第07/15話 悪戦苦闘

(ぐ、ぐぐ……早く、出ないと、通過してしまう、っていうのに……!)

 天井の防犯ミラーに目を遣り、外の光景を確認した。エンジン音はどんどん大きくなってきていた。数秒後、ついに道路の東のほうから車が姿を現した。

(今度こそ……!)

 紺斗は全身全霊を込めて立ち上がり始めた。あぐらをかくと体を右に傾け、右手を床につく。右腕を支えにして尻と右脚を浮かすと、右の靴の底で床を踏みつけ、しゃがむ姿勢をとった。右手を床から離すと、陳列棚の南側の棚板を掴み、腰を上げていく。

 強烈な眩暈に襲われた。上げた腰は下ろさざるを得ず、再びしゃがみ込んだ。

 その姿勢も一秒しか続かず、棚板から手を離して後ろに倒れた。尻を床につけ、脚を前に伸ばす。さいわい、寝転んだり失神したりすることはなかったが、立ち上がることはもう諦めるしかなかった。

(これが車を呼び止める最後のチャンスだったっていうのに……!)

 悔しさのあまり眉間に皺を寄せた。天井の防犯ミラーに視線を向ける。

 眉間から皺が消えた。車が駐車場に入ってきたためだ。

 よく確認すると、その車には見覚えがあった。妃乃の家のガレージで目にした物と同色同種だ。ハンドルを握っているのも妃乃だ。

(やった、妃乃が来てくれた!)絶え間ない苦痛に襲われているにもかかわらず顔が明るくなった。(そうか、元今里宅から帰る途中に寄ってくれたんだな。よし、妃乃に助けを呼んでもらおう)

 車は紺斗から見て玄関の左横に位置している駐車スペースに停まった。妃乃が降車し、玄関に向かって歩いてくる。出で立ちは以前と同じで、桃色の膝上丈スカートを穿き、紅色のコートを羽織り、肩にショルダーバッグを引っかけていた。

 扉が左右に開き、妃乃が入ってきた。紺斗は自分の存在に気づいてもらおうとして声を発した。「妃──」

 唐突に妃乃が倒れた。

「──!? ど、どうした、妃乃……!?」

 紺斗は思わず腰を上げた。激痛だの眩暈だのに襲撃されたが、怯むことなくむりやり立ち上がった。準南西・南西の陳列棚の間を抜け、カウンターの前に出て、妃乃に目を遣った。

 妃乃は左半身を下にして床に寝転がっていた。頭は西、足は東に向けている。位置は玄関扉の前で、上半身はマットからはみ出していた。

「大丈夫か……?」

 紺斗は妃乃の元に行くと、床に膝をつき、呼びかけた。どうやら失神しているだけのようだ。しかし意識を取り戻す気配はいっこうにない。

「いったい何が……」

 周りに視線を巡らし、大して時間をかけずに原因を理解した。カウンター前の床は血で真っ赤に染まり、通路の突き当りには成小路のグロテスクな死体が転がっている。そんな凄惨な光景を目撃したせいに違いなかった。

(とにかく早く起こさないと……!)

 紺斗は妃乃を目覚めさせようとしてさまざまな手を尽くした。肩を揺さぶったり頬を摘まんだりまぶたを上げたりした。耳元で可能な限りの大声を発したり、ショーケースから持ってきたミネラルウォーターを顔に浴びせたりした。

 しかし妃乃は意識を取り戻さなかった。

(ひとたび眠りにつくとめったに起きないことは知っていたが……まさかここまでとは)

 頭を抱えたくなった。今は妃乃の北側にいて、床に膝をついていた。

(さいわい強制的に目覚めさせる方法がないわけじゃない。メイロン行進曲を耳にすれば途端に起きるはずだ。

 だが、どうやって聴かせればいい? おれのスマホは使えないし……何かないか?)

 紺斗は周囲に視線を巡らした。カウンターの内側、南の出入口の手前にそびえている円い柱が目に留まる。その天井付近には防犯ミラーが設けられ、鏡面には駐車場の軽SUVが映り込んでいた。

(たしかあの車のカーオーディオにはメイロン行進曲が登録されていたはずだ。……しかし、妃乃を車までおんぶなり何なりして連れて行くことが今のおれにできるだろうか? 大怪我を負っているというのに。それに、もし途中でおれが力尽きて死んでしまった場合、妃乃にまで凍傷や凍死のリスクがある。

 じゃあ道具を使って運ぶのはどうだろう? 台車ならバックヤードに……いや、こんなに雪が積もっているんじゃ無理か。うーん、何か、妃乃を運ぶのに役立ちそうな物は売り場にないだろうか?)

 辺りに視線を遣った。床に妃乃のスマートホンが落ちているのが目に留まる。転倒した拍子にスカートのポケットから飛び出したのだろう。

(そうだ、妃乃のスマホで救急車を呼ぼう!)

 紺斗はスマートホンを拾った。手帳型ケースを開き、画面を明るくする。

(当たり前だがロックがかかっているな。まあ、この状態でも緊急電話機能は使えるようになっているはずだ。だが、このスマホはとても古い機種で、そのうえ海外ではともかく日本ではかなりマイナーなOSだからな……どうやったら緊急電話機能を起動させられるんだ?)

 紺斗はスマートホンを手当たり次第に操作してみた。しかし緊急電話機能はいっこうに見つけられなかった。

(操作方法、いくらなんでも独特過ぎるだろ……さっきはたまたまパスワード入力画面への遷移方法がわかったが、これだって一般的なOSとは──)

 唐突にスピーカーが電子メロディを流し始め、ディスプレイがロック画面から着信画面に切り替わった。発信者名は「元今里ちゃん」となっていた。

(ナイスタイミング……!)唾を飲み込んだ。(元今里に救急車を呼んでもらおう!)

 紺斗は通話開始ボタンをタップし、スマートホンを右耳に当てた。

 元今里の声が聞こえてきた。「もしもし、東本町ちゃん? 今、電話して大丈夫だったかな?」

 軽く息を吸ってから喋りだした。「も──げほっ!」唾液が気管に入った。「げっげほげほっげほおっ! 元、元おほっおほっ! だっ、だじゅっ、だじゅげえっ! えほえほっ! えほおっ! ……すーはーすーはーすーはー……」喉の回復を待った。「た、助──」

 スピーカーから、ぶつっ、という音が聞こえてきた。ディスプレイに視線を遣る。「通話終了」と表示されていた。

(電話を切られた……! 「間違えて変な人にかけてしまった」とでも思ったのか……!?)上下の歯を強く噛み合わせた。(おれの声だと気づくこともなかったな。まあ仕方ないか、むせていたし)

 すでにディスプレイはロック画面に切り替わっていた。紺斗は再びスマートホンを調べたが、緊急電話機能はどうしても見つけられなかった。

(こうなったらロックを解除して電話アプリを使って救急車を呼ぶしかない……!)むぐぐ、と唸った。(さいわい、ロックの解除は無理難題じゃない。ヒントがある。この前の土曜日、おれの家で妃乃と酒を飲んだ時、パスワードの一部を目撃したんだ。ええと……たしか八桁の数字で、最初の五桁は「89374」だったっけな。

 問題は残りの三桁だが、難しく考えることはない。虱潰しに試していけばいいんだ。「89374000」から始めて、「89374001」、「89374002」という具合に。バッテリーもじゅうぶん残っているし──)

 唐突にスピーカーが電子メロディを流し始め、ディスプレイがロック画面から着信画面に切り替わった。発信者名には電話番号が表示されていた。

(おおっ、また電話がかかってきたぞ!)ガッツポーズでもしたくなった。(元今里からではないようだが……とにかく、人と話せるなら何でもいい!)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る