SUVが玄関の横に置いてあったショーケースを大破させ、中の肉まんを散乱させたのだ。仰向けに倒れている砂虎の腹にも一個、乗っかっていた。
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